ペルソナ
待ち合わせ場所のカフェ。ヒカリは1時間も前に到着し、窓際の席で待っていた。
彼は楽しみすぎて、じっとしてられなかった。せっかちな性分もあって、気づいたら部屋を出ていた。
「ヒカリくん!」
イヴが明るい声で入ってくる。
まだ、集合時刻の30分前だ。
「あれ、イヴ?早いな」
「早いのはヒカリくんだよ〜いつから居たの?」
イヴが驚いたように尋ねる。
「ん?今来たとこ」
嘘だ。実際は1時間前から待ってた。でもそんなこと言えるわけないよな。そんなみっともない事。
「そうなんだ。私も早く来ちゃって」
イヴが少し照れくさそうに笑う。その表情が可愛くて、ヒカリは思わず見とれてしまった。
「まぁ...楽しみだったし」
軽く流す。こういう時、変に気を遣わせない方がいい。
「じゃあ、何か飲んでから行こっか」
二人はカウンターへ向かう。メニューを眺めながら、イヴが首を傾げた。
「うーん、何にしようかな」
「俺は……オレンジジュースで」
ヒカリはメニューを見ながら答える。コーヒーは苦手だ。イヴが普段入れてくれる、砂糖とミルクがたっぷり入ったやつなら...飲めるけど。
「私は……あ、このカフェ、フレンチロースト推してるんだ...」
イヴの表情が一瞬曇る。しかしすぐに笑顔を作り直した。
「フレンチロースト?何ソレ、美味そう」
「んー、でも私、フランスのコーヒーってあんまり好きじゃないんだよね〜」
「マジ?意外」
「何と言うか……フランス文化全般がね、どうにも苦手で。性に合わない。」
へぇ、とヒカリは思った。お洒落な感じだからフランスとか好きそうに思えたのに。
「それがね……まぁ、色々あってね」
イヴは少し遠い目をする。何か事情がありそうだが、ヒカリは深く追及しなかった。
「でも、バレエだけは別だよ。あれは美しいと思う」
「バレエ?観に行ったりすんの?」
「たまにね。フランスのバレエ団が来日した時は必ず観に行く」
「へぇ、詳しいんだな」
イヴは少し照れくさそうに笑った。その笑顔を見て、ヒカリの胸が高鳴る。
(かわいい)
結局、イヴはカプチーノを注文した。
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カフェを出ると、午後の光が二人の影を細く伸ばした。
水族館へ向かう道のりは、ほどよく人通りがあり、ざわめきが波紋のように耳へ届く。
ヒカリは白い半袖のシャツを着ていた。
学生服感を残しながらも、開襟ではないため、どこかぎこちない清潔さが漂っている。
「――あ、ちょっと待って」
イヴがふいに足を止めた。
ヒカリが振り返ると、彼女は眉をひとつ寄せて近づいてくる。
「ん?」
「襟、乱れてる」
その言いぶりは淡々としているのに、なぜか胸の奥がざわつく。
イヴはヒカリの正面に立ち、そっと両手を伸ばした。
細い指先が、迷いもなく襟元に触れる。
生地が微かに動くのと同時に――
彼の首筋に、イヴの指の温度が触れた。
──冷たい。
その時、空気が止まったような静けさが落ちた。
「……あんがと」
ヒカリは少し照れくさそうに言った。
「どういたしまして」
イヴは微笑んで、また歩き出す。
「楽しみだね」
イヴが弾んだ声で言う。少しヒカリに寄り添うように歩いている。
「だな。」
イヴの歩幅に合わせるように、ヒカリは歩いた。胸の奥で、何かが静かに灯る。
街を歩いていると、夕暮れの光が建物の間から差し込んでくる。ネオンと空の境界が溶けるような時間帯だ。
その時——
「きゃあ!」
前方で子供の声がした。
風に煽られた帽子が、宙を舞っている。小さな男の子が必死に追いかけているが、帽子は風に乗ってどんどん遠くへ。
ヒカリの身体は、考えるより先に動いていた。
階段を駆け上がり、手すりに手をかけて跳ぶ。視界の端を人々が流れ、車が光の帯を引きながら走り抜ける。
街は障害物の迷路だ。段差、壁、柵——すべてが彼の足を待っていたかのように連なっている。
蹴り上げ、跳ね返り、壁を蹴って空中を滑る。
風が顔に触れ、髪を乱す。心臓が熱を帯び、時間が濃縮される。
空中、指先が帽子の縁に触れた。
掴んだ。
───着地。
膝が微かに曲がるが、見事に衝撃を吸収する。
「……おお」
周囲から小さなどよめきが起こる。
ヒカリは帽子を持って、泣きそうな顔をした男の子のところへ歩いた。
「ほら」
「あ、ありがとう……!」
男の子は嬉しそうに帽子を受け取り、母親の元へ駆けていった。
ヒカリが振り返ると、イヴが立っていた。
少し呆然とした表情で、ヒカリを見つめている。
「……今の、すごかったね」
イヴが呟いた。
「は?」
「今の、すごかったよ」
「あー、まぁ、体が勝手に動いてよー」
ヒカリは照れくさそうに頭を掻いた。
イヴは何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わず、ただ微笑んだ。
「行こっか」
「おう」
二人は再び歩き出した。
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エントランスを抜けると、薄暗い館内に青い光が揺らめいている。大きな水槽の中を、色とりどりの魚たちが泳いでいた。
「わぁ、綺麗……」
イヴが水槽に顔を近づけた。
青い光が、彼女の頬の線をなぞるように揺れている。
その横顔に、ヒカリの視線はぴたりと吸い寄せられた。
まるで磁石でも仕込まれたように――逸らすことができない。
(……綺麗だな)
水槽の中で揺れる光より、泳ぐ魚より、ずっと鮮やかだった。
「ふーん、何見てるのさ」
イヴが横目でこちらを盗み見て、少しだけ唇を上げた。
からかいの温度が混じった声。
それだけでヒカリの胸が跳ねる。
「は、えっ……」
情けない音が喉から漏れ、ヒカリは慌てて目をそらす。
水槽のガラスに映る自分の耳が赤いのが分かって、ますます困る。
イヴはそんな彼を見て、ひとつ小さく息を笑いに変えた。
「まあ、いいや。ねぇ、あれ見て」
イヴが指差す先には、ゆったりと泳ぐマンタがいた。
「うわっ、でけぇな……」
「優雅だよね」
二人並んで、しばらく水槽を眺める。イヴの肩が自分の肩に触れそうな距離。
ヒカリの心臓がバクバクする。
イヴはちらりとヒカリを見上げ、微笑んだ。そしてまた水槽へ視線を戻す。
「うん?あのマンタ、なんか面白い動きしてるな」
ヒカリが指を差す。
「ほら、あそこ。くるくる回ってるじゃん」
「本当だ。可愛いね」
イヴが笑った。その笑顔に値段はつけられない。
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クラゲのコーナーに差し掛かった時、大きな展示パネルがあった。
「『未曾有の発見』……って書いてあるな」
ヒカリが読み上げる。
「みぞうゆうの発見」
イヴが一瞬、表情を変えた。しかしすぐに笑顔になる。
「ぷっ……み、みぞうゆう?」
「は?違うの?」
「『みぞう』だよ、ヒカリくん」
「マジかよ……」
恥ずかしさで顔が熱くなる。
「可愛い」
イヴが優しく笑う。バカにしているのではない。本当に愛おしそうな笑顔だった。
「わ、笑うなよ……」
「ごめんごめん。でもね、そういうの嫌いじゃないよ」
そう言って、イヴはヒカリの腕に軽く触れた。
ヒカリの胸が高鳴る。
「こいつ、チョロいぞ」
イヴが小さく呟いた。
「は?今なんつった?」
「ん?何も言ってないよ〜」
イヴは誤魔化すかの様に、ニコニコしていた。
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深海魚のコーナーは、より暗く、より静かだった。
不気味な姿の魚たちが、ゆっくりと泳いでいる。
「うわ、これヤバくね?」
ヒカリが指差す先には、巨大な口を持つ魚がいた。
「....説明文、読んでみて」
イヴが促す。
...楽しそうだ。
「えーと……『この魚は轟音を立てて……』」
「ごうおん、ね」
「あ、違った。『轟音』……とどろき、おん……」
「うん」
「……って、これ『轟』って字。車が三つだから『しゃしゃしゃ』って読むのかと思った」
「ぶっ!くふ。」
イヴが笑いを堪えきれず、声を上げた。
「ふっ、ふふ。はっはは。しゃ、しゃしゃしゃって!ヒカリくん、センスある!」
「いや、だって車三つだろ……」
「はぁ...面白すぎる」
イヴは、こらえきれないように目尻を潤ませながら笑った。
笑いすぎて涙がにじんでいるのに、どこか誇らしげで、あどけなくて、そして胸に刺さるほど綺麗だ。
「……ほんと、ヒカリくんってさ……」
言葉の続きは笑いに溶けて消える。
そのまま、彼女はふっと距離を詰める。
軽い仕草だった。
けれど、迷いを許さない自然さで、ヒカリの肩に手を置いた。
───冷たいけど温かい。
ヒカリの意識はただ一点に吸い寄せられた。
肩に置かれたその手に。
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「そろそろお昼にしない?」
イヴが提案する。
「いいな。腹減ってきた」
館内のレストランへ向かう。
メニューを眺めながら、ヒカリが呟く。
「うーん、何でもいい「ヒカリくん!」
イヴが急に真剣な表情になった。
「あっ、」
「前にもいったよね。人が一生で食べられる数は決まってるんだよ」
「そうだったな」
「だから、『何でもいい』なんて言っちゃダメ。ちゃんと選ばなきゃ」
その真剣な眼差しに、ヒカリは思わず笑みを浮かべる。
「分かった、じゃあ、これにするか」
ヒカリはメニューを指差した。
二人は注文を済ませ、料理が来るのを待つ。
「ちょっとトイレ行ってくる」
ヒカリが席を立つ。
「うん、行ってらっしゃい」
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トイレから戻る途中、ヒカリはレストランの入口近くで立ち止まった。
そこには、小さな触れ合いコーナーがあった。ヒトデやナマコに触れる体験コーナーだ。
水槽の縁に、誰かが触った後のヒトデが一つ、置きっぱなしになっている。
(……これ、使えるな)
ヒカリはニヤリと笑った。
周りを確認してから、そっとヒトデを手のひらに乗せる。
テーブルへ戻った。
イヴは窓の外を眺めている。
ヒカリはゆっくりと席に座り、テーブルの下からこっそりとヒトデをイヴの手元に滑り込ませた。
「イヴ、ちょっとこれ見て」
「ん?何?」
イヴが視線を戻した瞬間——
「きゃあっ!」
イヴが小さく悲鳴を上げた。
手元にヒトデがいる。
「な、なにこれ!?」
「ヒトデ」
ヒカリがケラケラ笑う。
「ちょ、ちょっと!ヒカリくん!」
イヴは驚いた顔をしたが、すぐに笑い出した。
「もう、びっくりした!」
「悪い悪い」
ヒカリはヒトデを持って、触れ合いコーナーに戻しに行った。
戻ってくると、イヴはまだ笑っていた。
「ヒカリくん、意外といたずらっ子なんだね」
「まぁな」
ヒカリは得意げに笑った。
イヴは少し呆れたように、でも楽しそうに首を振る。
「でも、楽しかった」
「マジで?」
「うん。ヒカリくんといると、退屈しない」
そう言って、イヴは微笑んだ。
ヒカリの胸が高鳴る。
(俺のこと好きなのだよな?)
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食事を終えた後、館内の休憩スペースで二人はベンチに座った。
「ちょっと疲れたね」
イヴが言う。
「だよな。ちょっと休憩するか。」
自動販売機でドリンクを買おうとした時、ヒカリはポケットを探った。
「あれ……」
「どうしたの?」
「いや、小銭が……まぁいいや、これで買えるな」
ヒカリは小銭をかき集めて、なんとか二本分買った。
「ごめん、イヴ。俺が奢るつもりだったのに」
「ううん、全然いいよ。ありがとう」
イヴは嬉しそうに受け取った。
ヒカリは少し恥ずかしかった。本当は、もっとちゃんとやりたいのに。
でも、イヴは何も気にしていないようだった。むしろ、その不器用さが好ましいとでも言いたげな表情だ。
(イヴは優しいよな)
「ヒカリくん、普段何してるの?」
イヴが尋ねる。
「普段?まぁ、色々だな。最近は……壊れたもん直したりとか」
「直すの?」
「うん。捨てられてるもんとか、拾ってきて使えるようにすんの。意外と使えるんだよ」
「へぇ、器用なんだね」
「まぁな。昔からやってたし」
本当は、そうしないと生きていけなかった時期があったからだ。好きでやってたわけじゃねぇ。
「すごいね。私、そういうの全然ダメなんだ」
イヴが感心したように言う。
「へ〜意外」
「うん。だからヒカリくん、尊敬するな〜」
そう言って、イヴは微笑んだ。
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イルカショーの時間になり、二人は観客席に座った。
「わぁ、すごい!」
イヴが目を輝かせる。ヒカリの腕に軽く手を添えた。
イルカたちが華麗にジャンプし、トレーナーの指示に従って芸をする。
「これ、訓練すげぇんだろうな」
ヒカリが呟く。
「うん。でも信頼関係がないとできないよね」
イヴが真剣な表情で言う。
「トレーニングって、ただ命令するだけじゃダメなの。相手を理解して、信頼を築いて……そうやって初めて成立する」
「詳しいな」
「昔、少し……そういうの勉強してたから」
「へぇ」
イヴは少し遠い目をした。何か深い事情がありそうだが、ヒカリは追及しない。
ショーが終わり、二人は館内をさらに巡る。
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ペンギンたちがよちよちと歩いている。
「可愛い……」
イヴが目を細める。
「確かに、可愛いな」
「ねぇ、ヒカリくん」
イヴがヒカリを見上げる。
「ペンギンって一生同じパートナーと過ごすんだって」
「マジで?」
「うん。一度ペアになったら、ずっと一緒。素敵だよね」
イヴは優しく微笑む。そしてヒカリの手にそっと触れた。
ヒカリの心臓が跳ねる。
そういうことだよな。じゃなきゃこんなこと言わねぇだろ。
「ヒカリくん?」
「あ、悪い。ぼーっとしてた」
「疲れた?大丈夫?」
イヴが心配そうに覗き込む。
「ううん、全然。むしろ楽しいな」
「よかった」
イヴはほっとしたように笑った。
ヒカリは笑う余裕がなかった。
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水族館を出ると、外は雨が降り始めていた。
「うわ、マジか……」
ヒカリが空を見上げる。
「傘、持ってきてないね」
イヴが困ったように笑う。
「俺も持ってねぇ……とりあえず、どっか雨宿りだな」
二人は走り出した。
雨はどんどん強くなっていく。イヴのスカートが雨に濡れ、髪も濡れていく。
「こっち!」
ヒカリが近くの商店街のアーケードを見つけて、イヴの手を引いた。
軒先に滑り込む。
「はぁ……はぁ……」
二人とも息を切らしている。
イヴのスカートはびしょ濡れだった。白いブラウスも雨に濡れて、少し透けている。
「ごめん、濡れちゃったね」
ヒカリが謝る。
「ううん、大丈夫」
イヴはスカートの裾を両手で掴み、ぎゅっと絞った。水がぽたぽたと地面に落ちる。
ヒカリは思わず目を逸らした。濡れたブラウスから、下着のラインが透けて見える。
「ヒカリくん?」
「あ、いや、なんでもない」
ヒカリは慌てて視線を外に向けた。
「ひゃっ」
イヴが小さく笑った。
「……今、変な声出したろ」
「気のせいじゃない?」
イヴはいたずらっぽく笑う。
雨は相変わらず強く降っている。
ふと、軒先の隅に目が留まった。
小さな狐の置物が、棚の隅にひょっこりと居座っていた。
手のひらほどの大きさで、古びた釉薬がところどころ剝げ、時の流れに磨かれたような鈍い光を放っている。
その顔つきは妙に生々しく、笑っているのか、企んでいるのか分からない——まるで、通りがかりの人間を一度は化かしてみたことがある、とでも言いたげな表情だった。
「……なんだ、あれ」
ヒカリが低く呟く。狐と目が合った気がして、無意識に眉を寄せた。
「ん? 狐?」
イヴが覗き込み、肩をすくめる。
「商店街の縁起物かな。こういうの、たまにあるよ。誰が置いてるのかわかんないやつ。」
彼女の声は軽いのに、その横顔に映る狐の影だけは、不思議とじっとりと深かった。
その時、遠くでカラスが鳴いた。
「カァ、カァ」
不吉な声が、雨音に混じって響く。
ヒカリは少し嫌な予感がした。でもすぐに気を取り直す。
「まぁ、すぐ止むだろ」
「そうだね」
イヴは微笑む。
地面には水たまりができていて、そこにアーケードの明かりが揺れている。
ヒカリはふと、水たまりに目をやった。
黄色い花弁が一枚、雨に打たれて浮かんでいた。バラの花弁だ。
揺れる水面に映る花弁は、歪んで見えた。
「……」
何も言わなかった。
ただ、少し胸騒ぎがした。
-----
「ねぇ、ちょっと寄ってもいい?」
海辺へ向かう途中、イヴが小さなゲームセンターを見つけて立ち止まった。
「ゲーセン?いいぜ」
店内に入ると、クレーンゲームやレトロなアーケードゲームが並んでいる。
「あ、これやってみたい」
イヴがシューティングゲームの前で立ち止まる。
「マジで?意外だな」
「昔、ちょっとやってたから」
イヴはコインを入れ、銃を構える。
画面上の的を次々と撃ち抜いていく。その動きは素早く、正確だ。
「すげぇな……」
ヒカリが驚く。
「でしょ?」
イヴが得意げに笑う。
ゲームが終わると、ハイスコアが表示された。
「よっし」
イヴが小さくガッツポーズする。
「お前、本当に上手いな。何者だよ」
「ふふ、秘密。」
イヴはいたずらっぽく笑った。
「じゃあ次、ヒカリくんの番」
「おう、任せろ」
ヒカリもコインを入れ、銃を構える。
しかし、結果は散々だった。
「あー、ダメだわ。全然当たんねぇ」
「ヒカリくん、少し配慮が足りないぞ〜」
イヴがクスクス笑う。
「配慮って何だよ」
「君がそんなに下手だと私が楽しめないから。もっと、頑張ってよ〜」
「うっせ」
ヒカリは少し拗ねたように言った。
イヴは楽しそうに笑っている。
「でも、頑張ってる姿は可愛かったよ」
「……マジで?」
「うん」
イヴが微笑む。
「次、クレーンゲームやろう」
「もちろん」
クレーンゲームの前に並ぶ。ぬいぐるみが山積みになっている。
「あのペンギン、欲しいな」
イヴが指差す。
「取ってやるよ」
ヒカリはコインを入れ、クレーンを操作する。
一回目、失敗。
二回目、失敗。
三回目——
「おっしゃ!取れた!」
ヒカリがペンギンのぬいぐるみを取り出す。
「すごい!ありがとう、ヒカリくん」
イヴが嬉しそうに受け取った。
「へへ、こういうのは得意なんだよ」
「かっこいい」
イヴが微笑んだ。
ヒカリの心臓は、取れた興奮と、胸の奥で鳴り続ける恋の鼓動が、ぐしゃぐしゃに混ざり合っていた。
どこまでが冷静で、どこからが浮ついた気持ちなのか——もう自分でも判別がつかない。
ただ、胸の内側だけが妙に熱くて、落ち着かず、
それでいて嫌じゃない。
「チャンスは人生一度きりだよ」
イヴが急に真剣な表情で言った。
「ん?」
「ぶちかませ!死ぬ気で全てを捧げなきゃ!」
「……何の話?」
「次のクレーンゲーム」
イヴが指差す先には、大きなクマのぬいぐるみがある。
「あれ、欲しいの?」
「うん」
「……マジかよ。あれ、超難しいだろ」
「でも、ヒカリくんなら取れるよ」
イヴが期待の眼差しを向ける。
「……わかった。やってやるよ」
ヒカリは覚悟を決めた。
コインを入れ、クレーンを操作する。
一回目、失敗。
二回目、失敗。
三回目、失敗。
四回目——
「よっしゃあああ!」
ヒカリがクマのぬいぐるみを取り出した。
「やった!ヒカリくん、すごい!」
イヴが飛びつくように抱きしめた。
「お、おう……」
ヒカリは照れくさそうに頭を掻く。
「ありがとう。大事にするね」
イヴが嬉しそうに笑った。
-----
ゲームセンターを出ようとした時、イヴが立ち止まった。
「あ、プリクラ撮ろう!」
「プリクラ?」
「うん。記念に」
イヴが嬉しそうに言う。
「いいぜ」
二人はプリクラの機械に入った。狭い空間に二人きり。
「どのフレームにする?」
「イヴが選べよ。俺わかんねーもん。」
「じゃあ、これ」
イヴが画面をタッチする。
「はい、撮るよー」
カシャ。
一枚目。二人とも少し緊張した表情。
「もっと笑って!」
イヴがヒカリの肩を叩く。
カシャ。
二枚目。イヴは笑顔、ヒカリは照れくさそう。
「次、変顔しよ!」
「マジで?」
「やろうよ!」
カシャ。
三枚目。二人とも変な顔。
撮影が終わり、落書きタイムになる。
「ねぇ、ここに描いて」
イヴがペンを握って、画面にハートを描く。
「お前、意外とこういうの好きなんだな」
「うん、楽しいもん」
イヴは笑顔で次々と装飾を加えていく。
ヒカリもちょっとだけ落書きを加える。
「完成!」
プリクラが出てくる。
「これ、半分こね」
イヴがプリクラを切り分けて、ヒカリに渡した。
「ありがとな」
「大事にしてね」
「当たり前だろ」
ヒカリは丁寧にプリクラを財布にしまった。
-----
雨が止んだ頃、二人は再び歩き出した。
「ねえねえ」
ヒカリが声をかける。
「なに?」
「手ぇ寒い」
「えぇ〜夏じゃん」
イヴが笑う。
「ははは」
ヒカリも笑ってごまかした。
結局、手は繋げなかった。
二人は並んで歩く。
「海、行ってみない?」
イヴが提案する。少し上目遣いで。
「いいな」
二人は海辺へと向かった。
波の音が聞こえる。潮の香りが鼻をくすぐる。
しかし、空は曇っていた。
「あー、夜景見えないね」
イヴが残念そうに空を見上げる。
「まぁ、しゃーねぇな」
「でも、雰囲気はいいよね」
イヴが笑う。そしてヒカリの隣に座った。少し距離が近い。
二人は防波堤に座り、暗い海を眺めた。
しばらく沈黙が続く。
「……ねぇ、ヒカリくん」
イヴがヒカリの方を向く。
「ん?」
「私ね、光の中を一人で歩くよりも、闇の中を大切な人と共に歩くほうが良いと思うなぁ〜」
イヴが呟いた。
「……急にどうした?」
ヒカリは少し戸惑う。何を言ってるんだ、こいつ。
「ん、なんとなく」
イヴは微笑む。
「一人でいるのって、強そうに見えるけど……実際は、すごく冷たいと思うの」
「冷たい?」
「うん。誰もいない部屋で、息だけ白くなって。静かだけど、温もりがない」
イヴは海を見つめたまま、静かに続ける。
「私はそういうの、自由だとは思えないんだ」
ヒカリは黙って聞いていた。
「誰かと一緒にいるって、縛られることじゃなくて……むしろ、やっと呼吸ができるようになる感じ」
イヴはヒカリを見上げた。
「ヒカリくんは、どう思う?」
「……わかんねぇ」
ヒカリは正直に答えた。
「でも、イヴといると……悪くない」
「ふふ、それだけで充分」
イヴは嬉しそうに笑った。
「今日、楽しかった」
「俺も」
「ヒカリくんと一緒だと、なんだか……安心する」
イヴは優しく微笑む。
ヒカリの心が震える。
「また来ようね。次は晴れた日に」
イヴがそう言って、ヒカリの手にそっと触れた。
ヒカリの心が弾む。
「おう、また来ような」
ヒカリはそう答えた。
イヴは満足そうに微笑むと、再び海へ視線を戻す。
ヒカリもそれに倣う。
曇り空の下、二人は並んで座っていた。
波の音だけが、静かに響いていた。
(最高の一日だったわ)
ヒカリは内心で思わずガッツポーズしていた。
-----
「じゃあね、ヒカリくん。また明日」
「ああ、またな」
二人は駅前で別れた。
イヴは一人、夜道を歩く。
やがて、見慣れた洋食屋の看板が見えてくる。
「ただいまで〜す。」
イヴは店の扉を開けた。
店内は薄暗い。店長は留守のようだ。
イヴは、ふっと息をつくような仕草で、持っていたバッグをカウンターの上へそっと置いた。
その時――
カランカラン。
扉が開く音。
「あれ?もう閉店ですけど……」
イヴが振り返ると、そこには数人の男たちが立っていた。
スーツを着た、見慣れない顔。
彼らの目には、明確な殺意があった。
「……」
イヴは一瞬で察した。
「帰りな……今日はもう閉店だよ」
イヴは冷たく言った。
男たちは無言で店内に入ってくる。
「貴女を確保する。中華民国政府の命令だ。」
一人が中国語訛りの日本語で言った。
「抵抗さえしなければ、痛い思いはさせない。……もっとも、抵抗したところで、拐かされるのだがな。」
イヴは動かなかった。
ただ、髪を指でくるくるといじりながら、男たちを見つめる。
「……誰が誰を攫うって?」
イヴが睨んだ。
空気が一変した。
男たちが動く。
しかし――
イヴの右手から、何かが伸びた。
鎖状の刃。
筋繊維に甲殻を纏った様な、銀色の刃。
蛇腹剣の如く伸長し、鞭のようにしなる。
シュッ。
一人目の首が飛んだ。
パッ。
斬った瞬間、光が弾けた。
「なっ――」
二人目が銃を抜こうとするが、間に合わない。
鎖刃が彼の胴を両断する。
パッ。
また光が弾ける。
「化け物……!」
三人目が叫ぶ。
「化け物?あぁ、そうかもね」
イヴの口調が変わった。
それは一瞬だった。
彼女の声から、いつもの柔らかさがすっと剝がれ落ちる。
代わりに現れたのは——速く、冷たく、そして刃物のように鋭い響き。
もう、先程の彼女は居ない。
「私を攫おうとした時点で、あなたたちの運命は決まってたの。」
鎖刃が再び伸びる。
パッ、パッ、パッ。
光が弾けるたびに、男たちが倒れていく。
そして――
斬られた男たちの身体が、光の粒子となって消えていく。
跡形もなく。
まるで、最初からいなかったかのように。
数秒後、店内は静寂に包まれた。
血痕一つ残っていない。
イヴは右手を見つめる。
鎖刃は、すでに腕の中に引っ込んでいた。
「……ふぅ」
イヴは小さく息をつく。
そして、イヴはエプロンを手に取った。
その動作は、先ほどまでの冷たさとまるで噛み合わないほど静かで、妙に落ち着いていた。
エプロンを握る彼女の横顔は、どこか異様なほど整っていた。
光の角度ひとつで陰影が際立ち、その輪郭は彫りもののように鮮やかだ。また静謐さが、さらに彼女の造形を研ぎ澄ませている。
その静けさは、彫刻像を思わせた。
——さながら、ミロのヴィーナスといったところか。
ただし、こちらのヴィーナスは布をまとわぬ代わりに、エプロンを握りしめている。
「明日も、いつも通り。」
イヴは微笑んだ。
──何事もなかったかのように。
こんなふうに——
「もしかすると、あの子は自分に好意を寄せているのではないか」と胸の奥でひそかに思い立つ時ほど、得てして碌な巡り合わせはない。これは、世の多くの男性が頷くであろう、まるで舌の奥に残る、あの苦いレモンのような知恵だ。
そもそも、鈍感系の目にさえ明らかなほど、手心を加えたであろう愛嬌を振り撒く女性が、何も企んでいない道理がない。ゆえに、あの仕草や笑みが「真に自分へ向けられた恋慕」である確率など、ほぼ皆無と言って良いだろう。
だが——彼は、その真実を知らない。
まだ恋愛という厄介な迷路に足を踏み入れたことがないがゆえに、世の曇りや濁りを見極める術を持たない。
その無垢が、時に残酷である。
だからこそ彼は、あどけないほど真っ直ぐに信じてしまうのだ。
彼女が、自分を慕っているのだと。




