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上等だとか下等だとか

作者: MITSU

 陽炎が立ち上っているんじゃないかと錯覚するほどに、太陽がぎらついていた。どこまでも続く道路は白く反射して、まっすぐ前を見据えようとする視界を眩ませる。北の大地と言えど夏は本州と同じように暑いことを、私はこの片道切符の旅で初めて知った。

 外の世界に反して冷房を効かせた車内は鳥肌が立つほどに寒い。冷房の風が直接肌に当たるのが不快で、手を伸ばして風向を天井に向ける。車には冷房がついていてよかった。昼ご飯を食べた定食屋ではエアコン自体が存在せず、汗だくになりながら親子丼を食べた。急速に進行していく温暖化に人間の方が追いつけていない状況がおかしくて、食べている間ずっと腕にびっしりと浮き上がる玉のような汗を見せ合って笑っていた。年老いた老夫婦がやっていたあの定食屋はいつまでエアコンなしで粘るのだろう。優しく善良だった彼らの姿を思い浮かべながら、もしかしたらこの先買うことなく、ということもあるのかもしれないと思うと少しだけ胸がきしむような気がした。

 車はもうかれこれずいぶん長い間走り続けている。ブルートゥース接続で私の携帯から流しているアルバムは四度目のリピート再生に入った。そろそろ他のアルバムに変えようか。助手席で揺られながらぼんやり外を眺めたり、スマホで全く興味のないニュースサイトを見ているだけの私は楽だが、隣でハンドルを握り続けている那津弥≪なつや≫くんは疲れていないだろうか。

 視線だけを横に流し、ちらりと那津弥くんの様子を窺う。瞳を見通せないほど濃い色のサングラスをかけ、視線をまっすぐ前へと向けたままの那津弥くんの表情は出発時とさほど変わらない。硬く強張り、青褪めている。

 目的地まであとどれくらいだろう。ナビを見れば分かるけど、別にいつ着こうがどうでもいいかと思い視線を向けることすらしなかった。代わりにスマホをたぷたぷと操作する。適当に開いたニュースサイトに変な記事が載っていたので、それを話題に乗せることにした。

「ねえ、フキハラしてたおじさんが職場解雇になったんだって。ヤフーニュースに載ってる」

「フキハラ? なに?」

「不機嫌ハラスメント、イライラ丸出しで周りに気遣ってもらおうとするやつ」

 那津弥くんが「あー」と納得した声を上げた。

「最近は何でもハラスメントになるね」

「ねー、解雇になるほどの不機嫌ってどんだけヤバかったんだろ。パワハラ、モラハラ、暴力のオンパレードだったとか」

「記事に書いてないの」

「書いてない。フキハラの告発があって解雇、だって。なんかギスギスしてるなー世の中」

「そだね」

 おざなりな返事をする那津弥くんのほっそりと長い指がドリンクホルダーのペットボトルにかけられた。彼がそれを取り上げる前に私が掠め取り、代わりにパキリとキャップを開けて渡してあげる。

「どーぞ」

「ありがと」

 形の良い喉仏を上下にくぴくぴと動かして、那津弥くんはコンビニで買ったプライベートブランドの烏龍茶をごくごくと流し込んでいく。粉っぽくてまずいあれをよくあんな勢いで飲めるなあと横目で盗み見ながら感心する。

 那津弥くんは一言で言うと、美しい王子様の人形のような人だ。瞳が澄んでいて、すらりとした体型で、肌が白くてきめ細かい。所作や言動が丁寧で穏やか。この世の悪意や薄汚いものから徹底的に守られて大切に育てられたのだろうという印象を抱く。

 空港の到着ロビーで落ち合ったときの、「こんにちは」と言ってはにかんだ那津弥くんの笑顔が今でも忘れられなかった。照れくさそうに細められた瞳、ほんのりと上気した頬、くっと口角だけ上がった薄い唇。その時の記憶が窓の外の風景に重なるようにして浮かび上がり、やがて流れ行く景色に溶けるようにして消えた。

「那津弥くんの職場にはいた?」

「なにが?」

「フキハラおじさん」

「あー⋯⋯」

 那津弥くんの顔が一瞬、ぐしゃりと歪んだ。眉根が詰まり、鼻の横にしわが寄る。今にも舌打ちが聞こえてきそうな表情に、水面から飛び出す鯉のように私の心臓がどきりと跳ねた。聞いてはいけないことだったのかもしれない。

 答えたくなかったら答えなくていいよ。そう口を開きかけた瞬間、那津弥くんは返答をくれた。

「いたよ、もちろん。ただ、僕のところは不機嫌おじさんも不機嫌おばさんもいたかな」

 これまでと変わらない声色にほっと肩を下ろした。よかった、地雷だったらどうしようかと思った。表情も元の優しい顔に戻っている。さっきのはもしかして見間違いだったのだろうか。

「やっぱいるよねぇ。私のとこにもいたよ、いろんな不機嫌おばさんが」

 看護師として働いていた職場の同僚達を思い浮かべ、懐かしさから笑いがふっと漏れる。働いていた時は職場以外で彼女たちの顔が頭に浮かびでもすれば発狂しそうなほど嫌だったのに、今では懐かしく思って微笑むだなんて意外と私のメンタルはタフだなあ、と他人事のような感想を抱く。

 いつも疲れていてずっと不機嫌な師長。すべてのことがきちんと準備されてないとヒステリックに怒鳴り散らす主任。そして報告書類に少しでも不備があると深いため息を吐いて「きちんとやってください、迷惑ですから」と突き返してくる完璧主義な事務員。そんな人達が当たり前に存在している職場だった。それをいやだなあと思いこそすれ、ハラスメントになるだなんて当時は思いもしなかった。それに自分だって。

 那津弥くんに気付かれないよう小さくため息を吐き、車窓外の流れ行く景色に視線を向けた。薄い水彩絵の具を幾重にも塗り重ねたような透き通った空に、ソフトクリームみたいな真っ白い雲が浮かんでいる。種類のまったく分からない蔦や木々は自らの狂った生命力を支配下に置くことができず、暴力的なまでに蔓延り地面を覆い尽くしている。

 気持ちがいいほどに外は夏だった。いつの間に季節はこんなにも巡っていたんだろう。母と二人きり、小さな部屋で過ごしていた頃は、ずっと窓を閉め切って空調をつけっぱなしにしていた。まるで時が止まっているかのように季節なんて関係なく、室温は母のために一定に保たれていた。

 やめよう。鮮明に再生されそうになる過去から目を背け、視線を膝の上に置いた手に向ける。しばらく切っていなかった爪はいつの間にか指先の肉を覆うほどに伸びていた。母といたときは短く切りそろえていたのに。

 はあ、ともう一度口からため息が漏れた。考えを断ち切るように頭を振る。

 そう、自分だって、職場の彼女らから受け取った不機嫌なオーラと理不尽な振る舞いを、形を変えて後輩へ受け渡していた。師長たちほどあからさまではないにしろ、ピリついた雰囲気の中で決して馴れ合わず、新人特有の甘えた素振りを許さなかった。研修医に対するふざけた態度は特に厳しく注意した。彼女たちにとっては私こそが師長であり、主任であり、事務員だっただろう。

 でも、そういうものだと思っていた。常ににこにこと優しく仲良くするだけでは、仕事なんてうまくいくはずがない。厳しい人間がいるからこそ職場は職場として成り立つのだ。 

 不機嫌だったり意地悪だったり冷徹だったりする人が大抵は職場の秩序を保ち、業務の大部分を支えている。彼女らはいわゆる「しごでき(仕事ができる)人間」なのだ。不機嫌師長もヒステリック主任も完璧主義事務員も──そしておそらく私も──そういう人間に該当する。

 でも、今の世の中ではそうした人々は「フキハラ加害者」となってしまうのかもしれない。

「最近さあ」

 一息おいて自分用に買っておいたカルピスを一口飲み、口の中を甘ったるく湿らせる。

「自分の機嫌は自分で取るとか、いつでも上機嫌で生きるとか、よく言うじゃん」

「最近そういうのよく聞くよね、本とかYouTubeとかで」

「それ聞くたび、うるせーなあって思うんだよね。不機嫌になるときだってあるでしょ、人間なんだから。イライラするときだってさ」

「それはそう」

「毎日にこにこご機嫌に過ごせっていってもさあ、そもそも人間ってそんな上等なものじゃないでしょ」

 私のぼやきに那津弥くんが苦笑する。那津弥くんはどうやら笑うと目が細くなるタイプのようだ。

「上等かあ、そうかもね」

 通り過ぎていく風景の中に、「売家」と札が掲げられた小さな家が一瞬現れて、あ、と思った瞬間にはもう背後に消えていた。振り返っても路肩に広がるジャングルのせいで、家は既に見えなくなっている。

 こんな山奥で、他の民家とも離れて、森の中の開けた土地にぽつんと一軒だけ。そんな場所で暮らすのはどんな気持ちになるのだろう。ここでなら不機嫌とは無縁でいられるのだろうか。自分の機嫌を自分で取って、いつでも上機嫌に暮らせるのだろうか。

「不機嫌も怒りも悲しみも不安も、全部みんな当たり前に持ってる感情なのに、そういうのを人前で見せたら感情をコントロールできない未熟で下等な人間だってレッテル貼られる社会は変だなって思うよ。みんな『私は上等な人間です』って仮面をつけて生活してるみたい」

「みんな上等な人間の仮面を必死で顔に押さえつけてるのかもね、人の輪から外れないために。仮面をうまくつけられない下等な人間は『異端者』として徹底的に排除されたり蔑まれたりするから」

 那津弥くんの声は先ほどまでとは違い、硬くこわばっていた。真っ暗な夜の海にゆっくり音もなく水死体が沈んでいくような、冷たく重い響きだった。ちらりと那津弥くんへ視線を向けて、その表情を確認した。目線は真っ直ぐ前へと向けられたままだが、その額や頬は青褪めて唇が微かに震えていた。

 これはきっと見てはいけない表情だ。

 さっき見た那津弥くんの歪んだ顔を思い出しながら、私はそっと視線をそらした。

「でもさ、もう、僕たちには関係ないよ」

 先ほどとは打って変わって、お祭り屋台で売ってるスーパーボールくらい那津弥くんの声は軽やかに弾んだ。昔、母と手を繋いで行った近所の祭りですくったスーパーボールくらい軽い。すぐどこかへ跳ね飛んでいって失くしてしまった──のことを考えながら、私は「まあ、そうだね」と軽く肩を竦めて同意した。

 そう、私たちには関係ない。なぜなら私たちはこのまま走り続けた先で、深い藍色の海に飛び込んで死ぬ予定だからだ。みんなが仮面をつけて生きていようが、仮面なしの人間が迫害されようが、私たちにはもう関係ない。

 美しい藍色の海に飛び込んで死ぬ、その瞬間を想像して私はうっとりと道の先を見据えた。その先の先、眩く輝く真白い光の中で笑顔の母が待っていてくれるような気がした。


 そもそも那津弥くんとの関係は半年前、死にたい気持ちを呟きまくっていたSNSから始まった。薄暗い部屋の隅で既に母の匂いがしなくなったブランケットに包まったまま、理想の死に方をいろんなシチュエーションで書き込み続けていたら、那津弥くんから「美しい最期ですね。僕も同じように死にたいです」とメッセージが来て、そこからやりとりをするようになったのだ。

 主に「どう死にたいか」という話題で交流を続け、お互いに最高に美しく、悔いのない死に方だと意見が合致した方法で「じゃあ一緒に死にますか」と話がまとまった。お互いがなぜ死にたいかという理由については一切触れないまま、私たちは決行を決めた。死ぬ理由なんて知らないほうがいい。もし理由を聞いて「そんなことで」などという鼻白む思いや、可哀想だと湿っぽい同情心が沸いたら、一緒に死ぬ相手としてふさわしくなくなってしまうからだ。

「あ、道の駅だ」

 不意に那津弥くんが道端の看板を見て声を上げた。ただ目に入ったから呟いただけという響きだった。

「え、道の駅? いいじゃん、寄っていこうよ」

「え、寄るの?」

「うん、だってトイレも行きたいし、那津弥くんも運転疲れたでしょ。休憩しよ」

「えー? まあ、うん、そうだね。じゃあ入るよ」

 ウインカーをカチカチと鳴らし、私たちの乗る車は滑らかな曲線を描いて道の駅の駐車場へと入っていった。那津弥くんとは車の前で集合しようとだけ取り決めて、トイレの前で別れた。

 トイレを済ませたあと、売店でも冷やかそうかと店内に入ると、ソフトクリームの大きなフィギュアが置いてあるのが目に入った。「牧場直送牛乳」と大きく看板に書かれているのを、無視できる人はどれほどいるのだろう。


「那津弥くん、お待たせ」

「おかえ、えー、アイス?」

「うん、そこで売ってた。牧場から直送された牛乳で作ってるんだって。買ってきたから一緒にたべよ」

「あ、ありがとう……」

 眉間に寄ったしわから那津弥くんの戸惑いが伝わってくる。困った顔をしたままソフトクリームを持っている彼が間抜けで面白くて、ついスマホを取り出してその様子を撮影した。パシャリと撮ってから、「あ、この写真を見返す人はもうこの先いなくなるんだった」と思ったが、まあ別にいいや。写真はとりあえず保存しておくことにした。

「アイス、おいしいね」

「うん、おいしい」

 空があまりにも気持ち良く晴れていたので、せっかくだからと那津弥くんとベンチに並んで座り、ソフトクリームをぺろぺろと舐めた。太陽光がじりじりと肌を焼いて痛いほどだが、時折吹き抜ける風には冷たい空気が含まれていた。シャツの裾から入り込み首元から抜け出る風が、首筋に張り付いた髪をするりとなびかせて心地よかった。

 その瞬間、突然「自由だ」という実感が全身に広がった。

 不機嫌や不条理、苦しみが詰まったあの職場はもう辞めちゃったし、私の生活を心配して気にかけてくれていた唯一の存在の母ももういない。どこにも属さず、ただ今ここに存在しているだけ。ここでソフトクリームを舐めていたっていいし、南の島でビーチに寝転がっていたって良い。なにをするにも、どこに行くにも、誰にも気兼ねなく好き放題出来るんだと思うと、なんとも言えない快感が突然全身を包み込んで気分が良かった。

 その反面、誰にも気にかけられない自分の存在自体が限りなく薄く軽くなったようにも感じて、ほんの少し悲しいような、寂しいような痛みがちくんと胸に刺さった。でも、今なら崖から海へ飛び込んでもひらひらと舞い落ちていくだけであまり苦しみなく死ねるかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えながらぺろぺろとソフトクリームを舐めていると、那津弥くんが突然「ねえ、聞いてもいい」とおずおずとした様子で話しかけてきた。

「なあに、いいよ」

「答えづらいことかも」

「いいよ、別に」

 もう隠したいこともないし、隠す必要もない。それに那津弥くんは私が何を話したとしても、変なふうに受け取って私を軽蔑したり、呆れたりする心配はないだろうという謎の安心感があった。

「答えたくなかったら別に答えなくていいんだけど」

 私が両手を広げて那津弥くんの質問を待ち構えているというのに、当の本人はまごまごと言い出しにくそうな様子でなかなか聞いてこない。ソフトクリームはもうほとんど甜め終えて、そろそろコーンをかじりだす頃合いになっていた。

「うん、だからなんでも答えるよ」

「ありがとう。その⋯⋯ミアちゃんってなんで死にたいと思ったのかな……って」

 ああ、そう来たか。やっぱり気になるもんだよね、と内心肩をすくめながらまだパリパリ感を保っているコーンをかじって咀嚼する。ベチャベチャになったコーンもおいしいが、ソフトクリームと一緒にかじるパリパリのコーンはもっとおいしい。

 どう答えようかと一瞬間が空くと、那津弥くんは焦った様子で「いやその、ミアちゃんってなんか飄々としてるからさ」と言葉を続けた。

「全然悲壮感とかないし、普通にニュースの話とかしてくるし、道の駅入ろうとか言ってソフトクリーム買ってくるし、昔からの友達と気軽な旅行に来たくらいのノリで接してくるし、なんか⋯⋯なんでそんな楽しく暮らすのが上手そうなミアちゃんがあんなに死にたがってたのかなって考えたらちょっと気になっちゃって。あ、でも本当に答えたくなかったら別にいいんだ。ただちょっと、本当にちょっと、気になっただけだから」

「那津弥くん、大丈夫だよ。落ち着いて。ちゃんと答えるから」

 私はただ黙ってアイスを食べてただけなのに、勝手に焦り出した那津弥くんが面白くて仕方なかった。いつまでもそんな彼の様子を見ていたかったけれど、同時に小さな動物をいじめているような申し訳なさも湧いてきたので、早口で喋り続ける彼を制して簡単に説明するため口を開いた。

「一言で言うとね、母が死んだからだよ」

「え、お母さん⋯⋯?」

 予想していた答えと全然違ったのか、那津弥くんは長い睫毛に縁取られた瞳を見開いて私を見返した。

「そう。去年の夏ごろ突然体調崩してね、病院行ったらステージ4のがんで手術もできない状態だった。抗がん剤治療したけど、髪が抜けて体力が落ちていくばっかりで、最後は小さくなってしぼむように死んじゃった。診断受けてから一年ももたなかったんだ。去年の今ごろはまだ、元気だったんだけどね。あ、ごめん。涙出てきたけど気にしないで。お母さんのこと話すとまだ勝手に出てきちゃうんだ」

「ミアちゃん」

 ポケットからきちんとたたまれたハンカチを取り出して、那津弥くんは躊躇もなく差し出してきた。ぼろぼろと流れ落ちる涙を拭うものを持っていなかったズボラな私は、それをありがたく受け取りべしょべしょになった頬や顎を拭い鼻をすすった。

「私ね、看護師として働いてたからさ、最後は休職して自宅看護で母を看取ったんだ。ずっと二人で暮らしてたリビングに介護ベッドを置いてね。窓からはいつも空が見えてたの。たぶん雨の日もあったと思うんだけど、思い出すのは今日みたいにきれいな真っ青な空。お母さんの小さくなった手を揉みながら、二人で歌を歌ったり、本を朗読して聞かせたり、すごく幸せな毎日だった」

 見上げた空は涙で滲んでいたけど、ソフトクリームみたいな雲が光を散らして空全体が光って見えた。心地よい風が通り抜けるのを目をつぶって受け止める。涙が頬を滑り落ち顎の先から地面に落ちていくのをただ感じる。母がこの世からいなくなった時、全身の水分も血液もすべて枯れ果てそうなくらい泣いたというのに、涙はいまだに枯れることなく溢れてくるのがすごいなあと思った。どれだけもう無理だと心で思っても、身体はきちんと生きるための機能を保ってくれる。

「お母さん⋯⋯残念だったね。ごめん、僕、こういう時なんて言ったらいいか」

「大丈夫だよ、私の周りの友達もみんなそんな感じだったから」

 三十歳で親を亡くすだなんて、数字で表したらかなりの少数派だろう。この前テレビで八十四歳の母親を殺した六十歳の人のニュースが流れていた。そんな歳まで母と居られたらどんなに幸せだったろうかと想像したら悔しくて、その犯人の死刑執行ボタンを押すような気持ちでリモコンの電源ボタンを押してテレビを消した。

「じゃあ、ミアちゃんはお母さんを失ったから」

「ううん、そうじゃなくて」

 那津弥くんの言葉に被せるようにして否定した。違う、それは違う。お母さんがいなくなったから自分も死ぬだなんて、口が裂けても言いたくなかった。

「私が最初に死にたいなと思ったのは、お母さんのお葬式が終わって仕事復帰した後」

 母の死は私の決断に影響を与えこそしたものの、原因となったわけでは決してない。風呂に入れなくなっても、食べたものをすぐ戻すようになっても、ベッドから動けなくなっても、最後まで立派に生き切った母の死を私の弱さの理由にはしたくなかった。

「那津弥くん、知ってる? 死が間近に迫ってる人ってね、すごく美しいんだよ。欲望とか感情とか人間の持つどろどろした部分が全部削ぎ落とされて、ただ生きるためだけにそこに在るの。まるで自然の一部みたいに存在自体が軽やかに儚くなって。そんな母と過ごした日々はとても美しい奇跡のような時間だった」

 清潔で静謐な透明感が記憶の隅々まで満たしていた。どの瞬間を切り取っても、子供時代に触れようとして手を伸ばした夏の光のような眩さと懐かしさを伴って思い出された。

「だからこそ、そんな日々から日常に戻ったとき、耐えられなくなっちゃったの。常に不機嫌でカリカリしてる師長とかそれに裏で文句言ってる同僚とか、主任にヒステリックに叱られて大げさに泣いて被害者ぶる後輩とか、忙しい中仕上げた書類をこちらを見もせず突き返してくる事務員とか。色んな人の色んな感情が私の周りに渦巻いて私の中にも勝手に流れ込んできて、私自身もそれにいちいち怒ったり、苦しんだり、泣いたりして反応しちゃって。そんな弱い自分もいやだった。母と過ごした幸せな記憶が自分の不機嫌と他人の不機嫌にどんどん汚されていくような気がして、ふと、この先もずっとこうなのかなって思ったら、じゃあもう美しい記憶を抱き締めたまま死んじゃおっかなって思ったんだ」

 最後に残ったコーンの一番下の部分をぽいっと口の中へ放り込む。ちゃんと底までソフトクリームが詰まっていて口の中に優しい甘みが広がった。母と一緒に手を繋いで食べたあの日もソフトクリームも、泣きながら食べる今日のソフトクリームも、変わらずおいしい。そうした「変わらなさ」の中に母とのつながりを見つけると少し嬉しい。だからといって私の中にある悲しみを薄める助けにはならないのだけど。

「ミアちゃん、辛かったよね」

 そっと那津弥くんの手が背中に添えられた。じんわりと温かく、同情と憐憫以外、一切なにも含まれていない純度百パーセントの友愛の手かざしだった。久々に受け取る優しさの温もりについくらりと来て、那津弥くんの肩に犬のように頭を擦り付けて甘えてしまった。那津弥くんはそれに応えて私の肩を抱き寄せ、励ますようにごしごしと擦ってくれた。喉の奥から迷子の子供の泣き声のような悲痛極まりない上ずった嗚咽が漏れ出て、涙がぼたぼたと頬を伝っていった。情けない、と思うのに、どうしても止められなかった。

 那津弥くんは黙ったまま私の肩を抱き続けてくれ、私たちはしばらくの間、そうして寄り添い合っていた。まるで傷ついた獣たちのように。


「那津弥くんは?」

 涙も鼻水も引っ込んだ頃、すべてを吐き出して楽になった私は、今度は那津弥くんに尋ねた。自分のことをすべて話してしまって、心に押し込まれていた重荷がすっかりなくなったような解放感で体がぽかぽかとあったかく気分が良かった。那津弥くんにもその気分を味わってほしかった。

「あ、でも答えたくなかったら答えなくていいよ」

 もちろん、と付け加えると那津弥くんはゆるく首を振って、「ううん、僕も話したい」と私をまっすぐに見つめ返してきた。

「ミアちゃんには聞いてもらいたい」

 その視線の強さに少しだけたじろいで、彼の目を見返す視線が揺らぎそうになる。それでも私の話をまっすぐに受け止めてくれた那津弥くんを、今度は私が受け止めたい。

「聞きたい、全部聞かせて」

 腹の下に力を込めて座り直し、彼に向かって頷いた。それに応えて小さく頷いた那津弥くんは、それからゆっくりと語り始めた。

 あまりにもひどすぎる「職場いじめ」の話を。


 那津弥くんは庭や外構を手掛けるエクステリアの会社で営業として働いていた。カタカナで言うとおしゃれな感じがするが、もともとは造園業から始まった会社で、男社会かつ職人気質な人が多い所だった。

 そんな所へ顔がきれいでスラッとした那津弥くんが入社してくれば女性社員は大騒ぎとなる。那津弥くんはたちまち会社内で目立つ存在となった。そして、そのせいで先輩社員たちは彼を気に食わない存在として認識したのだった。

 まともに業務を教えないくせに少しでもミスがあると、どこにミスがあるか、どう直したらいいかという肝心なことは伝えないまま人格否定を繰り返す怒声を浴びせかけ、何日も深夜にわたる残業をさせられた。朝方に帰り、数時間だけ死んだように眠り、夜が明けたらまた会社に向かう毎日だった。

 最初は一部の人間による悪質なノリだった。しかし、そいつらが那津弥くんの無能さやお荷物ぶりを声高に吹聴して回るうちに、次第に周囲の人間も毒されていった。最終的には先輩営業だけでなく最初は那津弥くんがかわいいと騒いでいた事務の女性社員たちまでも手のひらを返し、彼に辛辣な言葉を浴びせかけるようになっていた。蔑んでいい存在がいるとまるで免罪符を得たかのように、人はどこまでも残虐になるものだ。

 那津弥くんの人権はほぼないような扱いになり、気に食わないことがあれば脈絡もなく那津弥くんを足蹴にしたり、頭を思い切り押さえつけて耳元で怒鳴ったり、明らかに傷害罪に該当する暴行を加えられていた。顔が綺麗なことすらも那津弥くんをいじめる材料になり、飲み会の場に呼び出しては浴びせるように酒を飲ませ、「本当は女なんだろ」とイチャモンをつけて服を脱がせ、長髪のウィッグをかぶせて無理やり股間に顔を押し付けるなど地獄のような行為も横行するようになった。

「なにそれ。ひどい、ひどすぎる。その人たち捕まるべきだよ。犯罪者じゃん」

「うん⋯⋯結局四年くらい頑張ったんだけど最後はね、優しいお客さんが殴られたり蹴られたりしてるところを目撃して通報してくれたみたいで、会社に捜査が入って先輩たちは一応逮捕されたよ。聞いたことないかな、ニュースにもなったらしいけどね」

 那津弥くんが口にした会社名は確かに数ヶ月前ニュースで聞いた記憶がある。社内のパワハラ、モラハラが度を越して傷害事件となったケースで、その暴行の実態が悪質すぎてネットで話題になっていたニュースだった。

「捕まったのか⋯⋯なら良かったけど。そんな卑劣な奴ら許せないよ。刑務所に百年くらい入ってないと許せない」

「うん、どうかな⋯⋯割とすぐ出てきそうな気もするけどね」

「そんなの絶対駄目。許せない。裁判とかは」

「まだ。あとのことは弁護士と家族に任せる。僕はあいつらが捕まったところを見届けられただけで十分かな」

 力のなく呟いた那津弥くんの瞳は深い闇に沈んでいた。ソフトクリームはどろどろに溶けて指の上を伝い落ちていたが、那津弥くんはその不快感にすら気付いていなさそうだった。放っておくとそのまま闇に引きずり込まれて消えてしまいそうだった。

 どんなに時間が過ぎ去ったとしても、地獄にいた頃の苦しみと記憶は霞むことなく鮮明に何度も再現されて私たちを苦しめ続ける。苦しい記憶は根深く植え付けられ、幸せな記憶は忘れていく。そういう風に脳が作られているらしい。私たちは容易く追いついてくる地獄から、生きていくために速く遠く逃げ続ける必要があるのだ。

「那津弥くん」

 先ほど渡されたハンカチ──私の涙でべしゃべしゃになっていて申し訳なかったが──で、その手を思わず包み込む。薄い布越しに伝わってくる体温、ごつごつとした骨の感触、私のものではない体の質量。那津弥くんが死んだら、この全てがなくなってしまうのか。あの日燃えて灰になった母のように。突然鮮明な記憶が頭に浮かび、恐怖が全身を包み込んだ。

 呼吸が止まり、全身から力が抜けた母の肉体が頭に浮かぶ。先程まで生きていたはず身体から一切の生命活動がなくなり、死体となって燃やされ灰となり、母はこの世から消え去った。肉体が消えても魂は残るといくら慰められても、私にとっては母の肉体こそ母だった。小さい割に力強く握り返してくれるしっかりした手指、髪が抜けつるりとしていたまあるい頭、レンジで温めたタオルで何度も拭き清めた肉が落ちて痩せた体、体を起こせなくなった母の代わりに爪を切った足先。すべてが愛おしかった。残したかった。でも駄目だった。すべて燃えて消えてしまった。

 同じことが那津弥くんにも起こるのだ。目の前でまだ生きて、健康で、息をしている彼にも。今手の中にある温もりも、案外男らしい骨格も、私をまっすぐ見返してくれる澄んだ瞳も、すべてが燃えてなくなってしまう。

 その場面を想像してしまったら、もう駄目だった。

「ねえ那津弥くん、次は私が運転してもいい?」

「え?」

 突然の申し出に、那津弥くんの頭の上に大きなハテナが浮かんでいるのが見える。

「ちょっとだけ戻るんだけど、いいよね」

「え、なんで、どこいくの」

 戸惑う那津弥くんを「いいから」と押し切って車に乗せ、私は来た道を戻っていった。道端で見つけたあの小さな家。あそこにいきたい。母と暮らしたリビングから見ていた空が頭のなかに広がっていた。きっと同じ景色があの家からなら見られるはずだ。

 ジャングルみたいな森の向こうにあの家の影が見えた時、無意識のうちに「よかった、あった」と呟いていた。あの家を見たのが幻だったらどうしようかと不安になり始めていた時だった。家の前に広がる駐車スペースらしき空き地に停車し、連れ立って車を降りる。

「那津弥くん、ここ、どう思う?」

「え、どうって⋯⋯」

 那津弥くんは車に乗っているときから浮かべていた困惑した表情のまま家を眺めて「なんかぼろい」とだけ呟いた。那津弥くんはこの家の前を通り過ぎた時に私が感じた可能性を感じないらしかった。小さな、小さな、希望の光のような、なにかを。

「あのさー、ここで私と一緒にさ、暮らそうよ」

「え、え? ここで? ミアちゃんと? なんで、いつまで」

「いつまででもいいけど」

 驚いた猫のように目を真ん丸くしている那津弥くんは続けて「死なないの?」と至極真っ当な疑問を口にした。そう、私たちは死ぬためにはるばる遠い道のりを乗り越えて、こんな北の大地の果てまでやってきたのだ。それなのに何を言い出しているんだこの女は、と那津弥くんは思っているのだろう。

「那津弥くん、もう仕事辞めてるよね? 家の契約は?」

「もちろんもうやめてるし、家も退去済みだけど⋯⋯でも『もう死ぬから』って両親に手紙出しちゃったよ」

「え、そうなの。じゃあ、やっぱやめますって連絡しよう。きっと那津弥くんのご両親なら怒らないと思うし」

「怒らないは思うけど……たぶん泣かせてしまうと思う」

「でも本当に那津弥くんが死んだら、ご両親はその何倍も泣いて悲しむことになると思うよ」

 私がそう言うと那津弥くんは下唇を噛み締めて黙ってしまった。道の駅でソフトクリームをさっぱりと洗い落としてきた那津弥くんの手をとって、ぎゅっと握りしめる。骨ばった手の温もりは確かに今生きている人のものだった。ごつごつしていて、同じくらいの体温のはずなのに、自分よりもっとずっと温かく感じる。

「ごめんね、那津弥くん」

 握っている手を引き寄せて胸に抱き、小さく囁く。

「私も本当についさっきまでは死のうと思ってたんだ。本当だよ、嘘じゃないよ」

 でも、と続ける私の言葉に那津弥くんは眉を寄せたまま耳を傾けてくれた。

「でも、那津弥くんが死ぬかもしれないと思ったら、途端に怖くなっちゃった。私は死んでも悲しんでくれる人はもういないけど、那津弥くんには那津弥くんに生きていてほしい人がたくさんいて、そういう人たちが味わう悲しみを想像したらこの人を死なせちゃ駄目だって思って……ごめんなさい、突然。勝手だよね」

「まって、そんなの僕だけじゃないでしょ。ミアちゃんだって死んだら悲しむ人いっぱいいるよ。亡くなったお母さんだってもちろん悲しむ」

「そうかな」

「それに僕だってミアちゃんに死んでほしくないと思ってる」

 手を強く握り返されて驚いた私は思わず顔を上げた。那津弥くんの視線が真正面から私に突き刺さる。透き通った力強い光のようなその視線は分厚いガラスを通したとしても、けして屈折することなく届きそうなほどにまっすぐ私を射抜いていた。

 母が亡くなって以来、そんな真剣な視線を向けてくれる人なんていなかったし、誰かに心から気にかけてもらえる経験すらしていなかった。久しく忘れていたその温かな感覚に心の奥がぽかりと温まって、じわりと涙が目元に滲む。

「僕、飛行機に乗ってここへ来るまで、ずっと絶望の中で死ぬことしか考えてなかった。死んだらやっと楽になる。もう嫌なことを思い出したり、考えたりしなくていいんだって。でもミアちゃんと会ってご飯を食べたり、見たこともない大自然の中で運転したり、どうでもいいような世間話をしてる内に、驚くほど毒気みたいなのが抜け落ちてることに気付いたんだ。でも僕たちは死ぬためにここに来たんだからちゃんと死ななきゃ、ミアちゃんもそのつもりだろうし、癒されたりしたら駄目だ、なんて逆に自分を鼓舞したりして」

 おかしいよね、死ぬために自分を鼓舞するなんて、と自嘲するように鼻で笑った那津弥くんは私の両手をぎゅっと握ると「なんていうのかな」と言葉を探して視線を泳がせた。

「今まで世界って一つだと思ってた。嫌なことをされて最悪だった世界で、これからも生きていかないといけない。最低な過去を背負ったままずっとこれからも生きるしかないんだと思ってた。でもミアちゃんといると、今までの苦しかった世界からぽんっと僕だけが吐き出されて新しい世界にいるような気がして、すごく気が楽になったんだ。どこにも属していない、なんの苦しみも背負っていない僕と君だけが、とがった部分のないまん丸くてぬるま湯のように心地よい世界で、ただ存在してるような気持ちになれたんだ」

 わかるかな、この感覚、と窺うような視線を那津弥くんは私に投げかける。わかるよ、と私は無理に同調するでも、大袈裟に反応を見せたりするでもなくただ頷いた。

「私も実は空港で那津弥くんに出会った時から感じてた」

 私の手を握る那津弥くんの手に力がこもる。先ほどよりも体温が高いような気がするのは勘違いだろうか。

「ねえ那津弥くん、この家、借りる?」

 那津弥くんの手を握り返して、小首を傾げて尋ねた。那津弥くんの視線が古臭い一軒家に向けられる。もう何年も放置されてそうな、ただのぼろ家。新しくて綺麗な部屋に慣れている現代っ子たちなら絶対に転居先候補として選ぶはずのないその家を見つめる那津弥くんの瞳は、真夏の太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。

「借りよう」

 那津弥くんが満面の笑みを浮かべてそう答えた瞬間、私は「そうこなくっちゃ!」と叫んでいた。もう何年も口にしていなかったようなあまりにも前向きな言葉だったので、自分で言っておいて恥ずかしくて堪らなかった。

 それから私たちは草に埋もれた管理会社の看板を見つけ出して電話をし、すぐ契約しにいった。管理会社の人たちはずっと目を丸くしていて「本当にあんな所借りるんですか?」と何度も口にした。一応内見した方がいいですよ、と連れられてあの家まで逆戻りし、がたつく扉をくぐって中を見回った。埃だらけで隙間だらけの家。普通なら絶対に選ばないよね、と小声で囁き合ったが、今の私たちにはこれでいいと思った。皆が求める普通でなくたって構わない。私たち二人が私たちのままで、寄り添い合って生きていられればそれでいい。それに、いやになったらすぐに引っ越してしまえばいいんだから。そういう身軽さが今の私たちには必要だった。

「ねえ一応さ、海も見ておこうよ」

 入居申し込みを済ませて店を出たところで、私は那津弥くんの背中にそう提案した。

「海?」

「うん、私たちが飛び込む予定だったところ」

 那津弥くんが立ち止まって身体ごと振り返る。顔には緊張感のある真剣な表情が浮かんでいた。

「でも、もう死ぬのはやめたんだよね」

「うん、やめた。この先も二人で生きていく。その気持ちは変わらないよ」

 那津弥くんの目の前に立って、頭一つ分高い所にある彼の目を見つめながら手の中に車の鍵を押し付けた。

「でもさ、私たちの『死にたい』って思ってた気持ちにけじめを付けなきゃ。宙ぶらりんのままどこにもいけない気持ちが残ってたら、また苦しくなっちゃうかもしれない。私たちがこの先も生きていくために、行こうよ、海を見に」

 硬く強張っていた那津弥くんの表情はだんだんと柔らかく解けていき、ふう、とため息を吐いたあと「そうだね。わかった、いこう」と微笑んだ。私たちは一度道の駅まで戻り、まるでその続きからやり直すみたいにして残りの道を進んでいった。社内では那津弥くんといろいろなことを話した。暗くなってしまう話題は慎重に避けて、子供の頃の話やお互いの好きなものについて、たくさん話した。大きな笑い声をあげることもあったし、「素敵だね」としみじみ言い合うような瞬間もあった。車の中の空気がきらきらと輝いて見え、母がいなくなってから初めてこんなにも満ち足りた気分を味わった。那津弥くんもきっと同じ気持ちだったと思う。ずっと青褪めていた彼の頬は薄桃色に気色ばみ、内側から発光してるみたいにつやつやして見えた。


 たどり着いた先の海は、光っていた。

「ついた!」

「ついたね」

 寂れた神社に車を止め、ガードレールの縁まで歩いていって海を見下ろす。透き通るコバルトブルーがすぐ足元に広がっていて、底に落ちてるごろごろとした岩まではっきりと見通せる。飛び込んで死ぬのにふさわしい、夢みたいに美しい海だった。真下に向けた視線を少しずつ前に移していくと、水の深さと体積が増すに連れて海の色は次第に深く濃い藍色に変わっていき、やがて空と海の境界を示すまっすぐな水平線となった。波はあまりなく、海面に細かなさざ波模様が絶えず形を変え刻まれている。穏やかそうに見えるが、その下には膨大な量の海水が貯えられ、底も見えないほどの深さで、恐ろしいほどの水圧で、規則性の分からない大きな力が絶えず動いている。

 そこへ私たちは、このガードレールを大きくまたぎ、あの崖の先端から飛び込もうとしていた、のか。

 その様子を想像してみると、心臓が僅かにきゅうと縮んだ。それはほんの小さな反応だったし、心のなかに明確な感情が浮かんだわけでもない。でも、私は思わず隣にいる那津弥くんの手を握ってすり寄った。

「どうしたの」

「なんか、こわくなっちゃった、かも」

 海に飛び込み、大量の水に包まれて、酸素が必要な私たちから呼吸が奪われる。それはどんなに苦しくて怖いことだろう。

「大丈夫?」

 那津弥くんが握り返してきた手を強い力で引き寄せた。足がもつれて身体が彼にぶつかる。

「わっ」

 手を解かれた代わりに、今度は肩をぐっと抱き寄せられた。那津弥くんのほっそりとした指はこんなにも力強く私の肩を掴むんだ、と小さく驚いた。

「大丈夫だよ、落ちたりしない」

 囁かれた声は直接鼓膜を揺らしているように、くっきりと聞こえてきた。潮の香りを含んだ強めの風にも邪魔されず、私の心にまっすぐに。

 つんと尖った鼻先、柔らかな曲線を描く唇、少しだけ上気した頬。その向こうに広がっている白に近い水色の空、深い深い藍色の海。

「ありがと」

 いつの間にか元のサイズに戻っていた心臓がとくとくと拍動を続け、一生懸命身体中に血を巡らせている。那津弥くんの肩にそっと頭をもたれかけてみた。拒否されるかもと不安に思ったが、那津弥くんは身じろぎもせず受け入れてくれた。ほ、とひそかに息を吐き、今度こそ安心した気持ちで海を眺めた。

 吹き抜ける風はあたたかく、でもそのなかに時折きんと突き刺すような冷たい空気が含まれている。私たちは今、北の果てにいる。そして、そこで暮らしていくと決めた。その実感と覚悟が、飲んだ水の冷たさが体中に染み渡る時のように、すっと全身に染み込んでいった。

「えいっ」

「え、なに、今なんか捨てた?」

「うん、上等な人間のふりするための仮面」

 自分が飛び込むかわりに、目に見えない仮面を顔から剥ぎ取って、それを海に投げ捨てた。「ああ」と納得したらしい那津弥くんも、「僕も捨てよ」と同じように顔から何かを外してそのまま海に投げ捨てた。その動作がまるで大谷翔平の投球姿のように見事で感心していたら、私の肩を抱き寄せ直した那津弥くんは照れたように「実は野球少年だったんだ、僕」といってはにかんだ。とびきりかわいい笑顔だった。

「かわいいね」

「え?」

 間違えた。そうなんだ、と言いたかったのに。思わず本音が口をついて出た。まあ、いいか。寛いだ気持ちでまた那津弥くんの肩に頭を預けた。

 心地よく吹き抜ける風、見渡す限り広がっている光り輝く海、背後には野生そのものという感じで繁茂している大自然。

 ここではもう上等な人間の仮面なんていらない。私は私として、那津弥くんは那津弥くんとして、不機嫌になることも上機嫌になることも受け止めながら、一緒にここで生きていく。

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