意思は前に進み続ける
ギチチィィィ、パン。
鼓膜の奥で、何かが爆ぜる音がした。
衝撃波が遅れてやってくる。肺の中の空気を、鉄球で無理やり押し出されたような感覚、強制的な排気に近かった。
マガツの巨体が、糸の切れた人形のように、瓦礫を撒き散らしながら後方へとぶっ飛ばされる。
ヒカリの右拳には、じりじりと焼けるような「熱」が残っていた。
それは硬い鱗を殴った手応えではない。
まるで熟れていない果実の皮を突き抜け、その中にある「種子」を直接握り潰したような、悍ましくも確かな肉の感触。
内部透過──。
漆黒の鱗という「難攻不落」を、ヒカリの意志がすり抜けてみせた。
「……が、ハッ……あ、がぁッ!!」
マガツの口から、どろりと溢れ出したのは、鉄の臭いが鼻を刺す鮮血。無機質だったその眼球が、初めて計算外の苦痛に濁り、剥き出しに見開かれる。
彼が信じていた「理論」という名の絶対的な盾が、今、目の前の少年の「理不尽な叫び」によって、内側からボロボロに崩れ去っていた。
「……あり得ない。計算上では私の装甲は、核熱にすら……」
震えるマガツの声に、もはや先ほどの冷徹さはない。
「計算……? まだそんな、数字の話をしてやがんのかよ。」
ヒカリは笑った。
「それ、なんて言うか知ってるか?机上の空論って言うんだゼ。」
喉の奥から込み上げる熱い血を床に叩きつけ、肺を焼く激痛を、
生の実感として噛みしめ、脳に刻み込む。
「あぁ...なるほど。素晴らしい。」
その不敵な態度が、ヒカリの怒りに火を注いだ。
「そのツラだ……。何もかも見透かしたようなその面が、反吐が出るほどムカつくんだよッ!」
再度の猛攻。
「ガァッ!」
──マガツが吠える。
肺をズタズタに引き千切らんばかりの、全身全霊の咆哮。
傷口からは、泥に似た漆黒の触手がのたうち、砕けた臓腑を強引に縫合していく。
再生――。それは神秘とは程遠い、死の安らぎさえ拒絶する「呪い」そのモノであった。
「……見事だ。だが、お前は前提を見落としている。
俺たち『合一者』は、圧倒的な再生能力を持ち、概念が消滅せぬ限り、たとえ死んでも蘇る。
この傷も、ただの一時に過ぎない……!
要するに、無駄な行為だ。」
「不死身……。あぁ、殺すのは諦めてやるよ」
ヒカリは重心を低く落とした。
全身の血管が、過負荷で破裂しそうに脈打っている。
先ほどの「内部透過破壊」は、確かに強力な技だが、使うたびに自分の寿命を火に焚べる薪のように燃やしているような感覚がある。
なら──。
「お前をここからぶっ飛ばして星の彼方に送るのに、死は必要ねえだろ?」
ヒカリは地を蹴った。
次に選んだのは、正確無慈悲な「攻撃」だ。
鎧があるなら、その隙間を狙えばいい。
どれほど強固なプレートアーマーでも、動くためには関節という名の「弱点」が必要になる。 シュッ、と空気を切り裂く鋭い音が連なる。 光を纏ったヒカリの拳が、マガツの肘裏、膝の窪み、首筋の微かな隙間を、針に糸を通すような精度で突き抜ける。
焼ける肉の臭い。
熱く沸き立つ熱が関節の靭帯を焼き切り、マガツの「人間離れした動き」を、一つ、また一つと奪っていく。
「ははっ……! 散々、痛ぶってくれたが……そのクソ硬い鱗も、今じゃただの重しにすぎねぇな。」
「……ッ、小癪な!」
その巨躯が、ゆっくりと、だが確実に崩落していく。
ヒカリが叩き込んだのは、もはや技などと呼べる代物ではなかった。降り注ぐ流星群のごとき無数の打撃と斬撃。それは、ただひたすらに肉を削ぎ、骨を砕き、敵の再生と処理の限界を超えさせるための、純粋な破壊の連鎖だ。 洗練からは程遠い。そこにあるのは、泥にまみれた執念と、絶対に折れぬ根気。その意思のみを刃に変えて、彼は巨大な絶望を追い詰めた。
「再生が追いつくか試そうぜ……。お前の脳を、処理落ちさせてやる!!」
──その時だ。
マガツの瞳に、赤い灯が宿った。
計算ではない。冷静さでもない。
プライドをズタズタにされた獣の、剥き出しの激昂。
「……認めん。認めんぞ……ッ!!」
咆哮と共に、漆黒に染まった衝撃が暴風となって廊下を駆け抜ける。 マガツは、自らの命綱である「鱗」をすべて脱ぎ捨てた。
防御を捨て、不死という前提すら脇に退け、全出力をただ一撃の「破壊」に変換する──自壊覚悟の最終形態。
【即殺執行形態】
「お前を、その存在ごと、塵に変えてくれる!!」
回避という思考は脳内から除外されていた。
マガツの左拳が、ヒカリの頬を裂き、肉を抉る。
ヒカリの左拳が、マガツの剥き出しの胸部を砕く。
──ドガッッッ!!
泥臭く、熱く滾るクロスカウンター。
意地と意地の、殴り合い。
視界が真っ赤に染まり、脳はパチスロのぱち玉が如く、頭骨内壁に激突を繰り返す。
だが、ヒカリの心臓は、これまでになく激しく「未来」を求めて鼓動していた。
「なぜ……なぜ倒れん! お前の体は、とっくに限界のはずだ!!」
「効くかよ。お前の拳は……軽すぎるんだよ。」
ヒカリは、血に濡れた口元で不敵に笑う。
「……お前が、その拳に『過去』ばかり詰め込んでやがるからだろうな。」
マガツの拳に乗るモノは執着だ。
過去への、未練だ。
対するヒカリの拳は、まだ見ぬ明日を、これからヒルメを助けるという一点だけを信じた、純粋な「意志」。
「お前は『かつて』に縋ってろ。俺は、明日に行くんだよッ!!」
ヒカリは、溜めた。
最後の一滴まで。
魂を。命を。己の全てを。
砕けかけた右拳に、凝縮させた。
「ッッッ、再生が……追いつか……ッ!?」
「あばよ。クソ野郎──!!」
──ドォォォォォォォォンッ!!
拳が、マガツの胸板を貫き、その背中側から、凄まじい光の奔流が突き抜けた。真昼のような極光が、廊下を真っ白に塗り潰す。
絶対的な災厄として君臨し、他者の運命を「コインと数値」で決め、弄んできた男が、ただの一人の敗北者として、無様に地平の彼方へと吹き飛ばされた。
光が収束し、静寂が戻る。
廊下は、もはや原型を留めていなかった。
大きなクレーターの底に、変身が解けた男が、虫の息で横たわっている。その様は実に滑稽であった。
ヒカリはよろよろと、だが力強く歩み寄る。
男は血を吐き、虚ろな瞳で空を仰いでいた。 光を失った彼には、もう何も映らなかった。
「……お前、何者だ。一度定まった結末を……俺という災いを……否定し尽くすというのか」
掠れた問いに、ヒカリは短く応じる。
「ヒカリ……ただの、ヒカリだ」
余計な言葉はいらない。ただ、己の在り方だけをそこに置いた。
男の指先から、一枚のコインがこぼれ落ちる。 カラン……、カラン……。 冷たい石床を転がる乾いた音が、静寂を切り裂いて止まった。
「……裏だ。裏に賭ける。」
男が、自嘲の笑みを浮かべる。 見えぬ眼で、自らの勝利を、あるいは救いを信じようとしたのか。
だが、ヒカリは静かに事実を突きつけた。
「表だぞ」
男は、遠い過去に思いを馳せるように、満足げに、あるいは酷く寂しげに目を細めた。
「はっ....ハハ。いつも、運命は……俺の敵のようだな……」
そこで、意識が途切れた。
しかし、ヒカリはトドメを刺さなかった。
ただ、背を向けて歩き出す。
「行くぞ、ヴェレス」
「……はい、ヒカリ様。……本当に、無茶をされますね」
闇のさらに奥へ。
まだ見ぬ明日、ヒルメを救い出すために。
足元で月光を弾くコインの「表」が、運命という名の鎖を断ち切った、小さな勝利を祝福していた。




