婚約者の名で十年働いた私、最後の仕事は自分の婚約解消です
1. 最後の一覧
婚約者としての最後の仕事は、自分の婚約を解消することだった。
十年使った銀の名代印を机の脇へ置き、私は引継ぎ一覧の最終行を見直した。
北倉庫の小麦、二百八十袋。南倉庫の薪、十二月分まで発注済み。領都西側の橋は仮補修を終え、本工事の入札期限が来月七日。使用人の冬季給金は、明日の正午までに家印で決裁する必要がある。
どれも、私がいなくなったからといって止めてよい仕事ではない。
暖炉には火が入っていた。それでも指が冷えるので、私は薄手の手袋をしたままペンを持っていた。近頃は、素手よりこちらの方が字が乱れない。
「最後の担当者欄が空いております」
家令補佐のマルタが、机の向こうから言った。
「分かっています」
私はいつものように自分の名を書きかけ、止めた。
そこは、冬越し期間中に発生する緊急支出の決裁担当だった。これまでなら私が引き受けた。今回もそうすれば、使用人も商人も困らない。
けれど、その欄まで埋めたら、私は解消後もロゼルヌ家の仕事を続けることになる。
「公爵家で決めていただく欄です」
そう答えると、マルタは一度だけ唇を結び、それ以上は勧めなかった。
扉が叩かれ、王都からの急使がジュリアンの手紙を届けた。
親愛なるエリシアへ。
書き出しは、十年前から変わらない。ヴァルカ領の債務整理が予想より難しく、幼馴染のセリーヌをもうしばらく助けたい。帰領は一月ほど遅れる。冬支度はいつも通り君に任せる。君なら一人でも大丈夫だと信じている――。
最後に、春には婚礼衣装を決めよう、とあった。
紙を持つ右手が震え、インクの乾いた文字がかすかに鳴った。
「お嬢様」
「大丈夫です」
口にしてから、私は手紙を置いた。
大丈夫かどうかを、確かめたことはなかった。ただ、そう答えると次の仕事へ進めた。それだけだった。
「いいえ。正しくありませんね」
私は引継ぎ一覧、財務分離表、婚約解消の意思通知を順に重ねた。封筒は三つ。ジュリアン本人へ一通、王立会計院の地方支部へ一通、私の実家であるフェルン伯爵家の法務代理人へ一通。
婚約解消には、意思通知、財務分離、閉印の三つの手続が要る。ジュリアンが不在でも、会計院の立会いで進められる。私はそのことを半年前から調べていた。
「明朝一番の便でお願いします。会計院宛てには、財務分離監査の申請書も入っています」
「承知しました」
マルタは三通を抱え、扉の前で振り返った。
「今夜の残りは、どなたがなさいますか」
私は空白の担当者欄を見た。
「ロゼルヌ家の責任者です」
それが誰になるかまで、私が決める仕事ではなかった。
廊下を遠ざかる足音を聞きながら、私は銀の名代印を机の中央へ移した。取り消すなら今だった。馬車が出るまでなら、まだ間に合う。
やがて中庭で車輪がきしんだ。
私は立ち上がらなかった。
2. 監査灯
二日後の朝、王立会計院から二人の男が来た。
濃紺の外套を着たルシアン・ハルト監査官と、書記のオスカー・リム。ルシアンは銀縁の監査灯を、オスカーは封印箱と記録板を持っていた。
文書庫へ入る前に、ルシアンは手袋を外した。
「監査の目的は、婚約解消に伴う財務と権限の分離です。質問へ答えたくない場合は、そう仰ってください。回答を拒んだだけで不利には扱いません」
「回答がなくては、監査が進まないのでは?」
「進み方が変わります。拒否を同意へ読み替えることはありません」
妙に手間のかかる話し方をする人だと思った。
ジュリアンなら、私が返事をする前に「君なら分かるだろう」と先へ進む。私は分かる側でいるために、考えるより先にうなずいてきた。
「承知しました。原本はこちらです」
最初に選ばれたのは、昨冬の小麦買付書だった。表にはロゼルヌ公爵家の金の家印と、ジュリアンの署名がある。
ルシアンが監査灯へ火を入れた。白い炎が紙を透かし、金の印の下から、細い青白い線が浮かび上がった。
一本ではない。
依頼書の起草、前年価格との照合、商人三家の見積比較、輸送費の検算、倉庫受入数の修正、最後の印力供給。六つの層が、紙の中で重なっていた。
どれも、私の名代印と同じ色だった。
「全工程が、同一人物ですね」
オスカーが記録板へ書き込む。
「ジュリアン様は王都にいらしたので、私が補助しました」
いつも通り説明すると、ルシアンは紙から目を上げた。
「用語を訂正します。補助ではありません。家印の最終責任者が別にいる状態で、起草から印力供給まで担った実務代理です」
「結果は同じでは?」
「いいえ。補助と呼べば、報酬も権限も責任も曖昧になります」
ルシアンは名代契約書も確かめた。
「この広さの職務なら、あなたが範囲を指定して更新申請を出した記録があるはずですが」
「申請はしていません。ジュリアン様が署名した更新紙を渡され、必要な案件番号を私が書き足しまし
た」
「あなたの判断で権限を広げた、と理解していました」
「違います。空欄のまま渡されたのです」
彼は一拍置き、オスカーの記録板を自分の方へ向けた。
「今の推定を撤回します。監査官の初期認識として、私が誤っていました。訂正記録を残してください」
オスカーが時刻と理由まで書き込む。ルシアンに不利になるかもしれない誤りなのに、彼は声を低くしてごまかさなかった。
正しさとは、最初から間違えないことではなく、間違いを誰の責任か分かる形で直すことなのかもしれ
ない。
彼は私を褒めなかった。哀れだとも言わなかった。ただ、間違った名前を正しい場所へ戻した。
それがなぜか、称賛より深く胸へ残った。
オスカーが監査灯を横からのぞき込んだ。
「紙に残った指紋の順番を見ているようなものです。ただし、これで分かるのは誰が触れたかだけです。嫌々だったか、喜んでいたか、仕事が正しかったかまでは分かりません」
「便利すぎないところが、会計院らしいですね」
私が言うと、オスカーは笑い、ルシアンは真顔でうなずいた。
「証拠は、分からない範囲を守るためにもあります」
彼は文書庫の棚を見渡した。
「十年分の原本を保全したい。封印中は、あなたも公爵家も、私たちの立会いなしには動かせません。許可しますか」
胸の奥がざわついた。ここは十年、私が守ってきた場所だった。鍵を渡すのは、仕事を奪われるようで怖かった。
けれど、鍵を持ち続ける限り、原本に何かあれば私が走ることになる。
「許可します」
私は文書庫の鍵を机へ置いた。
ルシアンはすぐに取らず、私の手が離れたのを確認してから受け取った。
その日の昼までに、同じ青白い層が二十三枚から見つかった。
問題は、一枚の買付書ではなかった。
棚全部だった。
3. 十年の名代
監査は四日目まで続いた。
十年を一枚ずつ読み返していたら、冬が終わってしまう。そこでルシアンは、仕事の種類が異なる三件を選んだ。
農家へ春の種を貸す種子台帳。領都西側の橋を直した契約書。そして、使用人の給金と冬季配置を記した表。
種子台帳には、凶作の予測と貸付量の計算があった。橋の契約書には、職人三組の見積と、増水期を避ける工程表。給金表には、病欠した者の穴を誰が何日埋めたかまで残っていた。
いずれも最後の家印はジュリアンのものだった。
その下に、私の印跡があった。
オスカーは仕事札を六つに分けた。会計、調達、人事、救済、検算、対外連絡。
「多少の重なりはありますが、おおむね六職分です」
「未来の公爵夫人なら、誰でもすることではありませんか」
私が尋ねると、ルシアンは給金表を指した。
「舞踏会への出席や、屋敷の献立確認なら、婚約者として期待される家政補助に入るでしょう。しかし徴税、雇用、公共工事、予算執行は専門名代労務です」
「私は十六の頃から手伝っていました」
「最初の四年は見習い職歴として扱えます。実質運営した直近六年については、同等官吏の標準給を請求
できる可能性が高い」
六年分。
思いがけない金額に驚くより先に、私は最初の四年は戻らないのだと考えた。
オスカーが示した仮算定は、六職それぞれの給金を足した途方もない額ではなかった。職務には重なりもあり、私自身も見習いだった期間がある。基準になるのは、上級実務官一人分の六年の給金と、長く支払いを留めた利息だった。
それでも、王都で小さな部屋を借り、治療を受け、次の仕事を急がず探せるだけの額になる。
お金で十年は返らない。だが、お金でしか返せない責任まで、思い出という言葉に包んでよいわけでもなかった。
十六歳の私は、頼られることが嬉しかった。病弱だった姉の代わりに家で手をかけさせなかった時と同じだ。何も求めず、先に気づき、できることを増やせば、そこにいてよいのだと思っていた。
「お嬢様は、未来の奥様だからなさっていたのではありません」
マルタが給金表を開いた。
「会計係が辞めた月も、調達主任が倒れた冬も、後任が雇われなかったからなさったのです。こちらが欠員の記録です」
彼女は私のために怒鳴らなかった。欠員日、勤務時間、未処理件数を、一つずつ読み上げた。
事実だけで十分だった。
「六人分というのは、大げさです」
「六人の働き方を一人で完全に再現した、という意味ではありません」
ルシアンが言った。
「六つに分けて管理すべき責任を、一人へ戻していたという意味です。ですから、これは称賛ではなく訂正です。同じ配置を今後も続けてはいけない」
また、訂正。
彼は私の有能さを、新しい仕事の理由にしなかった。
監査灯へ名代印をかざそうとした時、右の人差し指が動かなかった。握り直すと、今度は細かく震え、灯の青い線が紙から外れた。
「休みましょう」
「冷えているだけです」
「それを私が診断することはできません。会計院の医務官へ確認を依頼しても?」
ルシアンは、ここでも先に尋ねた。
私はすぐに大丈夫だと答えかけたが、青い仕事札が六枚並ぶ机を見た。
「監査を止めない範囲なら」
「止める必要があれば止めます。期限より、証言者の手の方が交換できません」
その言い方は少しおかしかった。
「監査官は、人を備品のように数えるのですね」
「備品なら交換できます。比較が不適切でした」
真面目に訂正され、私はほんの少し笑った。
オスカーが咳払いをして、別の原本を差し出した。
「ヴァルカ領から照会が来ています。この原本番号にも、エリシア様の検算痕があるそうです」
ジュリアンが助けているという、セリーヌの領地。
私は、その仕事までした覚えがあった。
ただし彼からは、「幼馴染の小さな頼みを、急ぎで見てほしい」としか聞いていなかった。
4. 守られる女
五日目の昼、セリーヌ・ヴァルカ子爵夫人が自ら原本を持ってきた。
若くして夫を亡くした、ジュリアンの幼馴染。噂では、細い肩で幼い娘と領地を守る、か弱い未亡人だった。
実際の彼女は、重い封印箱を従者から受け取ると、保管記録を一枚ずつオスカーへ確認させた。
「まず、私が何を頼んだかを記録してください」
椅子へ座るなり、セリーヌは言った。
ルシアンが質問した。
「ジュリアン・ロゼルヌ殿へ依頼した範囲は?」
「亡夫の債務表の読み方と、王都の債権者を紹介していただくこと。それだけです」
「依頼しなかったことは?」
「債権者との条件交渉。家臣の任免。娘の後見人選び。私の名で出すはずだった手紙の起草です」
柔らかな口調だったが、一語ごとに境界が引かれた。
「ジュリアン様は、あなたを助けようとされたのでは」
私が言うと、セリーヌは灰色の瞳をまっすぐこちらへ向けた。
「助けを求めたのは事実です。でも、私の代わりに決めてほしいとは申しておりません」
その言葉は私にも向いていた。
私は彼女を、守られる側の人だと思っていた。ジュリアンがそう扱っているから、そうなのだと。
監査灯がヴァルカ家の原本を照らした。赤い家印の下に、見慣れた青白い検算痕が浮かぶ。
「これは私です」
「ええ」
セリーヌはうなずいた。
「三か月前、ジュリアンから『信頼できる者に見せた』とだけ聞きました。あなたのお名前は、今回初めて知りました」
私は書類の内容を思い出した。債務の返済順を整理し、農地を手放さずに済む案を添えた。夜中までかかったが、ジュリアンは翌朝、助かったと笑った。
セリーヌは、私の仕事を奪った人ではなかった。
彼女もまた、自分の仕事を「心配だから」という言葉で奪われかけていた。
「私は、あなたへ謝るべきでしょうか」
「私の書類があなたへ回されたことを、あなたが知らなかったのなら、存在を謝っていただく理由はありません」
口にすると、胸の内に長く張っていた糸が一本ほどけた。
「ただ、原本の提出と証言はお願いします」
「そのために来ました。私は、私の統治権を守りたいのです」
セリーヌは証言書を読み、ジュリアンでも亡夫でもない、自分の名で署名した。
「同じように、家の名の下へ仕事を隠された方は、ほかにもいるのでしょうか」
セリーヌの問いに、ルシアンは即答しなかった。
「いる可能性は高い。ただし、全員が同じ事情だとは決められません。原本と本人の意思を、一件ずつ確かめる必要があります」
「では私は、未亡人が自分で原本を読む方法を学びます。次に誰かへ尋ねる時は、何を頼み、何を頼まないか、紙に書けるように」
守られることを拒んだ彼女は、今度は誰かを一方的に守る側へ回ろうとはしなかった。方法を渡し、選ぶのは本人に任せようとしていた。
友人になったわけではない。慰め合いもしなかった。
ただ、互いを誰かの婚約者と幼馴染ではなく、書類へ自分の名を書く者として見た。
その時、廊下から急使が入った。
ジュリアンが意思通知を受け取り、帰領を早めたという。
到着は、二日後だった。
5. 疲れたと言う日
セリーヌが帰った後も、私は文書庫へ残った。
ジュリアンが戻る前に、すべて終わらせたかった。話し合えばまた、「今回だけ」と頼まれる気がした。私はその言葉に弱い。今回だけを十年積み重ねたのは、ほかならぬ私だった。
帳簿の数字を書き写していると、ペン先が横へ滑った。
「そこ、桁が一つ違います」
オスカーの声に、心臓が強く鳴った。
私が数字を間違えた。
「すぐ直します」
消し砂へ手を伸ばしたが、指が震えて容器を倒した。白い砂が黒い机へ広がった。
ルシアンが監査灯を消した。
「本日の作業を止めます」
「必要ありません。今のは一度だけです」
「一度を記録し、原因を確認するのが監査です」
呼ばれた会計院の医務官は、私の指を温め、印力の流れを調べた。
「長い間、強い印を支え続けた方に出る冷えと震えです。今後まったく働けないわけではありません。た
だ、同じ量を同じやり方で続ければ悪化します」
休息、保温、一度に扱う原本数の制限。他人へ任せること。
処方の最後だけが、ひどく難しく聞こえた。
「明日の朝までに、この棚だけは終えます」
「選択肢を三つ提示します」
ルシアンは私からペンを取り上げず、机の上に置いたまま言った。
「今夜続ける。明日に延ばす。オスカーと私が、あなたの説明を録音紙で受けて整理する。どれを選んでも、監査上の不利益はありません」
「私が続けるのが一番早いです」
「早いことが、あなたの希望ですか」
答えが出なかった。
早ければ誰も困らない。私が終えれば間違いがない。そう考えることには慣れている。
けれど、私は疲れていた。
その四文字を認めるのに、十年かかった。
「……明日の九時にしてください」
「承知しました」
文書庫は崩れなかった。ルシアンは失望しなかった。オスカーは記録板へ、再開は明日九時、とだけ書いた。
ルシアンが湯の入ったカップを、私の手が届く場所へ置いた。触れようとはしなかった。
「あなたは、いつもそこまで慎重なのですか」
「以前は違いました」
彼は監査灯の鎖へ一度触れた。
「初めて担当した名代事件で、証言者へ私的な助言をしました。善意のつもりでした。相手側に中立性を
疑われ、監査結果が半年止まりました。助けたかった人の救済を、私が遅らせた」
「それで、何もしないことにしたのですか」
「そう思った時期もあります。ですが、何も尋ねないことを尊重と呼べば、見ないふりと区別がつきません」
湯気の向こうで、彼は視線を伏せた。
完璧だから慎重なのではない。間違えたことを、なかったことにしないために慎重なのだ。
「明日、九時ですね」
私が確認すると、彼はうなずいた。
「九時です。それまでは、ここへ戻らないでください」
「命令ですか」
「医務官の指示の復唱です。私の権限ではありません」
また訂正され、私は笑った。
その夜、十年ぶりに、仕事を残したまま眠った。
6. 帰還した婚約者
七日目の午後、ジュリアンは泥のついた旅装のまま広間へ入ってきた。
「エリシア」
名を呼ぶ声は、昔と同じように優しかった。
「こんなことを、会計院まで入れて決める必要はないだろう。二人で話そう」
「財務分離の記録が必要です。ハルト監査官とリム書記に立ち会っていただきます」
「僕を信用できないのか」
その問いに、十六歳の私ならすぐ首を振っただろう。
「信用の話と、記録の話は別です」
私は用意した四冊の記録を示した。六領域の職務一覧、直近六年の名代労務、セリーヌの証言、私の手の医務記録。
ジュリアンの顔から、旅の熱が少しずつ引いていった。
「僕は、君の能力を信じて任せていた」
「はい」
「不満があるなら、言ってくれればよかった。君はいつも大丈夫だと言った」
「それも事実です」
ルシアンも、オスカーも口を挟まない。
「私は、必要を言えば面倒な人間になると思っていました。先に気づいて、何も求めず、役に立てば、愛されると思っていたのです。言わなかった責任まで、あなたへ渡すつもりはありません」
ジュリアンの目に、わずかな希望が戻った。
「なら、これから言えばいい。僕も聞く。やり直せる」
「ですが、私の沈黙は、無期限に、無報酬で、確認もなく仕事を増やしてよいという同意ではありません」
ルシアンが監査灯をつけた。
「印跡で証明できるのは、フェルン嬢が起草、検算、印力供給を担ったことだけです。愛情、悪意、強要の有無は判定できません」
彼は私の代わりに断罪しなかった。
オスカーが六枚の仕事札を並べた。
「ただし、公爵家が六領域を同一人物へ集中させ、正式な職員を補充しなかったことは、給金表と欠員記録でも一致します」
ジュリアンは札を見つめた。
「橋の工事まで、君だったのか」
「見積と工程を決めたのは私です。最終印はあなたです」
「セリーヌの債務表も?」
「あなたが、小さな頼みだとおっしゃったので」
彼は額へ手を当てた。
「セリーヌは一人では難しいと思った。夫を亡くしたばかりで、娘もいる。僕が必要だと思ったんだ」
「私は一人でも平気だと思った」
「君は、何でもできるから」
「だから、尋ねなかったのですね」
ジュリアンは答えなかった。
私は彼が嫌いではなかった。十六歳の頃、失敗した計算を笑わずに待ってくれたことを覚えている。王都の舞踏会で、知らない人ばかりの私へ最初に温かい飲み物を持ってきてくれたことも。
おそらく彼も、私を愛していたのだろう。
ただ、その愛の中にいたのは、彼を支え、留守を守り、何も求めない未来の妻だった。
「僕は、僕たちの未来を大切にしていた」
「私が今、どんな仕事を好きか、ご存じですか」
彼の唇が動き、止まった。
「私の手が、いつから冷たかったかは?」
答えはなかった。
「未来の私を大切にしてくださったことは、否定しません。でも、今の私を知ろうとしなかったことも、なかったことにはできません」
私は引継ぎ一覧を彼の前へ置いた。
最後の担当者欄は、空白のままだった。
「これだけは埋めてくれ」
ジュリアンは、ほとんど反射で言った。
「君が一番よく分かっている。後任が決まるまででいい」
以前の私なら、断れなかった。
領民が困る。使用人が迷う。彼も今は疲れている。理由はいくらでもあった。
「いいえ」
声は思ったより静かだった。
「冬越しの主要発注と案件別の引継ぎは完了しています。採用、給与、緊急決裁者を決めるのは、家印の責任者であるあなたの仕事です」
銀の名代印を、机へ置く。
「十年間、お預かりしました。本日、返納します」
印を離しても、指先の冷えは消えなかった。肩が軽くなることも、胸が晴れることもなかった。長く持ちすぎたものを手放した後には、重さの代わりに、何を持てばよいか分からない空洞が残るらしい。
それでも私は、その空洞を埋めるために印を取り戻そうとは思わなかった。
ジュリアンはすぐには手を伸ばさなかった。
やがて、自分で受領書を引き寄せた。署名するペン先が、一度だけ止まる。
「君を愛していた」
かすれた声だった。
「はい。けれど、それは戻る理由にはなりません」
彼は受領書へ署名した。
空白の担当者欄と名代印は、机の向こう側に残った。
私はそれを埋める人を探さず、広間を出た。
7. 閉印
意思通知から三十日目、会計院支部で婚約登録印を閉じた。
赤い封蝋の上に並んでいた二人の印を、書記官が別々の箱へ納める。これで、共同名義は終わった。
不思議なほど静かだった。
泣き声も、罵声もない。十年を閉じる音は、小箱の蓋が二度鳴っただけだった。
直近六年の専門名代労務には、同等官吏の標準給と利息が認められた。少なくない額だったが、十年分ではない。冷えた指も、断った友人との約束も、誰にも名前を知られず働いた時間も戻らない。
それでも、職歴証明の一行目には、私の名があった。
エリシア・フェルン。領地会計、公共調達、人事配置、救済貸付、契約検算、名代執行。
他人の家印の下ではなく、私の名で書かれていた。
私は報酬の一部で、会計院支部に近い小さな部屋を借りた。大広間も客室もない代わりに、机の置き場
所と、朝に光が入る窓を自分で選べた。医務官へ通う費用を一年分取り分け、残りは次の職が決まるまでの生活費として預けた。
自由は美しい言葉だけでは続かない。家賃と診療費と、断った仕事の分だけ減る貯金が必要だった。だからこそ、支払われた報酬は謝罪より具体的に私を支えた。
ジュリアンは爵位を失わなかった。
会計院へ提出された是正表によれば、暫定職員を正規給与で雇い、六領域それぞれに担当者を置いたという。緊急決裁は自分が行い、遅れが出れば自分の名で説明する。
彼から謝罪の手紙は来なかった。
代わりに、私へ戻されるはずだった仕事が、一件も来なかった。
それでよかった。
閉印から二か月後、私は王立会計院の公開選考を受けた。
新設された名代権監査官の席は三つ。筆記、原本判定、現場面談があり、最終結果が出るまで、ルシアンとは仕事以外の話をしなかった。
採用通知には、選考委員の一覧と忌避記録が添えられていた。
ルシアン・ハルト――制度提案者。利害関係の可能性により、問題作成、推薦、採点、採否閲覧の全てから除外。
自分の名で得た職だと、疑わずに済むように。
通知を受け取った日の夕方、本庁の廊下で彼に会った。監査中と変わらない濃紺の外套を着ていたが、監査灯は持っていなかった。
「採用、おめでとうございます」
「ありがとうございます。選考から外れてくださったことも」
「礼を言われることではありません」
「では、訂正します。安心しました」
ルシアンは少しだけ笑った。
「一つ、許可を求めてもよいでしょうか」
「目的と、断った場合の不利益を先にお願いします」
私が言うと、彼は困ったように眉を下げた。
「私から、仕事ではない手紙を送ってもよいでしょうか。断っても、返事をしなくても、あなたの職務に
は何の影響もありません」
「監査書類は?」
「入れません」
「制度改正案も?」
「入れません」
それでは、何を書くのだろう。
分からないことが、少し楽しみだった。
「まず、一通なら」
「一通」
「読んだあと、二通目を許可するか決めます」
「承知しました」
彼は監査の時と同じように、私が言い終えるまで先へ進まなかった。
最初の私信は三日後に届いた。
仕事の書類は、本当に一枚も入っていなかった。
8 私の名の印
あれから、およそ一年が過ぎた。
「フェルン監査官、こちらの原本も今日中に確認なさいますか」
机の向こうで、補佐官が尋ねた。
以前の私なら受け取っていただろう。今の私は予定表を見た。午後には医務官の定期確認があり、明日は休暇だった。
「いいえ。起草者への追加質問をまとめて、明後日の午前に回してください。一次照合はあなたへ任せます」
「承知しました」
私は自分の名の印を、午前最後の監査報告へ押した。
指先の冷えは、まだ残っている。原本を続けて扱えば震える日もある。だから一度に見る数を決め、室内でも手袋をし、仕事を人へ渡す。
治ったのではない。
私の手を、私の責任で使うようになったのだ。
セリーヌは未亡人向けの財務講座を始めた。最初の案内状には、助けを求める方法と同じ大きさで、助けの範囲を決める方法が書かれていた。
マルタはロゼルヌ家の人事主任になり、正規の給与を受け取っている。
ジュリアンの領地は、六人の担当者と一人の決裁者で冬を越した。完璧ではなかったらしい。橋の入札が一週間遅れ、彼は商人たちの前で自分の名の遅延報告を読んだという。
私は、その報告書を直していない。
ルシアンから届いた最初の手紙には、好きな食べ物を尋ねてもよいか、とだけ書かれていた。
私は焼き林檎と答え、あなたは、と書き添えた。
五通目には、私が休暇を持て余して、結局台所の棚卸しをしてしまった失敗を書いた。役に立たない話で申し訳ないと結んだら、彼からは「役に立たないので、続きを希望します」と返事が来た。
冬には、互いの仕事が重なって三週間会えなかった。以前の私なら、相手の予定へ黙って合わせただろう。けれど私は、会えないのは寂しい、次の休日を一緒に決めたい、と書いた。
彼は候補日を三つ寄越した。
私たちは、そうして一つずつ、仕事にならないことを相談した。
その日、庁舎を出ると、ルシアンが階段の下で待っていた。
「勤務は終わりましたか」
「終わりました。そちらは?」
「終わらせました」
「珍しいですね」
「訂正します。あなたに会う日は、終わらせるようになりました」
夕暮れの街を並んで歩いた。机の向かいに座っていた頃と違い、彼の歩幅を知っている。私が手袋を替えた日には気づくが、勝手に手を取らないことも。
川沿いの小さな広場で、ルシアンが立ち止まった。
「私的な質問をしても?」
「内容によります」
「私と結婚していただけますか」
彼は指輪の箱を出したが、開いて見せるだけで、私の手へ近づけなかった。
「今すぐ答えなくても構いません。仕事を変える必要も、姓を変える必要もありません。私の希望は伝えますが、条件は一緒に――」
「ルシアン」
私が名を呼ぶと、彼は言葉を止めた。
私は一人でも暮らせる。自分の名で働き、自分の給金で部屋を借り、休む日も決められる。
そのことを、もう証明する必要はなかった。
「仕事を続けたいです」
「はい」
「指揮系統は、これまで通り別に」
「私もそう望みます」
「それから、週に一度は、二人とも書類を持たない時間を作りたいです。守れない週は、黙って諦めず、次を相談すること」
ルシアンは一つずつ聞いて、うなずいた。
「ほかには?」
「今は、それだけです。必要になったら言います」
「私も言います」
私は手袋をした手を、自分から差し出した。
「その条件で、あなたと結婚したいです」
彼は初めて、私の手に触れた。
翌週、私たちは二冊の予定表を開いた。
空いている午後へどちらかが先に予定を書き込むことはせず、二本の鉛筆を寄せ、互いの希望を一つずつ確かめた。




