特区襲撃前夜
アスファルトが焼ける匂いと、蝉時雨。 盛夏の狂ったような暑さの中、ヒルメは商店街を抜けた住宅街の入り口を歩いていた。
「……暑すぎ。アイス、溶けちゃうかな。」
呟きが消える。 街の音が、物理的に膜を張ったように遮断された。不自然な静寂。
「……っ!?」
路地の影から滲み出したのは、陽炎よりも不自然な**「白」**だった。 真夏の光を無機質に弾く、純白の装束を纏った集団。特区の「異端者」だ。
「いい子にしてなよ。お前は最高級の『餌』なんだ」
リーダー格の男が笑う。 ヒルメが得物に手を掛けるより早く、白装束が踏み込んだ。逃げ場を奪う精密な連携。 背後から伸びた手が口を塞ぎ、頚椎の特定箇所へ容赦のない打撃を叩き込む。
一人の少女が、白昼の死角から消失するまで、わずか数秒。 歩道には、溶け出したアイスクリームと、沈黙した端末だけが残された。
同時刻:公安本部・中央管制室
「1区、伊織ヒルメの信号消失。……消失地点、監視カメラの死角です。」
オペレーターの報告は淡々としている。
「現場に神崎班を……」
「却下。その件は後回しだ。現在の大規模作戦から戦力を割くことは許されん。」
中央デスクに座る幹部の一人――内藤が、書類から目を上げずに命じた。あまりに事務的で、一見すれば「優先順位の判断」に見える。
冷淡な切り捨て。
その背後に、音もなく牛島が立った。
「へぇ……ずいぶんと、安い見積もりだな」
低く、温度のない声。 振り返った内藤たちは、そこに立つ男――牛島を見て、一様に表情をこわばらせた。 公安において「最高戦力の一人」と目されるこの男の存在は、組織にとってもはや畏怖の対象だ。だが、彼らはまだ知らない。自分たちが「最強の一角」と定義しているこの男が、実際には神の力すら、ただの「物理現象」として解体し、素手で引き裂く理外の怪物であることを。
「牛島か。何故ここにいる……貴様は待機のはずだ。この大規模作戦に、貴様のような過激な人間は必要ない。本部の守護者として大人しく飼い殺されていろ。」
彼らは牛島を高く評価している。ゆえに、この「想定外の強者」が自分たちのコントロールを離れ、暴走することを何よりも恐れていた。
「ええ。あなた方が、私の制御不能な性質を疎んでいることは理解しています。……ですが、内藤理事。今日の1区、パトロールの巡回ルートを意図的に変えましたね?」
内藤の手が、わずかに止まる。
「……何が言いたい」
「カメラの死角、パトロールの空白時間、そして攫われた少女。それに彼女が居た場所は特区の連中が出入りしている。」
牛島は振り返ることなく、淡々と続ける。
「……これだけ噛み合うのは確率論として美しすぎる。……内藤理事、あなた、特区の連中と繋がっていますね?」
内藤の顔から血の気が引く。牛島は、彼が必死に隠そうとする脈動の乱れを、静かに、だが確実に見切っていた。
「……貴様、何を根拠に……!特区の連中と繋がっているわけ……」
「やはり特区の連中か」
牛島の声は、氷よりも冷たかった。
「ツッ! ち、違う。特区は関係ない‼︎」
内藤の声が裏返る。否定すればするほど、墓穴を深く掘っていく。
牛島は、崩れ落ちる内藤を一瞥すらしない。彼は無造作にモニターへ歩み寄り、ログが途絶えた座標――特区へ続く境界線を、冷徹な目で見つめる。
(聖桜も一枚噛んでいるかもな……)
(おそらく、狙いはヒルメと仲が良いヒカリを特区へ引き摺り出すことか。……実に、低俗な策だ)
「ヒルメは、私が連れ戻す。……ついでに、特区に巣食う不法占拠者どもも掃除しておきましょう。」
「一人で行くというのか!? 自殺行為だぞ!」
「自殺? ……失礼。あなた方凡人の基準で、私の『生』を測らないでいただきたい」
牛島はそう言い捨てると、一度も振り返ることなく管制室を後にした。 廊下に響く靴音は、死神の秒読みのように正確だ。外はまだ、気が遠くなるような夏の日差しが照りつけている。
(死ぬには良い日だ。)
────
不幸は突然降り落ちる。
「ヒルメが……攫われた?」
ヒカリが驚愕する。
「ああ」
牛島が頷く。
「何者かにより攫われ、彼女は今、特区に囚われている」
「特区……?」
「ヒカリが住んでいた場所の近くだな。東京の外れにある、廃墟地帯だ。かつては開発計画があったが、頓挫した。ある理由で、今はクラウン達の根城だな」
牛島が地図を広げる。
「ここだ」
「……」
「罠だろうな。お前を『特区』へ誘き込もうとしている。あそこには、異端者やクラウンどもが待ち構えている」
牛島が真剣な顔で言う。
「お前の身柄が目的だろう。おそらく交換条件として要求されるだろうな」
(……いや、違うな)
牛島は、心の中で考える。
(ヒルメを攫ったのは、ヒカリを誘い出すため。ヒカリが来れば、俺も来る。つまり――)
だが、牛島はその考えを口にしなかった。
(俺が標的……? いや、そこまで深読みしすぎか)
牛島は、自分が狙われているという可能性を、完全には信じていなかった。内藤理事の裏切りを見抜いた彼でさえ、自分自身が標的であるという事実だけは、まだ半信半疑だった。
「……」
ヒカリは、拳を握る。
「行くぞ」
「何?」
「ヒルメを助けに行く。アンタが教えてくれた『技術』、あいつらに試してやりたいしな」
ヒカリの瞳に黒い炎が宿る。
牛島は、少し考えてから言った。
「……待て。上に確認する」
三十分後。
牛島の携帯が鳴った。
「……牛島だ。……承知しました」
牛島が電話を切る。
「どうだった?」
ヒカリが尋ねる。
「上の許可が出た。だが、条件がある」
「条件?」
「お前は神崎班所属だ。本来なら、リリスの指揮下で動く。だが今回は特別に、俺の直接指揮下で行動することが許可された」
牛島が真剣な顔で言う。
「理由は三つ。一つは、お前の戦闘データの収集。特区には複数の異端者が潜んでいる。お前の完全合一化状態での実戦データをより詳しく取りたいらしい」
「もう一つは俺の補佐。俺一人で解決するのは厳しいと判断したそうだ。」
「もう一つは?」
「データを取る際に、暴走した時、即座に対処できる人間が近くにいること。」
牛島が一拍置く。
「リリスは今、別の作戦で動いている。班全体が動員されてる大規模な作戦だ。お前を処分でき、任務を遂行できる人間は、俺しかいない。」
「……つまり、俺の監視役ってことか」
「そういうことだ」
牛島が頷く。
「それでも行くか?」
ヒカリは、少し考えてから答えた。
「行くに決まってんだろ。ヒルメを助けるためならな」
牛島は、小さく笑った。
「なら行こう。公安の汚れ仕事、隣でしっかり見てろよ」
彼の笑みは、どこか楽しげだった。まるで、これから始まる地獄を、心のどこかで待ち望んでいたかのように。
夏の太陽は、容赦なく二人を照らし続けている。
特区への道は、既に開かれていた。




