覚醒、漆黒の牙
「……ふぅ」
瓦礫の山の奥から、ひどく静かな吐息が漏れた。
それは生き延びた安堵というより、作業に一区切りついた時の息遣いに近かった。
碇が、ゆっくりと立ち上がる。
手元に残っていた折れた柄を一瞥し、何の感慨もなく放り捨てた。金属が床を打つ乾いた音が、資材庫に張りつめていた緊張を逆に際立たせる。
腰のホルスターから、一本のナイフを抜く。
光をほとんど反射しない黒い刃。用途だけを突き詰めた形状で、余分なものは何一つ付いていない。
その瞬間、山本は理由のはっきりしない違和感を覚えた。
空気が変わった、というより、同じ場所にいるのに条件だけが書き換えられたような感覚。温度が下がったわけでもないのに、背中に薄い寒気が走る。
碇の背後で、何かが揺れた気がした。
視界の端で、影が影以上の形を取ろうとして、すぐに崩れる。目の錯覚だと切り捨てるには、印象が強すぎた。
「……一分で終わらせる」
声は低く、平坦だった。
急かす調子でも、挑発でもない。ただ、時間を区切る必要がある、という事実を告げているだけだった。
山本が吼え、踏み込む。
だが、刃は届かなかった。
どれほど速く振るっても、どれほど力を込めても、碇の動きは常に半拍早い。防いでいるようには見えない。避けているとも違う。
刃が当たる直前で、流れが変わる。
力の向きがずれ、そのまま返される。狙ったはずの軌道が、いつの間にか自分の身体へ向き直っている。
刃を振るうたび、山本の体に新しい裂け目が増える。
理由が理解できない。狙っていないはずなのに、切られている。
攻めれば攻めるほど、距離が縮まる。
力を込めるほど、返ってくる損傷が深くなる。
おかしい。
守られているはずなのに、下がらされているのは自分の方だ。
そこでようやく、山本は一つの言葉に行き着いた。
守勢。
だが、ただの防御じゃない。
これは――攻めの守勢だ。
理解した瞬間、恐怖が追いついた。
自分は今、動くたびに自分を削っている。
腕を振るう感覚と同時に、皮膚が裂ける感触が重なる。次第に、何が起きているのかではなく、これ以上続けられないという事実だけが残る。
自分が壊れていく過程を、止められないまま見せられている。
山本の動きが、初めて鈍った
瓦礫の向こうで、金属が床を擦る音がした。
山本の足が、わずかにもつれたのを、井上は見逃さなかった。
「……あー」
気の抜けた声を漏らし、首の後ろを掻く。
防弾ベストの上からだと細く見えるが、服の下には無駄のない筋肉が詰まっている。
ただ、本人はそれを誇る気もない。
「思ったより、早いな」
誰に言うでもなく、そう言った。
構えるでもなく、前に出る気配もない。
入ろうと思えば入れる距離だ。
それでも、足は動かない。
「……ま、必要ないでしょ。勝てるよきっと」
軽く肩をすくめる。
隣で、柳生が息を止めていた。
「……誠太」
その呼びかけは、熱に浮かされた戦場には届かないと分かっている。
碇の振るうナイフは、もはや単なる刃物の軌道を逸脱していた。
一振りごとに、山本の「命」の残量が削り取られていく。 一歩、遅れる。 次に、踏み込みが浅くなる。 次は、刃の軌道がわずかに揺れる。 崩壊へのカウントダウンが、静かに、だが確実に刻まれていた。
「後の先が、成ってるじゃない」
柳生が低く呟いた。その目は、一瞬たりとも逸らされない。 かつて柳生は、誠太に剣道を指南したことがあった。竹刀を握らせ、理にかなった足運びと、相手の虚を突く拍子を、その身体に直接叩き込んだのだ。
今、誠太が手にしているのは竹刀ではなく、剥き出しの刃。
けれど、死線の真っ只中で、誠太は柳生が授けた「技術」を限りなく完璧にトレースしていた。
自分の教えが、これほどまでに残酷で、かつ美しい形で開花している。 柳生の口元には、戦慄を上回る**「師としての悦び」**が、歪に滲んでいた。
「……でも」
続きを言うのを、やめた。 誠太の背後には、守護の神――**「マサカド様」**の影が揺らめいている。 神の力を借りて技量を底上げし、人間を超越した精度で「動き」をなぞるその姿。技術の完成度が上がれば上がるほど、誠太が人間として「こちら側」へ戻る道が、細く、頼りなくなっていく気がした。
教え子の成長は、人としての終わりを意味するのではないか。 その予感が、柳生の胸を冷たく締め付けていた。
少し離れた場所で、因幡啓治が葉巻を咥えたまま、壁にもたれている。
安物のスーツは相変わらずだらしなく、片手には金属製のスキットル。
戦闘を見ているようで、実際は見ていない。
視線は合っていないのに、何が起きているかは全部分かっている顔だった。
「....若いなあ」
ぽつりと、どうでもよさそうに呟く。
スキットルを傾け、喉を鳴らす。
「一分、ねえ……」
葉巻の煙が、ゆっくりと天井に溶ける。
「せっかちなのは、昔からか」
名前は出さない。
評価もしない。
ただ、そう呟いた。
床に倒れたままのヒカリに、ちらりと目をやる。
「……ま、アイツは無事だ。安心しろ」
それ以上は気にしない。
瓦礫の奥で、また一つ、鈍い音がした。
山本の動きが、さらに重くなる。
誰も前に出ない。
止める理由が、どこにもない。
井上は欠伸を噛み殺し、柳生は拳を握り、
因幡は葉巻の灰を落とした。
それだけだった。
戦闘は、まだ続いている。
だが――場の空気は、とっくに終わりを迎えていた。




