猫を噛む
「ふざけるなあああッ!」
山本が吼え、乱暴に注射器を打ち込んだ。
針が刺さる音は聞こえなかったが、押し込む親指の動きだけはやけにはっきり見えた。
声は途中で歪み、最後は息だけになった。怒鳴り声というより、喉を無理に引き裂いたような音だった。
数秒、何も起きない。
次に、山本の肩が持ち上がった。
筋肉が膨れた、というより、位置がずれたように見えた。皮膚の下で何かが動き、血管が浮いてくる。左右のバランスもおかしい。片側だけが先に張り出していた。
白い褌一丁。
笑える格好のはずだったが、視線を逸らす者の方が多かった。近づく以前に、距離を測ってしまう。
山本が一歩踏み出す。
床が鳴る。 ドン。――いや、そんな軽い音じゃない。
腹の奥に沈むような、低く濁った響き。湿った布袋を叩きつけたような音がして、遅れて振動が足元に這い上がってきた。 それは、ただの一歩に過ぎないのに。 誰も声を出せなかった。 目の前の光景を、どう受け取ればいいのか、判断が追いつかない。 今までと同じ手順では通らない。 そう結論を出すのに、考える時間は要らなかった。 次に、山本が踏み込む。 床のコンクリートが砕け、隆起する。 そして、その刹那。 次に視界を埋めたのは、さっきまで数メートル先にいたはずの巨体だった。 空気が押し出される。 衝撃で数人の公安職員が後方に崩れ、誰かが壁に叩きつけられる音がした。
日本刀が振り下ろされる。
速さを測る余裕はない。刃が来た、と思った瞬間には、もう身体が追いついていなかった。
それは斬撃というより、落下だった。
断頭台が瞬きの間隙に降りてくる――そんな錯覚だけが残る。
そして、碇は瞬時に抜刀。
それを、考える前に、真っ向から受け止めていた。
ガギィィィィィンッ!!
金属同士が激突する轟音が、鼓膜を物理的に叩き割る。碇の足元の床がクレーター状に陥没し、凄まじい火花が二人の視界を埋め尽くした。
「折れろォォォォッ!!」
鋼鉄の丸太と化した山本の腕に、どす黒い血管がミミズのようにのたうち回り、不気味なほどにパンプアップを遂げる。薬物によって引き出された**「馬怪力」**がさらに跳ね上がり、空間そのものを圧殺せんばかりの圧力を生み出した。
「死ねッ! 死ねッ! 死ねえええッ!!」
その圧力に耐えかね、限界までしなった碇の刀が、ついに悲鳴を上げる。
バキィィンッ!!
戦場には不釣り合いなほど、いやに澄み切った破砕音が渇ききった空間に響き渡った。碇の刀身は半ばから粉々に砕け散り、銀色の破片が火花と共に舞う。
「しまっ——」
防御の術を失った碇の胴体に、山本の刃が、そしてその背後にある圧倒的な暴力が**「残心」**となって直撃する。
ドォォォォォンッ!!
それは、人間が出せる衝撃とは思えない代物だった。
碇の身体は文字通り放射された砲弾の如く後方へ吹き飛び、ぶ厚いコンクリートの壁を一枚、二枚と容易くぶち抜く。三枚目の壁を貫通し、ようやく資材庫の最奥へと叩き込まれた。
「ははは! 見たか! これが俺の力だ! 俺こそが最強なんだよォォ!!」
粉塵が舞う中、山本は隆起した背筋を誇示するように震わせ、勝ち名乗りを上げた。その叫びには、勝利の歓喜以上に、肥大化したドス黒い自己顕示欲がべったりと張り付いていた。




