5万の死と一杯のワイン
【三日前――警察庁・公安部】
警察庁・神性事案対策部特別会議室
窓のないその部屋は、高性能な空気清浄機が唸りを上げているにもかかわらず、葉巻とワインの腐臭が淀んでいた。円卓を囲むのは、日本の治安維持を司る上層部の面々——ほとんどが60代以上、前線に出たことがない者も居る。
特権階級。
彼らの前には、最高級の灰皿とワイングラス。そして、それに見合わないほど血生臭い戦況モニターが並んでいる。
「……これが、レベル5か」
内藤理事が、震える指で葉巻を灰皿に押し付けた。モニターから目を逸らしながら、ワイングラスを口に運ぶ。赤い液体が喉を通る音だけが、静まり返った室内に響いた。
モニターには、かつての古都の面影を完全に失った京都・伏見が映し出されている。
キングクラウン『玉藻前』。
狐のクラウンの頂点覇者——そして、その名を自ら名乗る千年の妖怪。
彼女が通った跡には、破壊の跡すら残らない。建物も、木々も、人々の営みも、すべてが分子レベルで均され、白茶けた「更地」へと変貌している。それは暴力というよりは、世界の修正——デリートに近かった。
「現在の被害状況は——」
柳生班長が、重い口調で報告する。
「出現から30分で、死者5万名。」
会議室が凍りつく。
「三十分で……ご、5万だと……」
右端に座る総務部長・坂井が、青ざめた顔で呟いた。彼のワイングラスが震え、赤い液体が波打っている。
「坂井、落ち着け。我々が動揺してどうする」
向かいに座る警備局長・堀内が、鷹揚に言い放つ。だが彼の額には、脂汗が浮いていた。
「し、しかし……5万ですぞ。た、たった30分で……」
「さらに申し上げますと、玉藻前は――戦闘行為を行っておりません。」
柳生がモニターを操作する。画面に新たな映像が映し出された。
巨大な九尾の狐が——ただ、歩いているだけの映像。
だが、その一歩一歩が地獄だった。
玉藻前が足を踏み出す。その瞬間、半径数十メートルのアスファルトが噴水のように跳ね上がる。中心部がすり鉢状に陥没する。周囲のビルが、ただの風圧で倒壊していく。
「こ、これは……」
坂井が、嘔吐を堪えるように口を押さえた。
「狙って攻撃しているわけではありません」
柳生が淡々と答える。
「ただ存在しているだけで、周囲が崩壊していく」
モニターに別の映像が映される。地下鉄のトンネルが圧壊し、マンホールの蓋が弾丸のように空へ吹き飛んでいた。
「地下への影響も甚大です。玉藻前が歩いた地域は——」
柳生が地図を表示する。そこには灰色の帯が描かれていた。
「完全に更地と化しています。瓦礫すら粉砕されている」
画面に航空写真が映される。かつて街だった場所が、もはや灰色の平原になっている。元の街並みの判別は不可能だった。
「ば、馬鹿な……予想以上だ。あの伏見が……ここまで....」
堀内が呻く。彼は京都出身だった。葉巻を握りしめる手が震えている。
「意思疎通は?」
内藤が、ワイングラスを置きながら尋ねる。その声には、どこか他人事のような響きがあった。
「……不可能でした」
柳生が苦い顔をした。
「何度か試みました。しかし——」
モニターに、玉藻前の映像。公安の職員が拡声器で呼びかけている。だが玉藻前は何も反応しない。ただ歩き続ける。そして呼びかけた職員たちが、風圧で吹き飛ばされた。
「玉藻前は会話になりません。まるで指示された機械のように、ただ標的を殲滅し続けています」
「げ、現地の人間は……まだ、避難できていない者も……」
堀内が震える声で尋ねる。
「間に合いませんでした」
柳生の声が、静まり返った室内で虚しく響いた。
「……そうか」
内藤が、まるで天気の話をするような軽さで呟き、ワイングラスに手を伸ばした。
その瞬間、堀内が拳で机を叩いた。
「理事! 我々は何をしている! 5万人だぞ、5万人が死んでいるんだ!」
「堀内、落ち着きたまえ」
内藤は、ワインを一口含んでから答えた。
「我々に何ができる? 前線で戦うのは現場の人間の仕事だ。我々の役目は、冷静に状況を把握し、適切な指示を下すことだ」
「だが……!」
「現在、柳生班、井上班が現地入り。封印の展開準備に入っています」
柳生班長の声が、堀内の抗議を遮った。
そこに、地鳴りのような低い声が割り込んだ。
「「…私の班を、なぜ外したんですか。理由を、お聞かせください」」
牛島だった。
彼は壁際に、彫刻のように不動の姿勢で立っていた。その体から放たれる圧倒的な威圧感は、周囲の警備員たちの呼吸を浅くさせ、空気を物理的に重く変えている。
円卓の上層部たちが、一斉に息を呑んだ。
「この規模の事象だ。火力を集中させるのが定石だろう。……内藤理事、判断の意図を伺いたい。」
牛島の鋭い視線が内藤を射抜く。
内藤は一瞬、喉を鳴らした。ワイングラスを持つ手が震える。
彼は牛島を恐れている。
この男を京都という「予測不能な地獄」へ送り込み、万が一にも失うこと——いや、自分の支配から外れることが、耐え難い恐怖だった。
牛島がいなければ、この本部は守れない。
ひいては、自分自身すら守れない。
さらに言えば——手元を離れた抜身の刀が、いつか己に向けて振り下ろされる可能性。
その想像こそが、彼の背筋を冷やしていた。
だがそれを口にすれば、自分の「保身」が白日の下に晒される。
内藤の額に脂汗が浮かぶ。円卓の上層部たちの視線が、彼に集中した。
その淀んだ沈黙を、鈴の音のような声が鮮やかに切り裂いた。
「——牛島班長の仰る通りです。ですが、理事」
神崎リリスが、ゆっくりと優雅な所作で内藤の隣へ歩み寄った。彼女の纏う空気だけが、戦時下の緊張から切り離されたように穏やかで、慈愛に満ちている。
「牛島班長は、我々公安の『正義の象徴』。彼が最前線で、もし……ほんのわずかでも傷つくようなことがあれば、現場の士気は崩壊します。それは玉藻前という怪物を倒すことよりも、取り返しのつかない損失ではないでしょうか」
リリスは内藤の目を見つめ、陶酔を誘うような甘い微笑を浮かべた。
「理事。この本部は日本の心臓です。ここを守るためにこそ、最強の盾である牛島班長を配備すべきです。京都の泥仕事は、私共のような『取り替えのきく者』にお任せください。それが、理事の賢明な統治を支える、私たちの『愛』でございます。」
内藤の顔に、安堵の色が広がった。
リリスは、彼が喉から手が出るほど欲しかった「大義名分」を、極上の真綿で包んで差し出したのだ。
「そ、そうだ……神崎班長の言う通りだ」
内藤は震える手でワイングラスを掴み、一気に呷った。赤い液体が喉を通り、偽りの勇気が湧き上がる。
「牛島、君はここに残れ。これは国家存続のための戦略的配置だ。異論は認めん」
内藤は自分でも驚くほど威厳に満ちた声を出せたことに満足し、空になったグラスを机に置いた。カチャリという音が、重苦しい沈黙の中で響く。
円卓の上層部たちは、安堵の息を漏らした。牛島がここに残る。それは彼らの命が守られることを意味していた。
牛島はリリスを見つめた。
彼女は相変わらず聖母のような笑みを崩さない。だがその瞳の奥にある「深淵」が、自分を——いや、この部屋にいる全員を——嘲笑っているのを牛島は確信していた。
「では——」
柳生が、会議を続ける。
「神崎班を主力として、玉藻前の封印作戦を実行します」
「ただし——」
内藤が、付け加える。
「ヒカリと伊織ヒルメは、この作戦に参加させない」
「何故ですか?」
リリスが、静かに尋ねる。
「レベル5の災害だ。ヒカリはまだ不安定すぎる」
内藤が答える。
「完全合一化は確かに強力だが——暴走のリスクがある。レベル5相手に暴走すれば、取り返しがつかないからな。
敵が増える事態は避けたい。」
「伊織ヒルメは実力不足だ。この規模の作戦には、まだ早い」
「なるほど。ご懸念、ごもっともです」
リリスが、穏やかに頷く。
「では、ヒカリとヒルメは東京で待機ということで?」
「ああ。通常の任務に当たらせる」
内藤が答える。
「牛島、お前がヒカリの監視を任せる」
「……了解しました」
牛島が、小さく頷く。
だが——
牛島の目は——
リリスを見ていた。
リリスは——
穏やかに微笑んでいる。
だが——
その目の奥には——
何か、深いものがあった。
「では、各班準備を。72時間後、京都で作戦を開始します」
柳生が会議を締めくくる。
全員が立ち上がる——
───
会議室を出た廊下は、死者の道のように冷え切っていた。
「お前、よくもあんな出鱈目を」
牛島がリリスの行く手を阻む。彼の巨体が落とす影が、リリスの華奢な体を飲み込んだ。
「出鱈目? 心外ですね」
リリスは足を止め、楽しげに首を傾げた。
「理事はあなたに守られたがっている。あなたは組織の役に立ちたがっている。私は現場で自分の仕事を全うしたい。……三者の望みが完璧に合致した、素晴らしい提案ではありませんか?」
「……俺を現場から遠ざけるのが目的か。あそこで、誰にも見られたくない『何か』を始めるつもりだな」
リリスはゆっくりと、牛島の胸元に手を置いた。
手袋越しであってもわかる、異常なまでの冷たさ。生きている人間の体温ではない。それは墓石の底から這い上がってきたような、死の冷気だった。
「心配しないで。あなたは、その豪華な檻の中でじっとしていてください。……後は私に任せてくださいね」
リリスの目が、一瞬だけ黄金色に燃えた。
「見ていてくださいね、牛島くん。……私が、どれほど美しく世界を『愛して』みせるか」
彼女は軽やかな足取りで去っていった。
残された牛島は、彼女が触れた胸元を強く掴んだ。そこだけが、呪いのように凍りついている。
(あいつは、ヒカリを狙っていると思っていたが……。あの目は、それだけではない。もっと別の……もっと悍ましい何か……)
牛島は去っていくリリスの背中を睨みつけた。
「……京都で何をするつもりだ、アイツ」
#おまけ
柳生は腰の刀を軽く叩くと、不敵な笑みを浮かべて牛島の隣に並んだ。沈痛な面持ちを崩さない彼に対し、彼女の言葉はどこまでも軽く、そして傲慢だ。
「まぁ、そう気にするな牛島。あんたの欠員分くらい、私が三倍動いて埋めてやるからさ。」
それは慰めというよりは、自らの力を誇示する宣言だった。柳生は一歩前へ出ると、親指で後方を指差し、追い打ちをかけるように言い放つ。
「『三倍段』――。実力で私に劣るあんたは、そこで大人しく指をくわえて待機しときな」
その背中を見送りながら、牛島は深い溜息をついた。その瞳には、怒りよりも深い困惑と、諦念の色が混じっている。
「……どこまでも能天気な女だ、こいつは」
呆れ混じりの呟きは、戦場へ向かおうとする彼女の耳に届いたのか、いなかったのか。牛島はただ、自信に満ち溢れたその危うい背中を、苦々しく見守るしかなかった。




