4話:人間の記録
早朝のオルドヴァナは霞に覆われて薄暗い。山の向こうから太陽が顔を出すにはまだ時間がかかる。
そんな中、出門禁止令の解除された大門をひとりの男が悠々と抜けていく。
顔なじみの衛兵に軽く手を挙げて挨拶して門を抜け、しばし“石の街道”を行けば、周囲はもう大自然の山々だ。
「おはようございます。清々しい朝ですね」
そこに、ロウやスピカ達を伴って待ち構えていたアリシアが声をかけた。
男の足が止まる。何か用か、とその表情が告げている。
「ジェラルド・ニヴェール氏殺害の件で少々お話があります。よろしいですか?」
「……なにか?」
不審そうな表情の男に対し、アリシアは隣で沈痛な表情をして佇むロウに視線を向けた。
昨夜、気付いたのはロウだ。少年にはその推理を完遂する義務がある。
「昨日、ジェラルド氏は自室で喉を凶器で貫かれて殺害されました。
そのとき、部屋の扉には鍵がかかっていました。――南の小窓が開いていたことを除けば、ですが。
ただ、僕の掌ほどの小さい窓です。子供でも通り抜けられないでしょう」
ロウは一歩前に進み出て、昨晩アリシア達に明かした推理を繰り返す。
犯行当時、現場は密室だった。鍵は被害者本人と徹夜で仕事していた執事が持っていた。
一晩、誰も部屋に入ることはできなかった。それは確かだ。
「――ですが、そんな小さな窓でも“矢”は通ります」
瞬間、朝の清々しい空気が凍りついた。
対面の男は表情を変えず、感情を窺わせない目で少年を見返した。
「敷物の、倒れた氏の首のあった位置に小さな穴が空いていました。貫通した鏃が当たった痕です。
喉の傷は前から突き上げたものではなく、うなじから斜め下に突き刺さったものだったんです」
ロウは手ぶりで45度ほどをとる放物線を描いてみせた。
外から三階のジェラルドを狙えば、矢はそういう軌道を通るだろう。
「角度からして、どこぞの屋根の上から狙撃したのではないでしょうか。地上からではジェラルド氏を視認することも難しいでしょうし」
「ですが、矢はどうやって回収したのですか? 現場には残っていませんでしたよ」
アリシアの背後、証人として同行していた執事のフィルマンが思わず口をはさむ。
声に揶揄する響きはなく、理解不能な事態への困惑だけがあった。
犯行後、最初に部屋に入った男は矢を発見していない。だからこそ、今まで凶器は特定できなかった筈なのだ。
「回収していません。ただ、目に見えなくなっただけです」
ロウはかぶりを振ってフィルマンの質問に答えた。
そして、無言で此方を見つめる男に真っ直ぐに視線で貫いた。
「狩人イジドール、貴方の権能は“氷を生み出す”ものですね?」
男――昨日の朝、ロウと会話を交わした狩人は黙って頷き、その問いを肯定した。
「そうか、氷で矢を作ったのか!!」
「僕はそうだと考えました。犯行はおそらく深夜、部屋は暖炉が焚かれていましたし、氷の矢が溶けるには十分な時間だったでしょう」
言って、ロウはイジドールを見た。
昨日の朝、この場所で話しかけられ、街の自慢だという水を御馳走になった光景を思い出す。
胸の奥に得体のしれない痛みが走る。
この男はその時既に、人ひとりを殺害した後だったのだ。
「……何故」
イジドールは暫しの沈黙の後、困ったように笑った。
「何故わかったのか、お聞きしてもいいでしょうか?」
「はじめてお会いした時、貴方は矢筒を持っていなかった」
「……はは、長年の癖が仇になりましたな」
狩人は乾いた笑いを零した。
背に弓を、腰に水筒と鉈だけの軽装。昨日の朝も血抜きした鳥を吊るしていた以外は同じ恰好だった。
「よくジェラルド氏に当てられましたね」
「返済を遅らせて貰う為に、あの部屋には何度となく足を運びましたからね。間取りは頭に入ってました。
そして、何度も額を床にこすりつけているうちに、離れていても、私は彼があの部屋でどう生活しているか目に浮かぶようになったのです。そんなある日――」
乾いた笑みを浮かべたまま、深淵を覗かせる瞳でイジドールはロウを見た。
「―― 中たる、と確信したのです。だから、射ちました」
夜の暗闇の中、傾斜のある屋根の上でその瞬間を待ち、射撃する。
その上で、小窓を通し、標的の急所に正確に命中させる技量。
並の腕前ではないだろう。この都市で同じことができる者は片手の指で数えるほどしかいない。
飛ぶ鳥を落とすこの狩人の技量は正しく凄腕だ。
「…………お願いします、アリシアさん」
犯人を特定する為に必要な条件は揃った。ロウは一歩退き、主に場所を譲った。
「――法執行官アリシア・ローゼスの名において“法典”を開帳す」
アリシアが銀薔薇装丁の“法典”を掲げ、聖句を告げる。
自ら風を起こし、法典のページが高速でめくられ、あるページで止まる。
「今度の事件に於いて、ジェラルド氏を殺害せしめた容疑を神判する。
重ねて、殺意なき場合は無罪とする。やむにやまれぬ事情があった場合も同じく。
――それでも尚、この者に罪有るならば、その胸に黒薔薇を授けよ」
銀光がひと際強く放たれると同時、法典から幻想の茨が勢いよく伸びる。
それはイジドールの心臓と法典とを結び――果たして、男の胸元には黒薔薇が咲いた。
禍々しい黒色をみせるそれは、法典が男の罪を認めた証に他ならない。
該当条件を限定された法典は、それでもイジドールが被害者を殺害する為に行動したと示した。
「狩人イジドール、――汝に罪有り。
……何か言い残すことはありますか?」
胸から黒薔薇を生やしたまま、狩人は無言でかぶりを振った。
そんな狩人の様子に、心に澱のように積もったやりきれなさが少年に口を開かせた。
「イジドールさん、今回の件、誰かに見つかる危険もあった筈です。
僕には貴方がわざと己の技量を示したように思えました。違いますか?」
「……私は狩人の家に生まれ、狩人として弓の腕を磨いてまいりました。それを人間に向けて使う気はなかったのです……あの瞬間までは」
イジドールは背の年季のはいった弓を撫でると、視線をロウに戻した。
「借金の形に弓の腕を人に向けて使えと言われました。
暗殺とまではいきません。ただ、敵対者への嫌がらせに、ということでした。
ジェラルド様は銀行貴族として鳴らしておりましたが、危ない橋もいくつか渡っていたのでしょう」
「それは……」
それはある意味でジェラルド・ニヴェールの自業自得だったのかもしれない。
ロウの予想した通り、イジドールは純粋なまでに狩人だ。
それまで人間を標的にしていなかった。獲物ではなかったからだ。
だが、ひとたび人間を獲物に含めるよう言われたとき、果たしてそこに区別はあるのか。
鳥か獣か、狩人は射る獲物を選ぶことはあっても、その中で個々を区別はしないだろう。
「……貴方は何故、街を出ようとしたの?」
疑問に思っていたことをアリシアは問いかける。
男の装備はどうみても逃亡者のそれではない。逃げるつもりがないのなら何故都市を出てきたのか。
なにより、そもそも昨日の朝の時点、出門禁止令の出る前にこの男は都市外に出ていたのだ。逃げるならばその時に逃げられた。
狩人の行動の理由が少女にはわからなかった。ロウがこの場所で張り込むと言った時も本当に来るのか半信半疑だった。
「何故って仕事――狩りに出ただけですが? これまでと変わりなく」
その答えは法執行官たるアリシアをして絶句させるものだった。
「……人ひとり殺しておいて普通に生活していたの?」
「はい、私は狩人ですので」
だが、イジドールは不思議そうに首を傾げただけで、己の中で完結した理由を告げた。
昨日の朝、ロウと会った時も同じ理由だったのだろう。
真実、ジェラルドの殺害は男にとって狩りでしかなかったのだ。
「……ああ、ですが、狩人ならば狩られるのは風体が悪いですね」
寂しげに言って、何気ない仕草でイジドールの足がふらりと谷に向かって歩を進めた。
谷底にはごうごうと流れる冷たい川が流れている。落ちれば助けるのは困難だ。
「――“天罰・塩の柱”!!」
咄嗟に、ロウは己の掌を地面に叩きつけた。
応じて、地を一直線に走る黄金の光が飛び下りようとするイジドールの目の前で弾ける。
黄金の光――万物を塩に還すその輝きに、狩人の足が本能的に止まる。
だが、それだけだ。イジドールは即座に氷の矢を生成、にわかに湧き立つ冷気と共に自らの喉を突き刺そうとする。
「待っ――」
瞬間、その手を一瞬で距離を詰めたスピカが打ち払った。
手から離れた氷の矢が谷に落ちていく。
構わず、スピカは返す刀で狩人の頬を張り倒した。
ぱん、と甲高い音が朝の山間に弾けて、微かに木霊した。
「何故……何故そんな簡単に命を諦められるのですか!?」
それは常の雰囲気からは一変した少女の怒りと悲しみだった。
自分の、あるいは他者の命。どちらのことでもあるのだろう。
犯人にとって事件はその一度。しかし、法執行官は事件のたびに何度となくそれを間接体験する。
「……」
「この世は元より不平等なものでしてよ、イジドール。誰もが望むように生きられるわけではありません。
生きることは厳しく、不条理ばかりで、汚泥を啜りながら命を繋ぐ者だっておりますわ」
「だから、我慢するべきだったと?」
「いいえ、だからこそ抗うのです。“それでも”とわたくし達は言うべきなのです。
ジェラルド氏に脅迫された時点で、何故わたくしに言ってくださらなかったのですか?」
無力感に苛まれたスピカを見下ろし、イジドールの表情にも苦いものがよぎった。
安易な方法に逃げた。今更ながらにその認識が男の胸に宿っていた。
「貴方の弓にかける誇りをわたくしも万分の一くらいは理解できますわ」
「……」
「わたくしは“名無し”であっても努力をやめず、己の道を進む者を知っています。それがどれだけ辛い道であるかも。いっそ死んだ方が楽ではないかと思ったこともあります」
そこまで一息で言い切り、スピカは真っ直ぐにイジドールを見据えた。
「ですが、彼女の歩む道こそが本来、人間が歩む道なのです。神より与えられたチカラではなく、己の才覚を以て道を切り拓く。
――貴方の弓の腕もそうして磨き上げられたものではないのですか?」
「私、は……」
「貴方に残された時間は多くありません。だからこそ、思い出すのです。
貴方の弓の腕は権能によるものではない。それだけの技量に至った意味を、その最期を、殺人の手段に貶めてはいけません」
スピカは彼女の権能たる黒い手帳を取り出した。
「――“三本脚の記録”。貴方が望むなら、わたくしは貴方を記録します」
数瞬の沈黙の後、イジドールは静かに頭を垂れた。
こうして、ジェラルド・ニヴェール殺害事件は終わりを告げた。