お客様はご機嫌です。
「ヒカリ……」
伊織ヒルメに笑みが溢れる。表情は柔らかく、だが目は獣のように鋭い。
登場は砂漠に降る雨の如し。その比喩は、ここでは皮肉にも正鵠を射ていた。遅れて現れる救済は、いつだって不器用で痛みを伴う。
「ヒーローは遅れてやってくるってな」
ヒカリは熊の頭から降り立った。雪と血が靴底に張り付き、ぬめりを残す。彼の身体には、まだ余韻が残る衝撃の振動が走っていた。
「ヒカリ」
碇が声をかける。
「碇先輩、みんな無事か?」
「……ああ。江頭は意識を失っている。伊織は動ける。だが——」
碇が熊の神を見る。顔面の筋肉がつねられたように震えている。
「あれは、殺せないかもな。」
空気が少し凍る。隣の木が、かすかに落雪した。
「殺せねェもんはねえよ」
ヒカリが笑う。笑いは刃物のように鋭く、場の緊張を引き裂いた。
「血が出るなら殺せるはずだぜ。」
彼の声には確信がある。生と死の交換条件を知らぬ男の単純な論理。
「だが再生する。何度やってもだ――補助具をフル使用するしかないな。」
碇の声は低く、確かに戦場の空気を切り裂くように響いた。
「ふーん、どんなヤツだっけ?」
ヒカリは相変わらず軽い。危機の匂いなど、どこにもない。
「……お前な……」
碇は短く息を吐き、目の前の状況を見据えた。
「三種類ある。まず神経補正インプラント――運動反応を最大30%向上させる装置だ。ただし副作用もある。感情の微細な変化、睡眠障害、まれに自我が揺れることもあるということだな」
「二つ目は、再生補助外装――止血と表層保護を行うナノマテリアル製の被覆材だ。救命時間を稼ぐが、内部損傷を覆い隠すリスクもある。超音波診断と組み合わせて使うべきだな」
「……三つ目は?」
「化学検知コンタクトレンズ――気相中の有害物質、たとえば有機リン、塩素系、窒素酸化物を、目の前で色や光学信号として表示する。つまり、目で危険を確認できるということだな。さらにAR表示や、人間の目の動きを模倣する機能もある。目の組織を模した伸縮性ポリマーフィルムが電流で変形し、焦点を自在に合わせることが可能だな」
「ヒカリ」
碇が呼ぶ。
ヒカリは前を見たまま、軽く顎だけ動かして応えた。
「補助具を使うか?」
沈黙。風だけが斜めに通り抜ける。
「碇先輩――いらねェよ」
凪いだ湖面のような声。だが確かな決意が滲んでいた。
ヒカリが即答する。即答の裏にあるモノは怒りでも正義でもなく、ただの好奇心と欲求。
「こいつは俺が殺すよ」
男の宣言は、戦場に咲く花のように粗野で真摯だった。
その時、熊の神が起き上がった。
「ガァァァァァァァ!」
その咆哮は、雪を震わせ、木々を怯ませる。喉奥から絞り出されたような唸りは、地面を伝わり、骨にまで届いた。
そして、ヒカリに向けて口を開く。大きな顎の奥が暗闇のように覗き、唾液と古い血が垂れる。
その時——
ヴェレスが、前に出た。
「ヒカリ様!」
ヴェレスが叫ぶ。声が甲高く、少し滑稽だ。そこに悲壮はなく、どこか舞台のような気概が混じっている。
「ヴェレス、危ねェ!」
ヒカリが叫ぶ。叫びは届くはずもなく、ヴェレスの足は止まらない。
だが、ヴェレスは止まらない。足が泥を蹴り、空気を裂く。
熊の神に向かって走る。
「ウェンカムイ! 私を食べて! 私の方が美味しいから!」
その叫びに、思わず笑いを堪えそうになる者がいた。だが笑いは即座に消える。熊の神が、ヒカリを放し、ヴェレスを掴む。
「……嘘ですけど! やっぱり今のナシ! 放して‼︎」
ヴェレスの声は手足を震わせながらも、寸劇のように続く。だが口は閉じられ、体は奥へ引き込まれた。
「ヴェレス!」
ヒカリが叫ぶ。怒号が積雪に刺さる。
熊の神が、ヴェレスを口に放り込んだ。
ガリッ。
骨が噛み砕かれるような音、肉が裂ける音。吐き出される獣の匂い。
「痛い痛い痛い!イタイ!」
ヴェレスの声が、熊の神の口の中から聞こえる。妙にコミカルな断末魔。そこに生々しさが混ざるから、見ている者は胸を押さえるしかなかった。
「めっちゃ痛いです! 死なないけど、痛いです!」
熊の神が、ヴェレスを吐き出す。彼の体は、ボロボロだった。腕は逆方向に折れ、脚はぐにゃりと変形し、顔は潰れている。肉が剥がれ、骨が露出する。だが、生きていた。
「痛いけど、死んでない。これもヒカリ様の加護? 凄い……」
ヴェレスは震えた笑顔で言う。感傷的で、人の価値観とどこかずれている。生還の喜びが滑稽さを生んだ。
「すごくねェよ!」
ヒカリが叫ぶ。
その声には呆れと嘆きが混じる。
「マジで何やってんだお前!」
その時——
熊の神が、再びヴェレスを口に入れる。
ガリッ。
「痛い! また痛い!やめてください!」
ヴェレスの声が聞こえる。繰り返される挫滅の音は、耳に焼き付く。
「これ、何回やるんですか!」
熊の神が、再びヴェレスを吐き出す。
「タノシイ‼︎」
獣は無邪気に叫ぶ。喜びと残酷が同居する瞬間。ヴェレスは骨折と裂傷で再び、ぐったりする。だが、すぐに肉が盛り上がり、骨がゆっくりとつながり始める。再生の波動が、塵と雪を震わす。
碇は、その光景を見ていた。表情は硬い。手が無意識に震えていた。
「……今だ」
碇が拳を握る。
その声は凍てつく旭川の空気より冷たかった。
「伊織」
「はい」
「対物ライフルを用意させろ」
「了解」
北海道警の隊員が、対物ライフルを運んでくる。人間の力で持ち上がるには重すぎる鉄の塊。息が漏れ、冷気に白い吐息が混じる。
12.7mm弾。
対クラウン用の弾丸。貫通力を最大化した徹甲弾。言葉だけが鋭く響く。地鳴りが低く返事する。
碇が、ライフルを構える。肩にかかる荷は、単なる武器以上の決断だ。
距離、約150メートル。狙いは、熊の神の右目。呼吸を整える。雪と鉄の匂いが混ざる。
息を止める。心臓の鼓動を数える。
パァン!
銃声が、山中に響く。音が割れ、空気が裂ける。
弾丸が、熊の神の右目に命中する。
ズブッ。
肉を割く音がする。眼球の破裂が、血の柱となって噴きあがる。
「ガァァァァ!」
熊の神が、咆哮する。痛みと怒りが混ざった獣の叫びが、山を揺らす。右目から血が噴き出す。だが——再生の影が即座に蠢く。
「ヒカリ、今だ!」
碇が叫ぶ。命令は鋭い。
「任せろ!」
ヒカリが地面を蹴る。雪と岩を蹴散らし、爪を肥大化させる。肉が裂ける音、鋭い爪の鳴る音。彼の体躯が弾かれる瞬間、世界が切れるように見えた。
そして——
熊の神の左目に、爪を突き刺す。
血が二方向に飛び、空気が真っ赤に染まる。眼窩を貫く爪の圧が、獣の反射を奪う。
「ガァァァァァァァァァァァ!」
熊の神が、絶叫する。両目を失ったヤツから発される声は狂気そのものだった。
この獣に視覚は存在しない。
その視覚を補う形で五感が暴走する。嗅覚と振動で世界を探り、全力で暴れ回る。
「オマエ……オマエ……!」
熊の神が、暴れる。巨体が地面を叩き、木を砕き、雪塊を飛ばす。森が悲鳴を上げる。雪崩が小さく起き、空気が粉になった。
「伊織! 今だ!」
碇が叫ぶ。
「はいッ!」
伊織が天叢雲剣を構える。刃が寒光を放つ。彼の呼吸が一点に集まる。
「全てを薙ぎ払え——天叢雲剣‼︎」
言葉が剣のように空気を引き裂いた。伊織の腕が振り抜かれる。刃が軌道を描き、雪と血をさらう。
水流が、熊の神を飲み込む。天叢雲剣が呼び出した水は、渦となって獣を絡め取る。圧倒的な質量が、獣の動きを一瞬封じる。
熊の神が、水流に押し流される。巨大な身体が渦に囚われ、勢いよく岩壁へと叩きつけられた。
そして——
ドゴォォォンッ!
岩壁に叩きつけられる音は、まるで世界の一部が割れるようだった。岩が砕け、石片が飛散する。熊の神が埋まる。雪と土と血が岩の隙間にねじ込まれ、静寂が一瞬、戻るように見えた。
「……やった、の……?」
伊織が呟く。声が虚ろだ。達成感と疑念が混ざる。
碇は答えない。ヒカリも、黙っている。沈黙が重い。雪が降る音だけが、断続的に場を洗う。
そして——
岩が動いた。
隙間の中で、何かが蠢く。黒い隙間が口を広げるように裂け、粉塵が吹き上がる。
「……嘘だろ」
伊織が呟く。その声は、薄く震えている。
岩の中から、熊の神が這い出てくる。泥と血にまみれた身体が、糸のように引き裂かれてもなお這い上がる。失明した両目が再生していた。
全身の傷が、塞がっている。まるで縫い直されたように、表皮が再び覆い被さる。
「オマエラ、マダタノシメル…!ズット、アソベルヨウニガンバレ。」
熊の神が、笑う。笑いは不気味で骨の音のように乾いて、戦場の空気を切り裂く。
絶望が、現場を支配した。
音が消える。一縷の光が、雪の上に落ちる。
落ちた光はすぐに冷え、影は濃く伸びていく。
碇が拳を握る。血が爪の間に染み、白い吐息の中で湯気のごとく立ち昇る。
「……どうやって殺す」――問いは世界へ投げられ、返事は来ない。あるのは、冷たい風だけだ。
ヒカリは、この問いを前に、ふっと笑った。
その笑いは、山の底で石が転がるように静かで、どこか楽しげだった。
「…面白ェじゃねえか。」
「ヒカリ……」
ヒルメが名を呼ぶ。
声は細く、しかし切羽つまった祈りのようでもあった。
ヒカリは、ほんの一拍だけ考えた。
その沈黙は、銃の引き金に手を掛けた瞬間の静けさに近かった。
そして口を開く。
「…よし!存分に味わえよ。デザート。」
その言葉が落ちた瞬間、
風が、場の空気をゆっくり撫でた。
雪がひとひら、斜めに落ちた。
戦場が、息を止めた。
ヒカリが、前へ出る。
その歩みに合わせ、血が揺れ、雪が舞い、
笑みが、白い闇の中で薄く光った。
「要するに...多分、終わりってことだよ。クライマックスだぜ!」
その声に、戦場がかすかに震えた。刃が鳴り、血脈が踊る。雪は細かく、時間は軋み、凍っていた世界が再び動き出す。
───果てしなき戦いに終わりの兆しが見えた。




