氷と雪の棺
ヒカリは足を止めた。
───そして、再び動いた。
だが、その動きは誰もが予想したものと違った。
前には出ない。横にも下がらない。
ヒカリは——"周囲を見渡した"。
「どうした、ヒカリ?」
碇が怪訝そうに名を口にした。
ヒカリは沈黙した。
(偉そうなこと言ったが、肝心の倒し方が見えねぇ。)
目だけが、戦場の隅々を舐め回すように走る。
雪、木、岩、斜面——
そして、風の流れ。
"乾いた雪。風下に偏った積雪。急峻な斜度。"
ヒカリの脳内で、情報が的確に処理される。
(コイツは再生する。何度殺しても無駄か?)
(いや——再生に時間がかかってんな)
(つまり、**体力を消耗してる**ってことだよな)
(なら、どうする?)
(消耗させて、**動けなくする**)
(どうやって?)
(……地の利を使う)
ヒカリの視線が、山の斜面に止まる。
風下側に張り出した、白い棚。
**雪庇**。
(…あれ、崩れそうだな。乾いた雪が風で溜まって…張り出してるのか?)
(巨体が乗れば——**落ちる**)
(その下は……谷。凍った、沢?)
(冬の北海道の沢は分厚く凍るって誰かが言ってたな。でも、あの巨体なら——**割れる**)
(割れた氷の隙間に落ちて、雪崩で埋まれば——)
(動けなくなる、特撮で見たぜ。)
ヒカリの口元に、笑みが浮かぶ。
「……よっしゃ」
その声には、確信が滲んでいた。
「碇先輩、伊織」
ヒカリが二人を呼ぶ。
「……なんだ」
「なに?」
「作戦会議だ。**3人寄れば100万パワー**」
「文殊の知恵な」
---
ヒカリが指を差す。
「あの雪、見える?」
碇が目を凝らす。
「……見える。雪庇だな。風下側に張り出してる。」
「あれ、崩れやすいだろ?」
ヒカリが説明する。
「乾いた雪が風で吹き溜まってて、構造が不安定だ。」
「つまり——**重量**がかかれば崩れんだろ」
不安げな表情のまま、ヒルメはそっと尋ねた。
「でも、ヒカリも危険じゃない……?」
「俺は軽い、こいつは重い。」
ヒカリが熊の神を見る。
「あの巨体なら、雪庇?ごと落ちる」
「……なるほど、完璧な作戦だな。」
碇が頷く。
「だが、落ちたぐらいで死ぬなら、ここまで窮地に陥ることもなかったって話だ。」
「だよな」
ヒカリが頷く。
「だから、落ちた先が重要だ」
ヒカリが谷底を指差す。
「あそこ、凍った沢がある。」
「ねぇ、氷の厚さは……?」
ヒルメが問いかけた。
その声に、かすかな不安が滲んでいた。
「分かんねェ。でも、北海道の冬なら30センチ以上は凍ってる」
「それでも、あの巨体が落下したなら割れるだろうな。」
碇が分析する。
「ああ。**氷を割って閉じ込める**」
ヒカリが笑う。
「氷の割れ目に落ちれば、足場がない。這い上がれない」
「そこに雪崩を起こせば——」
「雪と氷の世界でお陀仏だね。」
「そういうこった」
ヒカリが頷く。
「だが——」
碇が眉をひそめた。
「問題がある」
「……何?」
「どうやって雪庇まで誘導する? こいつは馬鹿じゃない。罠に気づくかもしれん」
「だから、**怒らせる**」
ヒカリが笑う。
「イライラさせて、冷静さを奪う」
「……ヒカリ、挑発が十八番だもんな」
碇が呆れたように言う。
「褒めてんのか?」
「貶してる」
「ひでェな」
三人が、小さく笑った。
緊張が、少しだけ和らいだ。
「じゃあ、役割分担だ」
碇の指が、ぱきぱきと乾いた音を立てて折れる。
「ヒルメは天叢雲剣で雪庇の一部を削り取れ。」
「了解です」
「俺はライフルでこいつの動きを封じる。」
「ヒカリ、お前は誘導だ。**雪庇が崩れる前に逃げろ**」
「分かってら」
「あと——」
碇が後方を振り返る。
「北海道警、江頭と生存者を安全な場所へ運べ!」
「承知しました!」
隊員たちが駆け寄り、二人を担ぎ上げる。
「お前は……」
碇の視線が、ヴェレスに向けられる。
「私も……戦います……」
声は震えている。碇の言葉に肩がわずかに強ばり、手のひらがぎゅっと握られる。
「……やめとけ」
「でも……」
「お前の役割は囮だ」
碇の声は冷たい。ヴェレスはわずかに目を伏せ、息を詰める。その背後に、わだかまりのような熱がゆらめく。
「ヒカリが逃げる時、出来る限り注意を引け。命令だ。」
「……はい」
声は低く、わずかに震えながらも、目だけはヒカリの方をしっかり見据える。手の指はそっと動き、怒りや苛立ちは飲み込みながら、覚悟だけを胸に据える。その胸の奥では、ヒカリの役に立てる、喜びが小さく弾んでいた。
「よし——作戦開始だ」
ヒルメや碇の存在は遥か遠く、目の前の光──ヒカリだけが確かにあった。
───
ヒカリが、熊の神を見る。
獣は再び、ヒカリを見据えていた。
両目は再生し、赫く輝いていた。
その輝きは恒星を想起させた。
「オマエ……マダ、タノシマセテクレルノ?」
熊の神が問う。
声は低く、喉の奥から絞り出されるような響き。
ヒカリは——笑った。
だが、その笑みはいつもと違った。
冷たく、侮蔑に満ちていた。
「はぁ...楽しませる? **畜生のために?**」
「……ナンダト?」
熊の神が動きを止める。
「お前、頭大丈夫か?」
ヒカリが吐き捨てる。
熊の神が咆哮する。
「...強い? **嘘つけ**」
ヒカリが指を差す。
「お前、さっきから傷が治るの遅くなってんぞ」
「……!」
熊の神が自分の体を見る。
確かに——傷が残っている。
**肩の裂傷。脇腹の打撲。脚の骨折痕。**
再生が追いついていない。
「見ろよ、その様を。**ボロッ、ボロじゃねェか**」
ヒカリが笑う。
「お前、もう限界なんだよ。**認めろよ、ザコ**」
「フザケルナ! フザケルナァァァァ!」
熊の神が激昂する。
地面が揺れ、雪が舞い上がる。
**怒りが理性を食い潰す。**
獣の目が、完全に血走る。
(チョロいなァ——**釣れた**)
ヒカリが内心で笑う。
「オマエ……オマエ……! ゼッタイニユルサナイ!」
「マジかよ、怖ェ怖ェ」
ヒカリが挑発する。
「じゃあ、**殺してみろよ**」
「コロス! ゼッタイニコロス!」
「ふっ...やってみろよ。」
熊の神が突進する。
巨体が雪を蹴散らし、地面を揺らす。
ヒカリは——走った。
雪庇へ向かって。
**計画通り**
「**フザケルナ! ニゲルナ!**」
熊の神がヒカリを追う。
巨体が地面を叩くたびに、雪が跳ね上がる。
木々が倒れ、岩が砕ける。
やばい——追いつかれる。
熊の神は雪面を割りながら迫ってくる。
ただ、殺すためだけに。ヒカリを。
「シネッ‼︎」
振り下ろされる腕——
その瞬間、碇の銃弾が獣の関節を撃ち抜いた。
「ガッ……ァアアッ!」
雪に膝をつき、体が震える。
腕はぶら下がったまま、もう形を保っていない。
痛みが洪水のように脳を焼き、
まともに立つことすら困難なはずだった。
——が。
その痛みは、獣の内側でどこか遠くへ押し流されていた。
ヒカリの背を見失った瞬間、怒りが熱となって、
残りの身体を押し出す。
腕はもう使えない。
だが脚はまだ動く。
たったそれだけで、獣は再び歩み始めた。
熊の神は壊れた姿勢のまま雪面を砕き、
破綻した軌道で、それでも異様な速さで突進した。
「シネッ‼︎」
「ちょっと待って!!」
雪煙の向こうから、ヴェレスが跳び込んだ。
腕を伸ばし、獣の進路を身体ひとつで塞ぐ。
一瞬、熊の神の足が止まる。
迷いが遅延を生む——ほんの刹那の揺らぎ。
「ァ……?」
だが次の瞬間、怒りがその迷いを呑み尽くした。
獣は腕を振れぬまま、肩からぶつかるように突っ込んだ。
衝撃音が雪峰に響く。
ヴェレスの体が跳ね飛ばされ、
木へ叩きつけられ、雪が爆ぜた。
「ぐっ……まだ……!」
それでも彼女は、歯を食いしばって地面を掴み、
獣の足首へ手を伸ばす。
ほんの一秒でも、ヒカリが逃げる時間になる。
熊の神は煩わしげに足を振り払い、
ヴェレスを雪に転がして捨てると、
ふたたびヒカリだけを見据える。
壊れた息を吐きながら、
それでもなお、獣は追ってくる。
ヒカリとの距離は、
ヴェレスが奪った数秒で確かに開いていた。
──雪を蹴り、ヒカリは走る。
背後の咆哮は痛みで軋む獣がそれでも憎悪を抱き、走り、怒鳴る音だった。
───
「ヒルメ、**今だ!**」
碇が叫ぶ。
「はい!」
ヒルメが剣を振るう。
「**天叢雲剣!**」
水流が、雪庇の積雪を撃つ。
**表層が削られる。**
内部の脆い層が露出する。
乾いた雪の結晶が崩れ、構造が不安定になる。
「よし……!」
ヒルメが呟く。
「準備完了です!」
(あとは——ヒカリ次第……)
───
ヒカリが、雪庇に到達した。
足元が柔らかい。
張り出した雪の棚が、微かに揺れる。
**風が吹く。雪庇が軋む音が聞こえる。**
(マジか……やべェな、これ)
ヒカリが内心で呟く。
(思ったより不安定だ。俺が乗っただけで崩れるかもしれねェ)
だが——笑っていた。
(だったら、**走り抜けるだけだ**)
背後から、熊の神が迫る。
「ニゲルナァァァ!」
巨体が、雪庇に飛び込もうとする。
その瞬間——
**ミシッ**
雪庇が、音を立てた。
**小さな亀裂が走る**
熊の神が——一瞬、動きを止める。
**足元の異変に気づいたのだ**
「……?」
熊の神が、疑念を宿す。
──違和感。
(まずい——**気づかれた**)
ヒカリが舌打ちする。
(なら——)
その隙に——
ヒカリが素早く方向転換した。
熊の神の足元を滑り抜ける。
「**逃げてねぇよ**」
ヒカリが笑う。
「**堂々と立ち向かう、それが俺のモットーだ**」
「ナンダト……!?」
熊の神が振り返ろうとする。
その瞬間——
**重心が移動した。**
雪庇に乗った巨体の重量が——
一点に集中した。
**ミシミシミシッ!**
雪庇が、崩れ始める。
**亀裂が広がる。雪が滑り始める。**
「ガァ……!?」
熊の神が動揺する。
足元が崩れ、体が傾く。
**バランスを失う**
「嘘だよ‼︎バァ〜カ‼︎じゃあな、クマ公」
ヒカリが蹴る。
崩れゆく雪庇の上を、素早く駆け抜ける。
「**いい夢見ろよ**」
そして——
**ゴゴゴゴゴ!**
雪庇が、崩れた。
巨大な雪の塊が、谷底へ落ちていく。
熊の神を巻き込んで。
**空気が震え、雪が舞う。轟音が銀世界を満たす。**
「ガァァァァァァァ!」
熊の神が吠えた。その声は、この世界の生物のものとは思えぬ、遠く冷たい絶叫だった。
——だが、止むことはない。
雪庇が崩れ、獣はもがきながら、深淵へとゆっくり落ちていく。
**重力は、抗うことを許さなかった**
「オマエラ……!」
熊の神が悲痛そうに叫ぶ。
だが——
「碇先輩!」
ヒカリが叫んだ。
「分かってる!」
碇が対物ライフルを構える。
狙いは——**熊の神の足**。
空中で姿勢を立て直そうとする獣の、後ろ脚。
**距離、約200メートル。風速、秒速3メートル。落下速度——
全てを計算する**
息を止めた。
心臓の鼓動を数える。
**引き金に指をかける**
**パァン!**
銃声が、山中に響く。
弾丸が、空を切り裂く。
**12.7mm徹甲弾。**
熊の神の膝を——撃ち抜いた。
**ズブッ!**
「ガァァッ!」
熊の神が姿勢を崩す。
回転し、背中から落ちていく。
**制御を失った巨体が、谷底へ落ちていく。**
そして——
**ドゴォォォンッ!**
谷底の氷に、叩きつけられた。
氷が割れる音。
鈍く、重く、世界が震えるような音。
**バキバキバキッ!**
氷が蜘蛛の巣のように割れる。
**亀裂が広がる。氷の破片が飛び散る。**
氷瀑の一部が崩れ、落下してきた氷塊が熊の神の脇腹に直撃した。
衝撃で足元の氷が割れ、できた亀裂が一気に広がる。
支えを失った巨体はバランスを崩し、割れ目へそのまま滑り落ちていった。
「……やった……!」
伊織が呟く。
だが——
「まだだ」
ヒカリが言う。
「**ここからだ**」
───
熊の神が、氷の中から起き上がろうとする。
だが——
氷が邪魔をする。
手をつくたびに氷が割れ、足場が崩れる。
"冷水が、傷口に染み渡る"
「ガァ……ガァ……!」
熊の神はもがき苦しむ。
しかし、"低体温。酸欠。足場の喪失"
再生にエネルギーを奪われ、動きが鈍る。
その時——
ヒカリが、口を開けた。
喉の奥に、光が灯る。
**熱が集まる。空気が歪む。**
「……これで、終わりだ」
そして——
**熱光線を放った**
赤い光が、斜面を撃つ。
**雪が一気に溶ける**
表面が水になり、内部の層を不安定にした。
**ゴゴゴゴゴゴゴゴ!**
雪崩だ。
巨大な雪の波が、斜面を駆け下りる。
**壮大な音が世界を埋め尽くす**
「ガァァァァァ!」
熊の神が吠える。
だが——
雪崩は止まらない。
白い濁流が、獣を飲み込む。
**氷の割れ目に雪が流れ込む**
隙間を雪で埋め尽くした。
熊の神が、雪に埋まる。
そして——
**氷は扉を閉した**
割れた氷が、雪の重みで再び繋がった。
**雪と氷が混ざり合い、壮大な棺が形成される**
雪崩が収まると、山は嘘みたいに黙り込んだ。
粉雪が宙に漂うだけで、風さえ息を潜めている。
その白い虚無の中に、熊の神の低い咆哮がひとつ、ぽつりと落ちた。
「ガ……ガァ……」
雪と氷の世界に閉じ込められ、もう動けない。
いくら再生しても、脱出できない。
**低体温。酸欠。圧迫。**
全ての要素が蝋燭の燈を吹き消す。
「…やった?」
ヒルメが呟く。
碇は答えない。
ただ、谷底を見つめる。
ヒカリも、黙っている。
**風だけが、静かに吹く。**
数分後——
とうとう熊の神の声が、聞こえなくなった。
静寂。
白い雪片が、戦場を覆い隠す。
「……終わった」
碇が呟く。
「ああ」
ヒカリが答える。
「**腹一杯らしい**」
その声は、静かで、確かで——
そして、どこか疲れていた。
────
ヒルメは静かにその場にぺたりと座り、周囲を見渡した。
「とうとう倒せた……良かった」
声は震えながらも、どこか安堵を帯びていた。
「本当に……良かった……」
ヴェレスも、涙を流していた。
「ヒカリ様……ヒカリ様……」
「やったな、ヴェレス」
ヒカリが笑う。
「お前がいなきゃ、無理だったな。」
「……!」
その瞬間、笑顔が光のようにぱっと広がり、ヴェレスの瞳に温かい涙が溢れた。
「ありがとうございます……!」
碇が、後方を振り返る。
そこでは、北海道警の隊員たちが江頭と生存者を介抱していた。
「江頭は……?」
「意識はありません! でも、呼吸は安定してます!」
隊員が答える。
「生存者の方も、低体温症ですが命に別状はありません!」
「……そうか」
碇が安堵の息を吐く。
「すぐに病院へ運べ」
「了解!」
碇が、空を見上げた。
「……帰るか」
「ああ」
ヒカリが頷く。
「帰ろうぜ」
ヒルメが立ち上がる。
「みんな……無事で良かった……」
そして——
彼らは、雪の中を歩き始めた。
疲れ切った体で。
だが、確かな安堵を胸に。
雪が降り続ける。
白い雪片が、彼らの足跡を消していく。
戦場だった場所に、穏やかな静寂が戻る。
───戦いの果てに、静寂が訪れた。
そして——
遠くの谷底で。
雪と氷の棺の中で。
熊の神が、眠り続ける。
二度と目覚めることなく。
永遠に。
───ごちそうさま。




