第9話:夏の始まりとプール開き
じりじりと肌を焼くような陽気の土曜日の昼下がり、僕は書斎でクライアントの図面と格闘していた。
ピンポーン。
気だるい静寂を破り、チャイムが鳴る。
「ん?」
ドアを開けると——熱気と共に、賑やかな二人が飛び込んできた。
「にいちゃん! 遊びに来たで!」
ユイちゃんとケンちゃんだ。
「今日、学校休みやねん!」
「ああ、そう……」
僕が状況を飲み込む前に、二人は慣れた手つきで靴を脱ぎ捨て、リビングへ突撃していく。
リビングにつくと二人は窓の外をみていた。
「にいちゃん、この家プール出さへんの?」
窓の外、陽炎が立つ庭を見ながらユイちゃんが言う。
「プール?」
「こんな暑い日はプールやで! 」
「いや、プールなんて……ビニールプールなら買いに行かないと」
「ないんやったら、出そ!」
この家ならできるやろ? と言わんばかりの顔だ。やったことはないが、そんなことまでできるのか?
二人は庭に出ると、太陽の下で並んで立った。
「せーの!」
パン! パン! パン! 柏手が庭に響く。
「「プールよ出てこい!」」
その瞬間だった。
ズズズズズ…… 地面の底から、重低音が響いてきた。
地震ではなく、庭の土がまるで熱で溶けたチョコレートのように波打ち始めたのだ。
「嘘だろ……」
長方形に——いや、子供が粘土で作ったような歪な形に、地面が沈降していく。
手前は浅く奥は深く、完璧なスロープが形成されたかと思うと、 ボコォッ! 底面から凄まじい勢いで水が噴き出した。
カルキ臭さなど微塵もない、地下深くから汲み上げられたようなきれいな水だ。
「ええ……」
あっという間に、庭が巨大な水溜まり——いや、手作り感あふれる25メートルプールへと変貌した。
手前は浅く50センチ、奥に行くにつれて深くなり、一番深いところで1.5メートルほどだった。
「できた! プールや!」
二人はすでに水着姿だった。早着替えにも程がある。
「抜かりなしやで?」
「……お前ら、最初からそのつもりだったな」
バシャーン!
二人が水飛沫を上げて飛び込む。
涼しげな音が、暑さを一瞬だけ忘れさせた。
その時、
「柊さーん!」
裏庭の家庭菜園から、麦わら帽子姿の美咲が顔を出す。
「野菜の様子見に……え??? プール…?????」
美咲の手から、収穫したばかりのキュウリが落ちた。
「ああ、まあ……いつものやつで」
「『いつもの』で片付けないでください! とんでもないことになってますよ!?」
「ねえちゃん、一緒に入ろうや!」
プールからユイちゃんが手招きする。
「え、でも私、水着なんて持ってないし……」
「あ、水着なら小屋にあるよ」
僕は口を滑らせた。
美咲が、ピタリと固まる。
「……は?」
「いや、昨日整理した時に偶然見つけて。前の住人の忘れ物だと思うんだけ…ど」
「……柊さん」
美咲の声が、冷たくなった。
「気持ち悪…」
「ち、違う! 誤解だ! 本当に偶然なんだって!」
「引かないで! お願いだから通報しないで!」
数分後。
「……ありました」
美咲は物置から戻ってきた。手にはレトロな花柄のワンピース水着を持っている。
「ほら、言っただろ?」
「でも……なんでサイズまでピッタリなんですか……やっぱり気持ち悪い……」
美咲は水着を握りしめ、汗ばんだ額を拭った。
この殺人的な暑さで、背に腹は代えられないという葛藤が顔に出ている。
「……今回だけですからね。暑くて死にそうなので!」
捨て台詞を残し、彼女は着替えに向かった。
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それから、しばらくみんなで遊んだ。
物置から見つけた浮き輪やビーチボールで、久しぶりに無邪気に遊ぶ。
「にいちゃん!」
ユイちゃんが目を輝かせた。
「もっと色々作ろ!ウォータースライダーとか!」
「ちょっと待って——」
また手拍子が響く。
「「ウォータースライダー!」」
ゴゴゴゴゴ!
プールの端が盛り上がり始めた。螺旋状に、どんどん高くなっていく。
3メートル、4メートル、5メートル——
白いスライダーが完成した。
「まだまだいくで!流れるプールに、ジャグジーや!」
再び手拍子。
プールの周りに円形のコースが出現し、隅には泡が湧き出る場所ができた。
「おまけにこれもどうや!」
さらに手拍子。
プールサイドに、カラフルなパラソルとデッキチェアが並んだ。
庭は、もはや完全なプール施設になっていた。
「……なんだこれ」
美咲も呆然としている。
その時。
「ひゃっほー!」
ウォータースライダーを滑り降りてくる、ピンクとグリーンのレオタード姿の女性。
田中フミコだ。
バシャーン!
フミコさんはプールに飛び込んだ。
「あら!最高だわ、これ!」
「なんで勝手に入ってるんですか……」
というかレオタードのままプールに入るのはどうなのか…
「合鍵持ってるもの!」
そして、プールサイドには——
全身が透明なガラスのような質感の、筋肉隆々とした男性が立っている。赤い水泳帽をかぶり、黒い海パンを履いて、まるで監視員のように腕を組んでいる。
「……クリスタルマッチョ」
「……お前、泳げないだろ」
僕は思わずツッコんだ。
そして、デッキチェアには——
「ゆきのさん?」
パラソルの下、日陰のデッキチェアに彼女はいた。
膝を抱えて、楽しげな水面をじっと見つめている。
その瞳には、ほんの少しの寂しさが滲んでいた。
「あ……見つかっちゃいました」
「入らないんですか?」
「ええ……幽霊なので。水はすり抜けちゃうんです」
ゆきのさんは自身の透けた掌を見つめて、力なく笑った。
「冷たさも、水の重さも、もう感じられないので」
「そうですか……」
かける言葉を探していると、ゆきのさんがふと顔を上げた。
「あ、でも……」
彼女の視線の先、流れるプールにビーチボールが一つ、ぷかぷかと浮いている。 ゆきのさんは恐る恐る、そのボールに手を伸ばした。
指先が触れる——すり抜けない。
「……!」
彼女はそっと体重を預けた。ボールは沈み、浮力となって彼女を支える。
ゆきのさんはビーチボールにつかまって、ゆっくりと水流に身を任せた。
「……楽しい」
水には触れなくても、「浮く」ことはできる。
その顔に浮かんだ穏やかな微笑みは、夏の陽射しよりも眩しく見えた。
「子供たちには、姿見えないようにしてるんです。驚かせたくないので……」
「そうなんですか」
「はい……大人の人にだけ、見えるようにしてます」
それから、さらに30分ほど遊んだ。
フミコさんは流れるプールとスライダーを行ったり来たり。
「ケンちゃん、スライダーもうちょい長くせえへん?」
ケンちゃんは頷いた。
「ちょっと待って——」
その時、フミコさんがスライダーの上に登っていった。
「もう一回滑るわー!」
「あ、ちょっと待って!」
僕が止める前に——
パパン、パパン、パパン!
「「スライダー、もっと長く!」」
ゴゴゴゴゴ!
ウォータースライダーが、ぐんぐん伸び始めた。
「あらやだ!!」
滑り始めたフミコさんの叫びが聞こえた。
スライダーは庭を超えて、どんどん伸びていく。
隣の家の方へ——
思わず叫んだ。
「止まれ!」
でも、止まらない。
スライダーの先端が、隣の家の庭のちょうど上あたりまで達した。
そして——
「あい きゃん ふらーい!」
フミコさんが、スライダーから——
隣の庭に、すっ飛んでいった。
バシャーン!
「あ……」
「……やっちゃった」
ユイちゃんとケンちゃんは、同時に顔を見合わせた。
数分後。
「すみませーん!」
怒号に近い声が響いた。
振り返ると、隣の家の方から二人が歩いてきた
一人は若い男性——20代前半くらいの青年。
そして、もう一人は——
「フミコさん……」
二人とも、全身びしょ濡れ。
「あんたが新しく引っ越してきた人か!」
「あ、はい、その……」
青年は怒った顔で近づいてくる。
「そっちの水が——いや、その前に!」
青年は、プール施設全体を見て固まった。
「……これ、何……?」
庭の巨大プール施設。ウォータースライダー。プールサイドに鎮座するクリスタルマッチョ。デッキチェアに座る半透明のゆきのさん。
「あー……現代アート、みたいな?」
「……とにかく!そっちの水がこっちに飛び散ってきてるんだけど!?しかも、このおばさんが空から降ってきたんだけど!?」
「おばさんじゃないわ!フミコよ!」
フミコさんが抗議した。
「す、すみません……」
僕は慌ててプールから上がり、深々と頭を下げた。
「……とにかく! なんとかしてくださいよ!」
青年は困惑した顔のまま、何度も振り返りながら自分の家に戻っていった。
これは、前途多難だな……。
彼を見送った後、僕はプールに戻った。
「ごめんな、にいちゃん…やりすぎた…」
「いや、まあ…しかたないよ…プール、元に戻せる?」
「できるで」
僕はプール施設全体に祈るように向かって言った。
「元のサイズに戻して。最初の25メートルプールだけでいい」
ゴゴゴゴゴ……
家が主人の情けない命令を聞き入れたのか、プール施設がシュシュシュと縮み始める。
ウォータースライダーが消え、流れるプールが縮小していく。
元の25メートルプールだけが残った。
「よかった……」
「あら、残念。そろそろ帰る時間だわ」
フミコさんは時計を見ながら言う。
「楽しかったわ!昔に戻ったみたいで!」
この人は昔何してたんだ…
「じゃあ、私帰るわね!また来るわよ!」
「来ないでください……」
「来るわよ!」
フミコさんは手を振って、びしょ濡れのまま帰っていった。
「ほな、ウチらもそろそろ帰るわ!」
フミコさんが帰ってしばらくして、ユイちゃんが立ち上がった。
「今日は楽しかったわ!またな、にいちゃん!」
「ああ、気をつけて帰れよ」
二人は元気に手を振って、帰って行った。
「私も、そろそろ帰りますね」
美咲が立ち上がった。
「野菜、最後に見てきます」
美咲は裏庭に向かい、畑の野菜を確認している。
「トマトちゃんたち、大丈夫そうですね……」
それから、こちらに戻ってきた。
「じゃあ、失礼します。今日は……まあ、楽しかったです」
「本当?」
「はい。最初はびっくりしましたけど」
美咲は少し笑った。
みんなが帰路につき、静かになった庭。
ゆきのさんが、まだプールサイドに座っている。
「ゆきのさんも、楽しめましたか?」
「はい……ビーチボールにつかまって、流れるプール、楽しかったです」
ゆきのさんは微笑んだ。
「水には入れないけど……こんな風に楽しめるなんて、思ってもいませんでした」
ゆきのさんは立ち上がった。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
ゆきのさんは、ふわりと消えていった。
クリスタルマッチョも、いつの間にか消えていた。
プールサイドには、プロテインだけが残されている。
銘柄は『マッスル・ゴッド』。
「あいつも満足したのかな」
マッチョの忘れ物を拾い上げ、僕は苦笑した。
皆が帰り、静寂が戻った庭。
夕焼けが庭をオレンジ色に染める。 さっきまでの喧騒が嘘のようだ。でも、濡れた土の匂いだけが、確かにあの大騒ぎがあったことを証明していた。
「……楽しかったな」
小さくつぶやいて、僕は家の中に戻った。
* * *
夜。 心地よい疲労感に包まれてベッドに入る。
窓から見える星空は、いつもより少しだけ近く感じた。
その時—— もし僕が窓の外を見ていたら、気づいただろうか。
物置小屋の隙間から、淡い青白い光が漏れ出ていることに。 まるで、今日の騒ぎに呼応して「何か」が目覚めたかのように。
だが、深い眠りに落ちた僕は、それに気づく由もなかった。
(第9話終わり)




