不味い焼肉と洋食屋
休日の朝は最高だ。
もちろん目覚ましもセットしてない。誰からも指示されない。訓練、任務もない。
「あー、幸せ。よーーし、二度寝しよっと。」
俺はベッドで寝返りを打つ。
このまま昼まで寝てもいい。いや、夕方まで寝てもいい。
「ヒーカーリー、起きてる?」
扉をノックする音。
ヒルメの声だ。
ヒルメの声だ...
「寝てるー」
「嘘つかないの。起きなさい」
「やだー」
「今日、焼肉行くわよ!」
焼肉?
俺は飛び起きた。
「マジ?...それはホントウデスカ?」
「本当ですよ〜。公安の近くに巷で評判の店があるの。一緒に行きましょう!」
焼肉か。最高、いいな。
「分かった、すぐ準備する」
「じゃあ30分後にロビーで」
ヒルメの足音が遠ざかる。
俺は服を着替えて、顔を洗った。
休日に女と焼肉とか最高じゃん。
────
公安本部のほど近く、その焼肉屋はあった...
店の名は「肉神」。だが、その威厳を誇示するには、あまりにもくたびれた外観だった。
雨風に削られた看板は文字の判別すら危うく、まるで神の名を試すかのように色あせている。
入口は人ひとりがやっとすり抜けられるほど狭く、無骨な木の戸は油と煙に馴染んだように黒ずんでいた。
外から眺めれば、ここがただの場末の焼肉屋にしか見えない。薄汚れた暖簾の奥から漂う煙は、妙に鼻を突き、胃をざわつかせた。
焦げた油の匂いと、どこか生臭い肉の気配――静かに、しかし確かに、この店が噂通りの美味ではないことを告げていた。
「ここぉ?大丈夫なのか?」
「...............評判いいのよ..........安いし」
ヒルメが扉を押す。
重く湿った油の匂いが押し寄せた。
店内は薄暗くて、壁には肉の写真がびっしり貼られてる。
「いらっしゃい!!!!」
店主が笑顔で迎える。
太った中年男。エプロンは油で黒光りしてる。
「お、今日も元気そうだね!うんうん!」
「へっ⁈....今日も?初めてのはずだけどなぁ。」
俺が言うと、店主は笑った。
「あっははぁ、そうだっけ?まあいいや、座って座って‼︎」
なんか変な店だな。
俺たちはカウンター席に座る。
「――おい、昨日のニュース見たか?いや、あれ、違うんだよ、絶対裏がある…いや、でも誰も気づいてねえんだ、わかるか?ああ、もう、誰も信じられねえ…」
店主がぺちゃくちゃ話しかけてくる。
「いや、見てねぇっす」
「......そっかそっか。じゃあこれ、おすすめのカルビ!」
皿の上に肉が盛られる。
見た目は…うーん、微妙。
色が黒ずんでて、油がベトベトしてる。
臭いもキツい。
「焼いてみなよ!」
店主が網に肉を乗せる。
ジュウジュウと音を立てる。
臭いは…焼いても変わらずやばい。
腐ってるわけじゃないけど、なんか変だ。
「ほら、食べて食べて!」
店主が俺の皿に肉を乗せる。
俺は箸で肉をつまむ。
口に入れる。
「……」
まずい。
いや、マジでまずい。
油っぽい、変な臭いがする。クソ以下だな。
「どう?美味しいでしょ?」
店主が期待の眼差しで見てる。
「あ、あぁ…美味しいなぁ。」
嘘をついた。
でも、まずいとは言えない。
「ヒカリ...私ちょっと無理かも。」
ヒルメはポケットからそっとティッシュを抜き、まるで口元の脂を拭くようにふと当てた。
その動きに合わせて、指先で肉の塊を押し出すようにして、薄くねじれたティッシュの裏へと吐き込む。
顔には微かな苦笑を残して、周囲への視線を一つも逸らさない――バレないように、あくまでさりげなく。
「おかわりどう?」
「いや、もういい。大丈夫だ。」
「遠慮しないで!ほら!」
また肉が皿に盛られる。
はぁ?やべぇだろ。いらねぇって言ってんだろ...
口の奥で反射が起きた。
むせるような感覚――胃の奥から逆流する嫌悪感が、一瞬体を支配する。
「ヒカリ、大丈夫?」
ヒルメが心配そうに聞く。
「大丈夫、大丈夫だって。うめぇー」
嘘に嘘を重ねる。
でも、これ以上は無理だ。食べ物は粗末にしたくないけど、これは...
「にいちゃん‼︎いい食いっぷりだな‼︎嬢ちゃんも食べないと!ほら、タレはこのくらいかけると美味しいよ!」
店主がタレをヒルメの肉にドバドバとかける。
「あ、ありがとうございます」
ヒルメは笑顔を浮かべつつ、再び肉を口に運す。だが、指先の動きは隠すようにティッシュの上でそっと吐き出す。
その瞬間――
店主の目がヒルメを捉えた。
「テメェエエエ‼︎」
声が変わった。
「見たぞ‼︎吐いたな、吐き出したよなぁぁぁぁアアア‼️...コロス、殺してやる‼️」
店主の体が膨れ上がる。
肉が蠢き、フライパンが宙に浮く。
「肉は残さず喰えェェ‼︎骨まで愛せェェ‼︎」
店主の体から触手のような肉塊が伸びる。
神だ。
「マジかよ、休日なのに仕事かよ‼︎」
俺は椅子から飛び退いた。
──肉塊が、まるで生き物のように俺に襲いかかってくる。
ドガッ!
カウンターが悲鳴を上げて砕け散る。
そこから、ヌルヌルとした触手が蠢きながら伸びてきた。
肉の塊は、形を変え、牙にも似た突起を光らせ、俺の足元へと迫る。
その瞬間、店内の空気が変わった――甘く脂の香る煙の中に、獣の匂いが混じり、俺の血の奥底が冷たく震える。
「ヒカリ、変身して!」
ヒルメが叫ぶ。
「分かってるって!」
俺は首にナイフを当て掻っ切る。
血が流れる。
炎が体を包む。
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その姿は、ただ哀れであった。
背に黒き翼を持つ。けれどもそれは燃え残りの煤にすぎず、羽根はばらばらに剥がれ落ち、地に散らばっては腐ってゆく。
額には光の角が立ち上がっていた。けれども輝きはどこか歪み、あたかもこの世に似つかわしくない異物のようで、見る者の心を苛むばかりであった。
人のかたちをしている。
だが人には見えない。
眼差しは青白く澄みながら、底にひそむのは飢えと怨嗟と、救われたいという身勝手な渇望だった。
「楽して生きたい」「幸せになりたい」「満腹になりたい」「眠りたい」「愛されたい」――そのような卑小な願いのすべてが、なぜか彼をして神に逆らわせ、天をも焼かせる。
哀れである。
けれども美しい。
堕天の影は、その矛盾そのものを姿とする。
彼は生きたがっていた。誰よりも、醜く、必死に。
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俺は肉塊を掴む。
光が宿る。
「きめぇぇんだよ!クソが!」
肉塊を引きちぎる。
店主が悲鳴を上げる。
「我が肉を‼︎我が愛を‼︎」
フライパンが飛んでくる。
俺は腕で防ぐ。
ガキィン!
硬い。でも、問題ない。
「お前の焼肉!マジでまずかったわ!」
ヒカリの声が店内に響き渡る。
「食べ物を粗末にしやがって!畜産家に失礼だと思わねぇのか!」
店主が硬直している隙に、ヒカリは突如、両手を振りかざして前へ跳ぶ。
「もう二度と、こんな腐った肉、客に出すな!」
空気が裂けるようにヒカリが店主めがけて飛びかかる。
拳を振り上げる。
光が爆発する。
店主の体が吹っ飛ぶ。
壁に激突して、崩れ落ちる。
肉塊が溶けていく。
「終わりだな」
俺は元の姿に戻る。
店内は滅茶苦茶だ。
「うわ、これ…どうすんだよ」
「碇さん達に連絡しないと」
ヒルメがスマホを取り出す。
────
三十分後、碇さんやリリスさん等が到着した。
「状況は?」
碇さんが店内を見渡す。
「店主が神契者でした。肉の神と契約してたみたいです。」
ヒルメが報告する。
「休日だったのに、ご苦労様。」
リリスさんが俺の頭を撫でる。
「後処理は俺たちがやる。君たちは休んでいいぞ」
碇さんが言う。
「マジっすか?」
「ああ。ただし、報告書は後で提出しろ」
「へいへい、分かりました」
俺たちは店を出る。
外の空気が美味い。
「ヒカリ、あなた本当にあの肉、食べ切ったのね。」
ヒルメが呆れ顔で言う。
「あぁ?食いもんには変わりねぇだろ。栄養に変われば一緒だ。」
「...それにしても、休日に戦闘って最悪ね」
「マジで。おかげで腹減ったし」
「……じゃあ、私のお金で、別の店に行かない?」
微かに笑みを浮かべながら差し出された手に、ヒカリは少しだけ驚いたように目を見開いた。
「行く行く!どこかいい店ない?」
ヒルメが考える。
「公安の近くに、洋食屋があるわ。ベテルっていう店よ。」
「洋食か。いいな。ハンバーグ食べてぇなぁ。」
俺たちは歩き出す。
─────
ベテルは小綺麗な店だった。
焼肉屋とは大違い。
入口から、温かい光が漏れてる。
「いらっしゃいませ」
木製の扉を開けると、女性の声。
俺は顔を上げた。
その瞬間、心臓が止まった。
「…え」
なんか……ドキドキする。
肩より上でまとめられた赤みがかった紫のショートヘアは、後ろにひとつのお団子を結んでいる。
お団子の端から毛束が無造作にこぼれ、軽やかに揺れる。
青い瞳が俺をじっと見つめていた。
白い肌、細い首、柔らかそうな唇。
「カウンター席でいいですか?」
その声が、耳に心地いい。
「あ、あぁ…はい」
俺は思わず敬語になってた。
ヒルメが不思議そうに俺を見る。
「ねぇ、どうしたの?」
「いや、なんでもねーよ」
俺たちはカウンター席に座る。
店員が近づいてくる。
近くで見ると、もっとやばい。
「お飲み物は?」
「コ、コーヒーくれ」
声が裏返った。
「私も」
ヒルメが冷静に答える。
店員が微笑む。
その笑顔が、心臓に直撃する。
「少々お待ちくださいね」
店員が振り返る。
その後ろ姿も完璧だ。
「ヒカリ、顔赤いわよ」
ヒルメが心配そうにこちらを覗く。
「あら、もしかして風邪?」
「引いてねぇよ」
風邪じゃない。けど心臓がバクバクした。
しばらくして、コーヒーが運ばれてきた。
湯気が立ち上る。
店員が俺の前に置く。
「顔色ひどいですねぇ……疲れてません?」
その声に、心配そうな響きがある。
「甘いの、足しときましたよ。」
スプーンで砂糖を落とす仕草が、妙に色っぽい。
「ありがとう」
俺は視線を逸らす。
「ゆっくりしていってくださいね」
店員が微笑む。
でも、その笑顔の奥に何かある。
少しだけ、いたずらっぽい光。
「あのさ…」
俺は思わず声をかけた。
「はい?」
「お、お名前、聞いてもいいか?」
ヒルメが呆れた顔をする。
店員は少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「イヴです」
「イヴ…」
俺は少し間を置いて、カッコつけて言う。
「なんか…聖書っぽい名前だな。エデンの園的な」
(今の俺はイケてたな)
「ふふ、詳しいんですね」
「ええ、両親が付けてくれました」
イヴが少し身を屈め、顔がすっと近づく。
店の灯りが髪に柔らかく落ちた。
「キミの名前は?」
「...ヒカリ」
「ヒカリ…いい名前。」
イヴは少し顔を赤らめ、目を細めて微笑んだ。その声には、どこか恍惚とした響きがあり、聞く者の胸を跳ねさせるようだった。
「ご贔屓にしてね。ヒカリくんのために、特別な一皿、作るからね。」
その声は耳元でささやかれるように、静かに響いた。
「えっ?ああ…だったら、ずっと絶対食いに来るよ!」
俺はわざと低い声で、片手で髪をかき上げる。
(完璧だろ〜)
イヴが笑って、厨房に戻る。
『ヒカリ、キミは完全にやられてるね。』
ルシファーが呆れていた。
(うるせぇ)
俺はコーヒーを一口飲む。
甘い。でも、その甘さが心地いい。
〈っ、ちょっと待て…〉
脳内でルシファーに語りかける。
〈絶対、俺のことが好きだな、この女。...このまま恋に発展して・・・素敵なことじゃねーか。〉
〈落ち着け、ヒカリ。鴨にしか見えないぞ。〉
(大丈夫だろ。俺を束縛するなよ)
〈束縛ではない!自由の神が束縛なんて自由からかけ離れたことはしない‼︎〉
ルシファーの声が苛立ってる。
「ヒカリ、さっきから上の空って感じだけど大丈夫?」
ヒルメが心配そうに見てる。
「あ、いや、なんでもない」
でも、俺は気にしねぇ。
イヴ。
あの笑顔、あの声、あの仕草。
全部が完璧だったな。
「また来よう」
俺は心の中で決意した。
「絶対にまた来る」
〈やれやれ…〉
ルシファーの呆れた声が響く。
「あ、ヒルメ。お前コーヒーに塩入れてんぞ」
「え?」
ヒルメが自分のカップを見る。
砂糖と塩を間違えたらしい。
「…あれ?あれれ?」
真面目な顔で首を傾げるヒルメ。
「オマエ、本当に抜けてんな」
「う、うるさいわね!」
ヒルメが顔を赤くする。
そんなやり取りを見ながら、俺は笑った。
休日も、悪くない。
神契者
・神と契約する人。




