不穏な風
# エピローグ(完全版)
---
旭川市内。
北海道警察本部の会議室。
蛍光灯の白い光が、疲弊した顔を照らす。
ヒカリは椅子に座り、コーヒーを啜っていた。
熱い。苦い。だが——生きている実感がある。
「……で、報告書はいつ出すんだ?」
碇が呆れたように言う。
「明日でいいよね?」
「駄目だ。今日中に出せ」
「えっ...マジかよ」
ヒカリが頭を掻く。
伊織は隣で、熱いお茶を両手で包んでいた。
「……あの、碇先輩」
「なんだ」
「熊の神は……死んだんですよね?」
「分からん」
碇の返答は短く、妙に乾いていた。
彼の視線は窓の外へ流れた。
「確かに悲鳴は聞こえなくなった。だが——確認はできていない」
伊織の心臓がひとつ跳ねる。
「確認……?」
「ああ。雪と氷に深く潜り込んだ。掘り出す手段はない。」
碇は腕を組み、声を落とす。
「地中レーダーでも探したが……反応が曖昧だ。どれが生き物でどれが氷塊かが分からない。」
「つまり……」
部屋の空気が、じわりと揺らいだ。
「生きてるかもしれない……?」
伊織の問いは、呟きというより“逃げ道のない確認”だった。
「可能性はある」
碇は、重く頷いた。
「だが、あの深さと圧力なら、動けないはずだ。低体温と酸欠で、再生も追いつかない。」
「でも——**絶対とは言いきれない**」
「……そう、ですよね」
伊織が、お茶を啜る。
手が、微かに震えている。
ヴェレスは、包帯に覆われた身を壁にもたせかけていた。
全身がひどく傷んで見える。それでも——その奥では、確かに再生が進んでいる。
「ヒカリ様……」
「ん?」
「あの熊の神……もし生きていたら……」
「その時は、また遊んでやる」
ヒカリが笑う。
「何度でもな」
「……!」
ヴェレスの目に、涙が浮かぶ。
「ヒカリ様……最高です……」
「泣くなよ、気持ち悪ィ」
「すびません……!」
碇が、窓の外を眺める。
外は——**夏真っ盛り**。
青空が広がり、強い日差しが街を照らす。
だが、つい数時間前まで——この街は雪と氷に覆われていた。
「……異常気象も収まったな」
碇が呟く。
「ああ」
伊織が頷く。
「真夏なのに雪が降って、街が凍りついて……異常でしたよね」
「熊の神と関係があるのか?」
ヒカリが問う。
「分からん」
碇が首を振る。
「タイミングは一致してるが——因果関係は不明だな」
「……そういえば、江頭は?」
「意識が戻った」
伊織が答える。
「病院で休んでいます。生存者の方々も、ご無事だそうです。」
「そうか」
碇が安堵の息を吐く。
「……良かった」
その時——
会議室のドアが開いた。
北海道警の警部が入ってくる。
やけに表情が硬い。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
碇が頷く。
「……何かあったか?」
「はい」
警部が資料を広げる。
「熊の神——ウェンカムイの埋められた地点を、継続的に監視しています。」
「……何か変化が?」
「いえ、変化はありません」
警部が首を振る。
「ですが——**奇妙な現象**が確認されました」
「奇妙な現象?」
「はい」
警部がタブレットを操作する。
画面に、グラフが表示される。
「周辺で、**微弱なエネルギー反応**が検出されました」
ヒカリが身を乗り出す。
「エネルギー反応?」
「はい。神の力……とは少し違う、**異質な何か**です」
警部が真剣な顔で言う。
「波形を分析したところ——まるで**何かが吸い取られているような**パターンでした」
「……吸い取られてる?」
碇が眉をひそめる。
「はい。熊の神から——何かが、外部へ流出しているような……」
警部が言葉を濁す。
「ただの推測ですが」
「……!」
碇が息を呑む。
「詳しく調べられるか?」
「難しいですね」
警部が首を振る。
「あの場所に人が近づくのは危険です。もし熊の神が——」
「分かった」
碇が頷く。
「監視を続けてくれ。何か変化があれば、すぐに報告を」
「了解しました」
警部はひとつ敬礼し、無言のまま扉の向こうへ消えた。
その瞬間、会議室には——凪いだような静寂がすとんと落ちた。
「……気になるな」
ヒカリが呟く。
「ああ」
碇が頷く。
「何かが吸い取られてる……まるで——」
「まるで?」
「……いや、何でもない」
碇が首を振る。
「憶測で物を言うべきじゃないな。」
「教えろよ」
「今は、まだだ」
碇が窓の外を見る。
「確証が持てたら、話すさ。」
「……ケチ」
ヒカリが肩をすくめる。
---
その夜。
ヒカリは、ベッドに倒れ込んでいた。
体が鉛の様に重い。
閉じた傷が痛む。
だが——生きている。
「……疲れたな」
ヒカリが呟く。
窓の外に視線を移す。
夏の夜。
星が輝き、虫の声が聞こえる。
(何かが吸い取られてる……)
(何だったんだろうな)
(まあ、いいか)
ヒカリが瞼を閉じる。
深い眠りが、彼を包み込む。
---
同じ頃。
どこか遠くの、暗い部屋。
一人の人影が、モニターを見つめていた。
モニターには——日本地図と、いくつかの赤い点。
そして——グラフが並んでいた。
「……**美味い**」
低い声が、闇に響く。
「人々の恐怖。信仰。畏れ」
人影が、グラフを見つめる。
「熊の神が暴れ、人々はヤツを畏れた」
「その恐怖、信仰が——**私を満たす**」
人影が笑う。
不気味でこの世の理から逸脱したモノの様である。
「聖別の儀は成功した」
「熊の神を聖なるものとして別ち——その力を**私のもの**とした」
人影が、北海道の点を見つめる。
「**北海道は完了**」
「次は——**どこにしようか**」
人影が、地図上の別の点を指差す。
「……ああ、ここがいい」
人影が再び笑った。
笑いは静かで、どこか冷たく——そして、飢えていた。
「**もっと喰いたい**」
「もっと——**信仰を**」
そして——
モニターの光がふっと途切れた。
残された部屋には、闇だけが静かに沈み込んでいく。
---
翌朝。
ヒカリは目を覚ました。
窓の外を見る。
夏の陽が、北海道の街を白く灼きながら流れていく。
空気の端まできらりと震えるような、真昼の光だ。
蒸し暑さの中に蝉の声が響く。
「……暑ィな。寒暖差で風邪引くぞ。」
ヒカリが呟く。
スマートフォンが鳴る。
碇からのメッセージだった。
『おい‼︎報告書、まだか?』
「……うわ、忘れてた」
ヒカリが頭を抱える。
だが——彼は、笑っていた。
また日常が、戻ってきた。
平凡で、退屈で、でも確かに——
生を謳歌する日常。
「……よし、書くか」
ヒカリが机に向かう。
エアコンをつける。
冷たい風が、部屋を満たす。
そして——
ペンを走らせ始めた。




