第3話 クリスタルマッチョ
「——またか」
朝、リビングに降りると、ど真ん中に何かがあった。
透明で巨大なガラスの像が、朝日を受けてキラキラと輝いている。
そして——
ムキムキの……マッチョだ……
「何だこれ……」
近づいて、よく見ると、両手を上げ、力こぶを作るポーズ。 筋肉の一本一本まで、精巧につくられている。 胸筋、腹筋、上腕二頭筋——全て、リアルに表現されている。
高さは1メートルほどだ。
触ってみると、 冷たく本物のガラスだった。
表面には、うっすらと埃がついている。
「誰が、こんなものを……」
しかも、置き場所が最悪だ。 リビングのど真ん中でテーブルの真横だった。
どう考えても邪魔すぎる。
「とりあえず、移動させるか」
僕は像を持ち上げようとした。
「——重っ!」
予想以上の重さだ。 15kgはある。いや、もっとか。
「くっそ……」
両手でしっかりと抱え、持ち上げる。
腕が震える。 背中に力を入れて、一歩ずつ運ぶ。
玄関まで、約5メートル。
「重い……何で、こんなに……」
3メートル進んだところで、一度下ろした。
息が上がる。 額に汗が滲む。
「ちょっと、休憩……」
深呼吸して、もう一度持ち上げる。
ようやく玄関に着いた。
扉を開け、外に置く。
「はぁ……はぁ……」
僕は壁に寄りかかった。
腕が痛い。 肩も、腰も痛い。
「……運動不足、か」
でも、これで邪魔なものは片付いた。
リビングに戻り、コーヒーを淹れる。
ソファに座って、一息つく。
「やれやれ」
水を飲もうと、冷蔵庫を開ける。
「——は?」
中身が、全部プロテインになっていた。
チョコ味、バニラ味、ストロベリー味、バナナ味—— 少なくとも20袋以上。
「俺の食材が……」
昨日買ったばかりの野菜、肉、卵。 全て、消えている。
「何だよ、これ……」
僕は考えた。
さっき、マッチョ像を外に出した。
その直後に、冷蔵庫がプロテインに——
「……まさか、お前の仕業か?」
玄関の方を見る。
マッチョ像が、こちらを見ている。
いや、正確には——
ポーズが変わっている。
さっきまで、力こぶを作るポーズだった。 なのに今は、両手を下ろし、うなだれている。
「……え?」
近づいて、よく見る。
表情も、変わっているように見える。 さっきより、悲しそうだ。
「動いてる……?」
マッチョ像は、じっとうなだれている。
まるで、外に出されたことを悲しんでいるような。
「もしかして……中に戻せば……」
僕は考えた。マッチョ像を外に出したら、プロテインに変わった。 じゃあ、中に戻せば——
「食材が戻る、か?」
試してみる価値はある。
「……もう一回、運ぶのか…」
僕は深く息を吐いた。
「重いんだけどな……」
マッチョ像を持ち上げる。
「重っ……」
さっきより、疲れている。 腕に力が入らない。
「くそ……」
一歩ずつ、リビングに運ぶ。
途中で、2回下ろした。
「もう、無理……」
汗だくになりながら、ようやくリビングに戻した。
元の位置に置く。
「はぁ……はぁ……」
僕はその場に座り込んだ。
腕が震えている。 息が苦しい。
「……こんなはずじゃ……」
数分後。
ようやく落ち着いて、マッチョ像を見た。
「……ポーズ、変わってる」
今度は、胸を張って腹筋を見せるポーズになっていた。
「さっきと、違う」
僕は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
「……戻ってる」
野菜、肉、卵—— 全て、元通りになっていた。
「やっぱり、お前の仕業か」
僕はリビングに戻り、マッチョ像を見つめた。
「食材を人質にするなんて……卑怯だぞ」
返事はない。
「……分かった、分かったよ」
僕は諦めた。
また外に運ぶのは、無理だ。 体力が持たない。
「中に、いていいから……もう食材は勝手に変えないでくれ」
――――――――――――――――――――――――――――――――
その日の午後。
僕はマッチョ像を観察していた。
リビングに戻してから、何度かポーズが変わっている。
最初:力こぶ 次:腹筋 その次:上腕二頭筋 今:大胸筋
「振り返るたびに、変わってるな」
試しに、背を向けてみる。
10秒後、振り返る。
ポーズが変わっていた。 今度は、片手を腰に当てるポーズ。
「またか」
もう一度、背を向ける。
5秒後、振り返る。
また変わっている。 両手を組んで、胸筋を強調するポーズ。
「だるまさんがころんだじゃないんだから!」
僕は思わず叫んだ。
マッチョ像は、じっとポーズを保っている。
「……お前、何がしたいんだ」
答えは、ない。
僕はソファに座り、マッチョ像を見つめた。
「ボディビルダー、なのか?」
ポーズの数々。 全て、筋肉を見せるためのもの。
「もしかして——見せたいのか?」
でも、誰に?
僕は考えた。
マッチョ像は、自分の筋肉を誇示したい。 でも、誰も見てくれない。
だから——
「鏡……?」
僕は立ち上がった。
書斎に行き、姿見鏡を持ってくる。
マッチョ像の前に置いた。
すると——
ゆっくりとポーズが変わった。
両手を広げ、全身を誇示するポーズ。 鏡に映る自分を、見ているようだ。
「……これか」
でも、まだ何か足りない気がする。
よく見ると、マッチョ像の表面が曇っている。 埃、汚れ——
「もしかして……」
僕はキッチンからガラス用のクリーナーと布を持ってきた。
マッチョ像を、丁寧に磨く。
一つ一つの筋肉。 細かい溝。 全て、ピカピカに。
20分ほどかけて、磨き終えた。
「よし」
ガラスが、透き通るように輝いている。 鏡に映る姿も、クリアだ。
マッチョ像は、じっとポーズを保っている。
でも、どこか満足そうに見えた。
「……これで、いいか?」
僕はマッチョ像に話しかけた。
もちろん、返事はない。
「まあ、いいか」
僕は疲れてソファに座った。
腕が痛い。 肩も、腰も、全身が痛い。
「……今日は、もう休もう」
――――――――――――――――――――――――――――
翌朝。
リビングに降りると——
マッチョ像は、消えていた。
鏡だけが、残っている。
「……いなくなったか」
少し、寂しい気もする。
でも、悪くない。
「さて、朝食でも——」
寝室に戻ろうとして、気づいた。
ベッドの周りが、何かで囲まれている。
「……は?」
プロテインだった。
チョコ、バニラ、ストロベリー、バナナ、抹茶、ココナッツ——
少なくとも50袋。
いや、100袋はあるかもしれない。
「いらねええ!」
僕は頭を抱えた。
ベッドが、プロテインの山に埋もれている。
「何だ、この量……」
一つ手に取る。
ずっしりと重い。1kgはある。
「これ、全部で何キロだ……?」
リビングに戻ると、テーブルの上にメモがあった。
手に取って、読む。
『君の身体、貧弱だから心配。 これ飲んで、強くなって。 ——クリスタルマッチョ』
「……余計なお世話だ」
僕は深く息を吐いた。
でも、少しだけ笑ってしまった。
「お前を運んだせいだよ……」
善意なんだろう。 分かってる。
でも——
「俺、筋トレしないんだけど……」
プロテインの山を見る。
「どうすんだ、これ……」
しばらく悩んでから、僕は諦めた。
「まあ、いいか」
とりあえず、一つだけ試してみるか。
チョコ味のプロテインを開けて、水に溶かす。
飲んでみる。
「……意外と、美味しい」
窓の外を見ながら、僕は笑った。
「ありがとう、クリスタルマッチョ」
(第三話終わり)




