特等席
廃ビルが並ぶ「特区」の境界線。
湿ったカビの臭いと、酸化した鉄錆の臭いが立ち込めている。
「……静かだな」
ヒカリが呟く。
「ああ。静かすぎる」
牛島の目が、ふいに冷たく研ぎ澄まされる。
───その時
「……ゲストのお出ましだ」
短刀を抜き放つ。その動作には、微塵の迷いもない。
闇の帳を割り、複数の人影が這い出してきた。 焦点の定まらない瞳。操り人形のような、不自然に同期した歩法。
「操られてる……?」
ヒカリの呟きに、牛島が応じる。
「ああ。何らかの能力で意志を奪われた、傀儡といった所か……趣味の悪い演出だな」
視線の僅かな揺れ、歩幅、そして呼吸。 牛島はその全てを冷静に分析し、過去の経験から敵の正体を断定した。
「下がっていろ、ヒカリ。……キミのそれは、『ここぞ』って時まで取っておけ、燃費が悪いだろ。今は——俺に任せろ。」
「は……? けど、あの数だぞ」
「この程度、ただの掃除だ。 公安の予算を無駄にするな」
牛島は短刀を構え、冷淡に笑った。 敵の放つ超常的な一撃を、首を数センチずらすだけでかわす。 武器と体術。ただそれだけで、化物を次々と床に叩き伏せていく。
「よく見ておくんだな。これが『闘い』の作法だ。ヒルメを助けたいなら、乱雑な力の使い方はお勧めしない。……狙うべきは、たったひとつの隙さ」
奥から、一人の異端者が立ちはだかった。 全身が鋼鉄のような甲殻に覆われた、三メートルを超える異形の化け物。
「……デカいな」
「ああ。だが、いい教材だ。一回しか見せないからな。」
牛島は武器を仕舞い、素手でその巨体に向き合った。 異端者が咆哮を上げ、空間ごと圧殺するような拳を振り下ろす。背後の廃ビルが粉砕され、衝撃波が肌を叩く。
「うおっ!? 避けろよ!」
ヒカリが叫ぶ。
牛島は数センチだけ身体をずらした。 拳が、牛島の耳元をかすめる。地面が大きく陥没した。
「……あまりに雄弁だ。肩の浮き、重心の揺らぎ。 筋肉の膨らみまで見せてくれるとはね。次の動きを『予告』するなんて、親切が過ぎる」
吹き荒れる二撃目。しかし牛島は、瞬き一つの間にその軌道から消えていた。最小限の予備動作、合理性のみを追求した回避。
「逃げるなどという無粋な真似はしない。ただ、攻撃の届かぬ場所へ身を置く……。それだけで十分だ。……違うか?」
「……っ、そんなの、人間ができる動きじゃねぇだろ!」
「できるさ。鍛錬を積めばな」
異端者が激昂し、両拳を叩きつける。
「マズイ、死ぬぞ!」
ヒカリの大音声が響く。だが、牛島は微動だにしない。
「死ぬ? ――誰が」
振り下ろされる暴力の渦中で、牛島だけが静止した時間の中にいた。
「お前の弱点は、力を込めすぎた余りバランスを崩すことだ。」
牛島の手が、異端者の腕に触れた。軌道を、わずかに逸らす。 異端者の拳が、自分自身の拳と激突した。 自分の力で、自分の腕を砕く。前がかりに崩れる巨体。
「終わりだ。軸を失えば、ただの木偶だ。」
牛島は、誂え向きのタキシードの袖を汚すことも厭わず、異端者の顎を掌底で跳ね上げた。 ――氷拳・凍裂。
それは「氷の神」との契約によって得た、いささか冷酷すぎる権能だ。物理法則は残酷なまでに忠実に遂行される。急激な冷却によって、鋼鉄のごとき甲殻は、安物のシャンパングラスのように脆く変質し、無数の亀裂を走らせた。
牛島は、その亀裂の奥、生命の深淵へと拳を叩き込む。打撃と同時に打ち込まれた「氷の楔」が、標本の細胞を内側から爆破した。
ドォォォォォン!!
巨体が地を這い、爆散した氷の粒がダイヤモンド・ダストのように美しく、そして残酷に舞う。
「これが『闘い』だ」
吐き出された言葉は、舞い落ちる氷粒よりも冷たい。彼は背後のヒカリへ、視線すら向けずに言い放った。
「……特等席だろう、ヒカリ。授業料を頂きたいくらいだ。死の淵に、わざわざ安全な席を用意したんだ。よく学ぶことだ。」
牛島は、手についた敵の返り血を無造作に拭った。
「これが、神を喰う作法だ。」
ヒカリは、その背中を凝視していた。
(……マジかよ)
人間の技術、知略、そして契約した神の権能を「精密な道具」として使いこなす。 それが、公安最強の実力。




