嵐の前の静けさ
三日後、午前六時ちょうど。
北海道・旭川空港の薄い朝靄が、滑走路脇のアスファルトを冷たく撫でていた。
神崎班の五人が、第二課の支援部隊十名と並ぶ。全員が通常の戦闘装備に加え、防寒着を被り、首筋や手袋の隙間から吐息が白く立つ。胸には小さな黒いパッチ——公安神性事案対策部の紋章。
ポケットには小さな箱が一つずつ収められていた。新技術の戦闘補助アイテムだ。
──二日前、会議室。
冷房の風だけがよく通り、空気に緊張が沈んでいた。資料の青い光が壁に映る。技術科学者・佐伯はスライドをめくり、抑えた声で説明を始めた。
「本日説明するのは品物は三つです。いずれも国内で設計され、臨床/実地データを経た、運用可能な技術。ただし『完成』ではありません。運用は必ず医療・工学・法務のプロトコルに従ってください」
まず一つ目、神経網インプラント——Neural Mesh。
「運動ニューロン周辺に配置するインターフェースで、発火パターンを補正します。射撃精度、反応時間、部隊の同期を格段に高める。だが副作用があります。感情や自我の微細な変化、夢にまで入り込む可能性が報告されています。心理評価と長期モニタリングが必須です。セキュリティ上もハードターゲット。通信は物理的に隔離し、鍵管理を徹底してください」
二つ目、再生外装——Regenerative Sheath。
「止血と表層保護、衝撃を分散する一時被覆材です。救命時間を稼ぐための外装で、万能ではない。内部損傷を覆い隠すことがあるため、携帯超音波等での内部確認を必ず行うこと。ナノ残留のリスクもあるので、剥離とデトックス処理が運用上の前提です。」
三つ目、化学感応コンタクト——Spectral Iris。
「気相中の有害物質を視界に色で示すレンズ型センサです。AR(拡張現実)的な効果の恩恵は大きいが、誤検知と知覚負荷が問題ですね。長時間着用は避け、必ず補助センサでクロスチェックを行ってください。」
佐伯は一覧表を指し示した。運用必須条件は五点に凝縮されている。医療チームの同行、心理スクリーニング、セキュリティの隔離、稼働時間の上限、行為ログの保存——全てが条項として刻まれていた。
碇が静かに訊いた。
「医療能力を失った場合は?」
佐伯の答えは即答だった。
「医療能力がなければ使うな。それが答えだよ。これらは工学的賭けに過ぎない。」
会議室に、それ以上の言葉は必要なかった。
技術は人を救う薬にも、人を蝕む毒にもなる。
──そして、郊外へ向かう車内。エンジンはまだ目覚めていない。
神崎班の面々は各自の装備を確認する。Meshの小型制御器はパルス音を立てずに同期待ちをしている。Sheathのカートリッジは専用ポーチに収められ、Spectral Irisはシールドケースの中で微かな青光を漏らす。碇は佐伯の言葉を振り返っていた。医療がなければ使うな——その言葉は彼の背骨に突き刺さっていた。
碇が前に立ち、地図を広げる。声色は低く、切断された冷気と同じ温度だ。
「各自、最終確認は済んだか。対クラウン用の自動小銃・ショットガン・ライフル——弾倉、薬室、作動を確実に点検しろ。
二課のドローン索敵によれば、目標は山の中腹、約八百メートル付近だ。車両は林道終点まで、そこから先は徒歩でアプローチする。
山の中腹に直接乗り入れるルートはないからな。
二課が示した地点までは、約四十分の登攀となる。
内容は頭に入っているはずだ。
……以後は現場判断で対応する。
これより『熊の神』討伐および、行方不明者の救助・安否確認に移る。腹を括れ。──以上。」
彼の視線は、暗い森の輪郭へと吸い込まれる。
言葉には余分な装飾が一切ない。
討伐──言葉そのものが、現場の任務を定義していた。
日本国民に害を及ぼす存在──排除。
車内のラジオが最後の確認指示を流す。合図が出れば、神崎班は降り立ち、神経網インプラントは同期し、コンタクトは色づく。
現場は常に世の理を逸脱する。
熊の神——クラウンは、人間の理解と法の外側にいる。
朝靄が薄れ、エンジンが唸る。
出発の合図は誰の声でもなく、機械の振動と人々の呼吸が一つになる瞬間に来た。
碇はゆっくりと地図を折りたたみ、短く言った。
「行くぞ。九時前には現地に着くからな。」
言い終える前に、誰かが小さく息を吐いた。それは恐怖でも祈りでもなく、単なる空気の移動に過ぎない。だが、その一息が隊列の静謐さを確かに整えていた。機は動き、血で血を洗う討伐作戦が始まる。




