耳が良すぎるのも困る
「ほら、持ってきたぞ」
リビングに戻って来た俺は、着替えのジャージとタオルを夜瑠に渡そうとする。
「遅かったですね。わたしの使用済みハンカチを失ったことがそれほどショックだったんですか? 気持ち悪いですね。わたしに極力触れないように渡してください」
「礼くらい言えないのかよ」
俺は押し付けるように手渡す。
「…………さ、触らないでください」
変わらず無表情の夜瑠。しかし声が微妙に上擦っていることに俺は耳聡く気づく。
照れた、とかそういうのではない。もっと別の何かに動揺して、それを隠すために慌てて喋ったという感じだ。
「ああ……悪い」
夜瑠の意外な反応に、俺は普通に謝ってしまう。
「……では、お風呂を借りますが、覗いたら、死よりも恐ろしい経験をプレゼントしますからね。もっとも、ヘタレの変態さんには必要のない忠告でしょうが」
罵倒したり憎まれ口を叩いたりする時、夜瑠は必ず、何を考えているのか読みとりにくいその無機質な瞳で、俺の目を真っ直ぐ見つめていた。
よりダメージが大きくなるよう工夫(?)した結果なのだろうか。その甲斐あって、地味に精神にきていた。普段他人からの悪口なんて全然気にしないし、夜瑠に平然と言い返していた俺だが。
しかし今の夜瑠は、これまでと明らかに違った。
露骨に俺から目を逸らし、風呂場に行くということを口実にして、背を向けて嫌味を言ってきた。
……俺は、何か変なことを言ったのだろうか?
外では散々嫌味も言ってきたが、家に帰ってからはとくにおかしいなことは口走っていないはずだ。
となると、夜瑠が気にしていることを知らない内に言っていたのか。
誰にでも触れられたくない話題や、それだけは人から言われたくないという事柄もあるだろう。とはいえ、初対面の女子中学生に対するNGワードなど、考えても分かるはずがない。
だが、ヒントはある。
夜瑠の様子がおかしくなる直前に俺が口にした言葉。
――礼くらい言えないのかよ。
夜瑠は俺が何か親切をしても、一度として「ありがとう」という意味の言葉を使わなかった。
一円にもならない礼の言葉など、俺はほしくもないが……
夜瑠にとっては、もしかして何か大きな意味を持つのではないか。
――ありがとう。
随分長い間言われたことも、言ったことも……いや、そういえば、今日夜瑠に言った。
まったく感謝の念がこもっていない、皮肉と嫌味がブレンドされて、不愉快極まりない謝辞だったが。
「……」
考えるのが面倒になった。
結局、いくら考えたところで、本当のことは夜瑠にしか分からないことである。
俺はチラッと時計を見る。
「……昼だいぶ過ぎてるな」
どうりでお腹が空いているはずだ。せっかく温めてもらったコンビニ弁当もとっくに冷えている。
温め直すか。
俺はすぐ隣にあるキッチンに行こうとして、ふいに足を止める。
「……こ、これは……」
大して広くもない自宅。無駄に耳の良い俺。
そりゃあ、聞こえるだろう。
「……お、落ち着け、俺」
他人に興味がないとはいえ、俺は健全な男子高校生だ。
食欲や睡眠欲と同様で、色欲も当然人並みにはあるわけで――
少しシャワーの水圧を上げたのが分かった。
……って、俺の耳おかしいだろ!
たしかに意識したせいで集中してしまったが、いくらなんでもドアとか閉めてある風呂場の音がそんなに正確に聞こえるはずがない。
……いや、俺ならそのくらい余裕か。
十五年以上もこの異常に良い耳と付き合ってきているのだ。どんなことができるかくらい把握している。
「これって、わりと風呂場の近くまで行ったら、どんな感じで身体洗ってるかとまで分かりそうだな……」
思わず口をついて出た自分の言葉に、俺は呆れる。
ない!
あんなつるぺた中学生に欲情するとか、絶対にありえない。
年齢的には二歳しか変わらないが、見た目がガキ過ぎる。
たしかに性格はともかく、容姿は可愛い方だろう。髪も長くて綺麗だし、碧眼も思わず見惚れてしまうほど美しかった。
だが、ない!
あんなブラも必要なさそうな中学生……
「……そういえば、あいつ下着はどうするんだ?」
だいぶ汗をかいていたため、下着も汗で湿っているだろう。そうでなくとも、一度身に付けていたものを、もう一度着るのは抵抗があるはずだ。女の子ならなおさら。
……下着なしで、ジャージの上下だけ?
「だ、だから、何だよ!」
なぜか声に出した俺。もうこのことについては、考えない方が賢明かもしれない。
……よし、弁当温め直そう。




