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本当の名前

「痛てぇよ」

 俺はペットボトルが当たった額を擦りながら言う。


「あなたが嘘つくからです」

「……なんで、今後会う予定もない中学生に名乗る必要があるんだよ」

「だからって、偽名はひどいです。最低ですね。わたしに借りを返させず、一生モヤモヤしたまま過ごせということですか? 悪趣味ですね。軽蔑します」

 捲し立てるように次から次へと飛び出す罵倒。どうやらもう元気そうだ。


「分かったよ。じゃあ、今から人気のないところでも行くか?」

「……はっ? 今、何と言いました? わたしの聞き間違いですよね……?」

 珍しく少女――夜瑠は狼狽えていた。あまり表情に出てはいなかったが。


「二度も言わせるなよ。今から人気のない場所に行こうって言ったんだ」

「変態。色情魔。クズ。ロリコン。人気のない場所でわたしに何をする気ですか?」

「何って……想像つくだろ?」

「え……そこは弁解する場面ですよ! え、ちょ……冗談ですよね?」

 今度は目に見えて動揺した夜瑠。ようやく子供らしく感情を押し殺さず、そのまま素直に顔に表れていた。状況はともかく。


 ……それにしても、笑いを堪えるのって、結構大変なんだな。

 先程の言葉は、もちろん冗談。冗談だ。……大切なことなので二回言った。

 どうもこの夜瑠という少女は、からかい甲斐があるせいか、ついおかしなことを言ってしまう。


「だ、黙ってないで何か言ってください。変態さん」

 急に俺が黙り込んだので、逆に不安を覚えたのだろう。夜瑠は心なしか必死な口調になっていた。

 理由は知らないが、やはり意図的に無表情、無機質な口調を貫いていたらしく、ここにきてだいぶ鍍金が剥がれてきた。


 さすがに怖がらせ過ぎたか。

 他人にほとんど興味がないとはいえ、罪悪感がないわけではない。

 俺は冗談だと打ち明けようとして、改めて夜瑠を見やる。


「健全な男子高校生の頭の中は、大抵不健全なものだからな」


 ……あれ?

 不安そうな夜瑠を見た瞬間、俺の中にもう少しだけ意地悪したいという気持ちが芽生えていた。そんな感情生まれてこの方一度も持ったことがないはずなのに。


「……変態ですね。気分が悪いです。帰ります」

 心の中にある何かのメーターの針が振り切れたのだろうか。夜瑠は急にゴミクズでも見るような冷酷な眼差しを向けてきた。


「……お、おう」

 俺に背を向けた夜瑠は、しかしすぐには帰ろうとせず……何か葛藤しているような感じで、その場にしばらくとどまっていた。そして勢いよく振り返ると、

「連絡先を一方的に教えてください。そこの変態さん」


「断る」

 正直、別に教えてもいいと思ったが、今更素直に了承するのはどうなのだろうか?

 なぜか負けた気がしそうだったということもあり、即行で拒否した。普段なら他人に負けようがまったく気にしないはずなのに。


「こんなに可愛い女子中学生に連絡先を尋ねられて断るなんて、それはそれで変態さんですね。男色系の方ですか。気持ち悪いです」

 短い間に罵倒され過ぎたせいか、反論するよりも先に、自分が可愛いという自覚はあるのか、と俺は思ってしまう。慣れとは怖いものだ。


「おいおい。さっきの発言で俺がそっち系でないことは、証明されたも同然だろ。何バカなこと言ってるんだ」

 人気のない場所に女子中学生を連れ込む発言(冗談)が役に立つなんて思いもよらなかった。


「両性愛者という可能性は残っています」

「知るか!」

 何の役にも立たなかった。

 この中学生は本当に何を言っているんだか。思わず結構本気でツッコみを入れてしまう。


「悪いが、付き合いきれん。帰るぞ」

「待ってください」

「嫌だ」

「では、尾行します」

 言ったら尾行ではない気がする。


「付いてくるな。変質者」

「どうしたんですか、いきなり。自分に付いてくるな、なんて無茶ぶりをして」

「誰が変質者だ。変質者はおまえのことだ、五十棲」

「わたしのどこが変質者なんですか?」

「さっきストーキング宣言してただろ」

「どこの世界に可愛い女子中学生を変質者と勘違いする人がいるのですか? バカなんですか?」

 くっ、確かに、女子中学生がストーカーだとは、なかなか思わないな。


「少なくともおまえよりは頭良い自信がある」

「友達がいないと、勉強しかすることがありませんからね。当然です」

「人のこと言えるのかよ。おまえだって友達いないんだろ?」

「いないのではありません。必要ないので作ろうとしていないだけです」

「そういうのを世間ではボッチって言うそうだぞ」

「変態でロリコンの両刀よりは数億倍マシです」


 り、両刀? ああ、両性愛者のことか。

 ……って、どうしてこの中学生はそんな言葉を知っているのだろうか?


「変態でもロリコンでも両刀でもない。俺は健全な男子高校生だ。いい加減にしろよ、マセガキ」

「ま……マセてなんていません。同世代の子供に比べたら、知識量が多かったり、分別があるだけです。何一つけなされるようなことではないですよね? それは」


「……」

 俺は我知らず溜息を吐いた。

 何かもう面倒臭いと思ったからだろう。

 でも、同時にたまにはこういうのも悪くないかもしれない、そう思う自分がいることにも気づいていた。


 他人に興味がないからといって、一人で生きていけるなんて自惚れた考えを持っているわけではない。ろくに口も利かない父親にだって学費や食費、その他諸々で世話になっているし、随分前に出て行った母親にも生んで育ててもらった大恩がある。

 両親の離婚が、俺の性格に悪影響を及ぼしていないといえばきっと嘘になるだろうが、それでもいつまでもそれを言い訳にはしていられないだろう。

 人間なんて面倒で厄介で、わざわざ好き好んで接しようとは思わないけど、本当に久しぶりに少し気になる少女に出会った。

 いや、別に好きとかそういうのではなく。

 単純に自分と似ているから、少しだけ興味が湧いた。


 ……そろそろ一歩くらい踏み出さないといけないのかもな。


「小夜橋健斗」


「え?」

「俺の本当の名前だ」

「そ、そうですか。変態さんの本当の名前ですか」

「ああ。だから、もう変態さんとか言うなよ。人聞きが悪いから」

 もし誰か聞いてて、通報されたら、シャレにならないからな。


「いいえ、断ります。わたしはあなたのことを、今まで通り変態さんと呼びます」

 夜瑠はわずかに頬を緩めてそう言った。


 このマセガキ……

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