神災
その時——
地殻そのものが、内側から引き裂かれるような異音が響いた。
「……何だ?」
ヒカリは足元を掬われるような感覚に襲われ、咄嗟に近くの鉄柱を掴んだ。手のひらから伝わる震動は、単なる地震の範疇を遥かに超えている。内臓を直接揺さぶるような、低く重い地鳴り。
目の前で、かつての街を形作っていた廃ビルが、耐えきれずに悲鳴を上げた。
コンクリートに無数の亀裂が走り、重力に従って無残に崩れ始める。粉塵が舞い、視界が白く塗り潰されていく。
そして——
崩落する瓦礫の山を割り、漆黒の絶壁がせり上がってきた。
それは、闇を固めて造り上げられたかのような、巨大な甲殻の塊だった。鈍い光沢を放つ黒い装甲が、幾重にも重なり合いながら空を衝く。ヒカリが見上げる視線の先、雲を裂いて現れたのは、「破壊の権化」。
「……嘘、だろ……」
ヒカリの声は、冷気を含んだ風にかき消された。 その時、巨獣の背にそそり立つ鋭利な突起の隙間から、異変が起きた。
漆黒の亀裂から、凍てつくような、それでいて灼熱を感じさせる矛盾した青白い光が溢れ出したのだ。その光は脈動するたびに輝きを増し、舞い上がる粉塵を神々しいまでの青に染め上げていく。それはこの世界の終焉を告げる、美しくも残酷な**「予兆」**であった。
DNAの奥底、まだ人類がネズミのような姿で地を這い回っていた頃の原初の記憶が、脳内で警鐘を乱打する。
「見てはいけない」「触れてはいけない」「そこにいてはいけない」 その巨躯がわずかにうねるだけで大気は摩擦により発火し、内臓を直接揺さぶるような重低音が響き渡る。それは呼吸というよりは、星そのものが刻む鼓動であった。
「……マジかよ」
ヒカリが呟く。
牛島は、冷や汗を流しながらも、武器を構える。
「……狙いは、これだったのか⁈」
(ヒルメを攫ったのは、俺をコイツとぶつけるため……? いや、まさか)
牛島の脳内を巡る推論が、未曾有の事態を前に結線しきれない。 その混濁を切り裂くように、
冥王──プルートが咆哮を上げる。
それは、死という名の**「福音」**。 全生命から「生」を剥奪する、絶望の鐘の音だった。
【おまけ】前日譚。
胃が内側から自分を溶かそうとしている。
そんな感覚だった。
二月の深夜。都心のビル群の間を吹き抜ける風は、剃刀のような鋭さで少年の頬を削いでいく。十二歳のヒカリは、凍りついたアスファルトの上にうずくまり、自分の指先を眺めていた。寒さで感覚を失った指は、青白く、死人のそれと見分けがつかない。
「……あ"……ぁ"」
まともな言葉にならない吐息が、白く濁って闇に消えた。家を飛び出して、初めての冬。親父の拳から逃げ出したあの日から、この数ヶ月は永遠のような地獄だった。財閥のロゴが刻まれた巨大なビルが立ち並ぶこの街は、一見すると豊かさに満ちている。だが、その足元にある社会的セーフティネット(安全網)は、最初から特定の「ランク」以上の人間にしか用意されていない。戸籍も保証人も失った子供が路頭に迷えば、あとは透明な存在として消えていくだけだ。
ヒカリは震える膝を叩き、這うようにして立ち上がった。向かうのは、街外れにある無人のコイン精米所だ。24時間稼働しているその無機質な空間だけが、唯一、彼を受け入れてくれた。清潔で冷酷な蛍光灯の下。ヒカリは迷わず床に膝をついた。精米機の取り出し口の周りには、利用者がこぼしていった米粒が、凍てついた砂埃と共に散らばっている。唾で指先を濡らし、彼はそれ等を一粒ずつ拾い集めた。
「……ひとつ、ふたつ……」
普通の人間なら「不潔だ」と目を背けるだろう。だが、空腹で視界が明滅しているヒカリにとって、ここは精米所ではない。他人が見落とした栄養が残留する補給ポイントだ。砂利が混じっていようが関係ない。集めた米を口に放り込み、奥歯で噛み砕く。ガリッ、と石を噛む振動が脳を揺さぶるが、彼は眉一つ動かさなかった。
その時、精米所の入り口に人影が立った。質の良いダウンジャケットを着た男が、地面を這う少年を、汚物でも見るような目で見下ろしている。
「……なんだお前。何してんだ」
ヒカリは答えなかった。ただ、拾い集めた米を頬張ったまま、濁った目で男を見返した。そこには謝罪も怯えもない。ただ、自分の食い扶持を侵させないという、飢えた獣の拒絶だけがあった。 男は気味悪そうに顔を歪め、吐き捨てた。
「醜い……ハイエナが。通報するぞ。」
男は足早に去っていった。
【ハイエナ】
初めて投げつけられたその蔑称を、ヒカリは凍えた口の中で咀嚼した。
蔑称だろうが、何だろうがどうだって良い。この冷え切った街に落ちている「無駄」を拾い、自分の血肉に変える。それが、この美しく洗練された社会のシステムを出し抜き、生き延びるための唯一の方法――ライフハックだと、本能で理解した。
次に彼が向かったのは、街角の交差点だった。
縁石の隅に、一輪の萎びた花が置かれている。
数日前、ヒカリがどこかの庭から「調達」してきたものだ。当たり前だが、誰かが死んだわけじゃない。
だが、この街の人間は「物語」に弱い。道端に花が供えられていれば、勝手に誰かが悲劇を想像し、食い物を供えていく。
(……きた)
花の横に、真新しいコンビニの袋が置かれていた。通りがかった誰かが、架空の死者を悼んで置いていったのだ。中には缶コーヒーと、未開封のあんパン。ヒカリは音もなくその袋を掴んだ。悪いことだという認識はある。だが、その罪悪感で腹は膨れない。「死にたくない」という一言が、彼の中ですべての倫理を上書きしていた。
翌朝、ヒカリは東京湾に面した管理釣り堀へ移動した。そこには、高価なリールを自慢げに回す、余裕のある大人たちが並んでいる。ヒカリは、その中でも「いかにも釣りが趣味な、釣り歴の長そうな一人客」を見定め、隣に腰を下ろした。
「……すごいですね。何を狙ってるんですか?」
少年のあどけない声に、男が鼻の下を伸ばす。 十分ほどの雑談。適度に感心し、適度に敬意を払う。ヒカリにとって、言葉は獲物を釣るための「餌」と同じだ。男が目当ての外道を釣り上げた瞬間、彼は伏せ目がちに、そして巧みに嘘を差し出した。
「あの、それ……逃がしちゃうなら、貰えませんか? うちの犬が、魚が大好きなんですけど、最近病気で新鮮な魚しか食べられなくて……」
男の顔に、安っぽい同情が浮かぶ。
「そうか、そりゃ災難だな。ほら、持っていけ」
頭を下げるヒカリの口角が、わずかに吊り上がる。 犬なんていない。飼っているのは、自分という名の飢えた獣だけだ。これを繰り返せば、週に五千円分くらいの食費は浮く。新鮮な魚はうまい。やらない手はなかった。
その日の夕暮れ、高架下の暗がりで、彼は貰い物の魚を捌いていた。 昨日掠め取った「お供物」のあんパンを胃に流し込み、次に彼が向かったのは、閉館したシネコンの外にあるゴミ箱だ。ゴミ袋の中に腕を突っ込み、ポップコーンのカップを引っ張り出す。凍りついて底に張り付いたキャラメル味の粒を、爪で剥がして口に運ぶ。
「……生きてやる」
腹は焼けるように痛い。指先の感覚はもうない。 けれど、こうして他人が捨てた生活の残骸を、独自のやり方で使い倒す。それが、少年がこの強固な社会に宣戦布告する、最初の儀式だった。
ヒカリは路地裏に戻り、冷たい段ボールの中に体を丸めた。高架線の上を、夜明けを告げる始発電車の駆動音が、静かに、そして冷淡に響き始めた。




