痛みの先へ
膝の震えが、どうしても止まらなかった。
一歩踏み出すたびに、骨が軋む嫌な音が頭の中に響く。 マガツを倒すために、自分の命をすり潰すような真似をした。そのツケが、今になって一気に回ってきた。
肺は溶鋼が流し込まれた様な感覚に満ちていた。内壁を焼き付け、一寸の伸縮も拒むほどに固く、重苦しい。視界の端がチカチカと不規則に明滅し、放っておけば意識の輪郭ごと、奈落の闇に溶け落ちてしまいそうだった。
「……ヒカリ様、大丈夫ですか?」
ヴェレスの声が、妙に遠く聞こえる。 心配そうに覗き込んでくる彼女の顔も、今は幾重にも重なっている様に見えていた。
「……ああ。まだ動ける」
荒い息を吐きながら、強がって見せる。しかし、 実際は、全身の細胞が「もうやめろ」と喚き散らしていた。 けれど、止まるわけにはいかなかった。
(ヒルメ……待ってろ。今、行く)
奥歯を噛み締め、口の中に広がった鉄の味を飲み込む。
薄暗い廊下の先に、地下へと続く階段が見えた。 湿り気を帯びた冷たい空気が、足元から這い上がってくる。
一段。
また一段。
降りるたびに、周囲の空気がじっとりと重くなっていくのがわかる。
地下一階、地下二階。 そして、たどり着いた地下三階。
「……ここだ」
ヒカリが足を止めた。 目の前にあるのは、あからさまなほど派手に装飾された、不気味な大扉だ。
扉には、二人の女が描かれていた。 片方は、背中に禍々しい翼を生やした異形。 跪き、左手には白のユリを握りしめている。 立てられた人差し指と中指が、何か不吉な儀式を指し示しているようで見ているだけで吐き気がした。
「……ヒカリ様」
ヴェレスが、震える手でヒカリの袖を掴んだ。
「怖いです……」
情けない声。 でも、それが今のこの場所の正解なんだろう。 ヒカリは、空いた手でヴェレスの頭をぽんと小突いた。
「……大丈夫だろ。俺がいる」
「……!」
ヴェレスの瞳が、じわりと潤む。 ヒカリは彼女の目を真っ直ぐに見据えて、一言だけ付け加えた。
「だから──一黙って着いてこい」
扉の取っ手は、氷のように冷たかった。 残った力のすべてを掌に乗せて、一気に押し開く。
ズ、ズズ……。 重厚な音が響き、扉の向こう側が姿を現した。
─────
そこは、想像していた教団の部屋とは似ても似つかない場所だった。
「……和室?」
思わず、呆然とした声が漏れた。 扉の向こうに広がっていたのは、ここが地下深くであることを忘れさせるような、果てしない畳の海だった。
足裏から伝わる井草のひんやりとした感触は、戦いで熱を帯びた身体にはひどく場違いに思えた。
見上げれば、異様なほどに高い天井。 その圧倒的な空間の中で、壁一面を埋め尽くす「図案」が、俺の視線を嫌でも釘付けにした。
真っ白な地。 その中央に、まるで血で塗りつぶしたような赤い日の丸。 そしてあろうことか、その赤い円の中に、白抜きの線で「山」の字を象った鋭いマークが、執拗に、それこそ数え切れないほど並んでいる。
どこか、狂気的な熱狂を思わせるその意匠。 名こそ知らないが、そこにあるだけで見る者を抑圧し、一つの方向へ強制的に向かわせるような、冷徹なまでの統一感がそこにはあった。
「……っ、なんだよ、あれ……」
理解が追いつかない光景は、さらに続いた。
部屋の奥、上座にその男は座っていた。
脂身が一切ない、岩のようにゴツゴツとした肉体。 それを、褌一枚という異様な姿で晒している。 中年の、だが研ぎ澄まされた真剣のような男が、一振りの日本刀を無造作に提げている。
男の周りには、数人の若い女性信者が侍っていた。 そして部屋の両脇には、黒服を着た屈強な男たちが、数十人。 微動だにせず、供奉の列のように並んでいる。
「来たか……反逆児」
男が、ゆっくりと腰を上げた。 褌一丁という実に滑稽な姿。なのに、そこから放たれる殺気だけは、凍りつくほどに鋭い。
公安の資料で見た、あの顔だ。 聖桜教団の頂点。
「……お前が、ボスの山本匡夫だな」
ヒカリが、全身の痛みを無視して身構える。
「そうだ! 俺こそが、聖桜教団の教祖──山本匡夫である!」
山本が、腹の底から響くような声で高笑いした。
「お前を──この聖地で亡き者にしてくれる!」
「イかれ野郎め……ヒルメはどこだ!」
ヒカリが叫ぶ。
「ヒルメ? ああ、アイツが攫った女か」
山本が、愉悦に満ちた目で部屋の最奥にある扉を指差した。
「あれは──もっと奥にいる」
一気に駆け出そうとしたヒカリを、山本の冷たい視線が制する。
「だが──俺を倒さなければ、そこには行けんぞ!」
山本が、無造作に日本刀を正眼に構えた。 その構えには、隙がまったくない。
「来い! 俺が──人類のため、お前を浄化してやる!」
────さあ、どうする。
疲労は限界。相手は真剣。 逃げ場のない和室で、最後にして最大の死闘が始まろうとしていた。




