怒りの鉄拳
深く立ち込める霧を切り裂き、その「異形」は現れた。 陽光を拒絶する漆黒の鱗、そして死の象徴たる髑髏の貌。 右手の甲から突出した骨刃が、獲物の断末魔を予見するように、小刻みな駆動音を立てて震える。
「さて……排除する」
湿り気を帯びた、冷徹な拒絶。 直後、マガツの姿が消失した。予備動作の一切を削ぎ落とした、あまりにも合理的な踏み込み。
ドガッッッッ‼︎
ガードを固めたヒカリの両腕に、鉄塊のごとき重き拳が叩き込まれた。両腕の上からでも肺腑を潰さんとする衝撃。
容易くガードを貫く、圧倒的な打撃センス。
火花を散らす視界の中で、ヒカリの呼吸が強制的に停止された。
そんなヒカリを尻目にマガツは止まらない。
そのまま吸い付くような運足でヒカリの懐深くへと沈み込んだ。重心を完全に掌握し、軸足を断つ——あの日、斉藤の目前でヒカリの尊厳を粉砕した、地獄の再現。
「がはっ……!!」
コンクリートの床に叩きつけられ、視界が火花を散らす。
マガツは崩れたヒカリの腕を掴み、自身の股間で挟み込む。そのまま後方へ倒れ込み、技を完全に固定しようとした。
───腕挫十字固め。
自身の股関節をテコに、マガツはヒカリの腕を天へと向かって極限まで絞り上げた。過剰に巻き上げられ、今にも弾けそうな弦の如き緊張が腕を支配する。肘関節はすでに、臨界点という名の境界を越えていた。 ――ミシ……ッ、ミシ……ッ。 それは、深い夜の底で家屋の梁が重みに耐えかねて鳴らす悲鳴に似ていた。肘が破壊の結末を迎える、まさにその直前であった。
「ヒカリ様! 離しなさい、この化け物ッ!!」
ヴェレスが、恐怖に顔を歪ませながらマガツへと肉薄する。 マガツの紅い双眸が、鬱陶しそうに、路傍の砂利でも見るような冷淡さで彼女を捉えた。
マガツは、ヒカリの腕を極めきるための一動作をあえて中断した。 ヒカリを固定するはずだった左脚を、跳ね起きるような勢いでヴェレスの腹部へと解き放つ。
「……邪魔だ。失せろ」
それは、あまりに容易く人の命を刈り取る死神の鎌のようだった。 来るべき衝撃を覚悟し、ヴェレスは抗うことなく目を閉じる。
だが、この「攻勢への転じ」こそがヒカリの待ち望んでいた歓喜の時間だった。 ヴェレスを仕留めるべく、マガツが脚を解き、腰を浮かせたその刹那。鉄の鎖に等しかった完璧な拘束に、わずかな、しかし致命的な隙が生まれる。 ヒカリは腕が千切れることも厭わぬ勢いで、強引にその身を引き剥がした。
――腕ひしぎ十字固めからの脱出。
まさしく、それは、死の淵からの生還であった。
「あ……がぁっ……!?」
まともに蹴り飛ばされたヴェレスの体が、壁を、柱を、幾重にも粉砕しながら吹き飛んでいく。 瓦礫の山に埋もれながら、彼女は信じられないものを見る目で、立ち上がった主を仰ぎ見た。
「ひ、ヒカリ様……わたくしを……利用して……?」
「悪いな。俺、そこまでお前のこと好きじゃねーんだわ」
立ち上がったヒカリの言葉には、慈悲も、情愛も、欠片も存在しない。 その瞳には、氷のように冷たく、それでいて太陽よりも熱い、純然たる「憤怒」が燃え滾っていた。
「それよりよ——。今度は俺が、お前に『死』を見せてやらぁ。」
ヒカリの右拳に、不吉なほどに凝縮された光輝く炎が宿る。
....その光輝く炎には隠れていた。
斉藤の死を「コインの裏表」という言葉で片付けた、この腹立たしい男。
そして──
そんな理不尽を否定できなかった過去の自分に対する、
剥き出しの殺意が。
「じゃあな……クソ野郎!!」
絶望の化身・マガツの胸元へ、全てを焼き尽くすヒカリの怒拳が突き刺さる。




