絶望的自己愛(日常回)
とある日、窓の外では、すべてを灰色に塗り潰すような細い雨が降り続いていた。俺は、目の前のマグカップから立ち上る湯気を、親友の仇でも見るかのように睨みつけていた。
「……苦ぇ。なんだってこんな泥水に金を払う奴がいるんだか。なぁ、砂糖とミルクをくれよ〜。」
「….もう、ヒカリくん。それは『007』への冒涜だと思うよ?」
カウンター越しに、イヴが呆れたような顔で身を乗り出してきた。
「ボンドが愛飲していたのはブルーマウンテン。コーヒーを飲用する事は、一流の紳士の嗜みなの。……まあ、お子様なヒカリくんにはまだ早いかな?」
「うるせえ。俺は一生お子様でいいんだよ」
イヴがくすくすと笑いながら、砂糖とミルクを差し出してくる。
俺はそれを受け取り、たっぷりと投入した。これでやっと、暴力的な甘みが苦味という奈落を「楽園」に変えてくれる。
その時、ドアの鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ!」
イヴが反射的に声を上げる。入ってきたのは、見慣れない男だった。 動作は非常にスムーズで、穏やかな笑みを浮かべた表情からは、どこか浮世離れした清潔感が漂っている。
「...失礼するよ。あぁ、ごめんね、こんな雨の日にお邪魔してさ。……あ、床を濡らしちゃったかな。本当に申し訳ないよ」
「大丈夫だよ! どうぞ、お好きな席へ」
イヴが明るく応えると、男は「ありがとう」と柔らかく微笑み、カウンターの俺から二つ離れた席に腰を下ろした。
「本当に、ボクみたいな者がこんな素敵なお店に入れるなんて。……なんだか、今日の分の運を使い果たした気がするな。…少し怖いや。だって、交通事故に遭って死亡してもおかしくないくらいの幸運を味わってるんだからね。」
イヴが水の入ったグラスを差し出す。男はそれを両手で丁寧に受け取った。
「……Merci。あ、ごめん。つい、癖なんだ」
「……あ、お客さん、フランスの人? メルシーって。」
「えっ……。あぁ、わかってしまったかな。ボクみたいな影の薄い人間のルーツなんて、誰にも気づかれないと思ってたんだけど。なんだか恥ずかしいな」
「私、フランスは恩知らずな人ばかりだから大嫌いなんだけどさ。でも、あなたは良い人そうだから仲良くできそう。」
イヴが屈託なく笑うと、男は少しだけ目を見開いた後、心底嬉しそうに、爽やかに笑った。
「もちろんだよ。こんなボクみたいな、何の取り柄もない空っぽなゴミ虫を相手にしてくれるなら、ボクはいくらでも仲良くしたいな。君は本当に優しいんだね」
「……あはは、大げさだなぁ〜。注文決まったら教えてね」
イヴは少し照れくさそうにしながら、メニューを指差した。
「ありがとう。ボクみたいなクズはただの『付け合わせ(ガルニチュール)』みたいなものだから、気にしないでいいよ。ボクのことは無視して、二人の素晴らしい時間を続けてよ。ボクなんかがその邪魔をするなんて、あってはならないことだからね」
男は穏やかな笑みを湛えたまま、静かに目を伏せた。丁寧で紳士的な立ち居振る舞いとは裏腹に、言葉の端々からは「持てる者」が「持たざる者」を見下ろすかのような、拭い去れない選民意識が滲み出していた。
「今日はハンガリー風の魚のスープがおすすめだよ」
「それは素晴らしいね。じゃあ、それを頂こうかな。……あぁ、ボクみたいな凡人の舌で、キミみたいな素晴らしき才能に溢れた人の料理を評価するなんておこがましいかもしれないけど。精一杯、味わわせてもらうね」
「....うん、感想聞かせてね!」
イヴが厨房へ戻る。男は静かにグラスの水を一口飲んだ。そして、隣の俺へ向けて、実に自然な調子で話しかけてきた。
「あの……」
「なんだ」
「そのコーヒー、お好きなんですか?」
「……別に。淹れてくれたから飲んでいるだけだ。」
「....なるほどね。大切な想い人が淹れてくれたものなら、それが何であれ価値がある。素敵なことだね」
「はぁ⁈ち、ちげーし。」
男が、ふっと穏やかに微笑む。
その目は、俺という人間を肯定しているようでいて、その実、俺の奥にある「資質」を舐めまわし、味わいながら検品しているかのような、非人間的な色を秘めていた。
しばらくして、スープが運ばれてくる。男は一口含んだ。
その瞬間、彼の表情がパッと明るくなった。
「……これは、本当に素晴らしいよ。完璧な『天賦の才』を感じるよ」
「本当!?」
「ええ。このバランス……努力という凡庸な積み重ねでは、決して辿り着けない領域だ。……ああ、でも、これほど素晴らしいものを僕が口にしてもいいのかな。まるで、草野球チームが紛れ込んで甲子園で優勝をさらってしまうような……不相応で……背徳的な幸運な気がして。なんだか、たまらなくワクワクしてくるんだ。」
男の言葉は穏やかだった。だが、その比喩の残酷さに、俺は思わずスプーンを止めた。
「……ワクワク?」
イヴが首を傾げる。男は、何事もなかったかのように微笑んでいた。
「もちろんだよ。自分みたいなゴミが、本物の資質に触れられる……これほど幸福なことはないからね。申し訳なくなってしまうよ。ボクみたいなゴミでも、また来ていいなら……君たちのために、どんな踏み台にだってなるよ。」
「あはは、心強いなぁ〜、またぜひ来てね!」
イヴは明るく応えたが、俺は男の言葉に宿る、徹底した「選民的な価値観」が気になって仕方がなかった。 自らを「ゴミ」と蔑みながら、その表情はどこまでも晴れやかだ。まるで自分の無価値さを神に与えられた特権として誇っているようにさえ見える。肥大した自尊心なのか、あるいはその対極にあるものか。ノータリンの俺には、アイツがどちらの極地に立っているのか分からなかった。
男は会計を済ませ、再び丁寧に頭を下げた。
「あはは、優しいんだね。日本には『謙譲の美徳』があるんだろう? ボクはそれが大好きだよ。ボクみたいな『ゴミみたいな才能しか持たない人』を覆い隠すには、ぴったりな言葉だからね。」
男は店を出ていく。ドアの鈴が鳴る。 雨の中に消えていく男の背中を、俺は得体の知れない寒気と共に黙って見送った。
「うーん……変な人だったね。でも、いい人そう」
イヴが俺の隣に座る。
「……わけわかんねーよ。あいつ、自分のことゴミだなんて言いながら、結局はそんな自分が大好きで、その状況を楽しんでるだけに見えたぞ。……まともじゃねーよ。アイツには、これ以上深入りしない方がいい気がするな……なぁ、もう一杯。今度は紅茶をくれよ。」
「あはは、了解!」
窓の外の雨は、まだ降り続けていた。




