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堕天/FREEDOM’S CROWN  作者: イチジク
もう目覚めたから

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35/41

賽は投げられた

バンは、純白の牢獄めいた山道を、息を潜めるように登っていた。

銀世界は美しく、そして容赦なく、生き物の気配を飲み込んでいく。

ヒカリは窓の外を見つめる。雪は絶え間なく舞い、外気はマイナス15度。氷点下の世界は、ガラス越しでも牙を立て、静かに、しかし確実に体温を奪う。肺が痛む。この世界では、呼吸することすら罰に近い。

今年も、真夏だというのに、雪は降り止まない。

頭の中で数字がぐるぐる回る──被害者50名、死亡40名、行方不明100名。冷たい雪と同じくらい、現実は重く、凍りついていた。

「ヒカリ様」

隣に座るヴェレスが、声をかけた。

人間とは違う、ひんやりとした異質な静けさを纏って。

「……ん?」

ヒカリは振り返らない。

声は届くが、視線は窓の外に釘付けだ。

「緊張してますか?」

「してねえよ」ヒカリは短く答えた。

「緊張より不安だわ。お前らと行く任務は初めてだし。それに、わかんねえンだよなあ……100人だぜ? 100人も消えてんだぞ」

「大丈夫です」

ヴェレスが微笑む。

その笑顔は、どこか信仰に染まりすぎていて、

見る者の背筋を凍らせるような不気味さを帯びていた。

「ヒカリ様なら、できます‼︎」

「買いかぶりすぎだろ……俺、そんな強くねえよ」

ヒカリが呟く。

「買いかぶってませんよ〜」

ヴェレスは真剣な顔で続けた。


「ヒカリ様はルシファー様と表裏一体。ヒカリ様がこの世におられる。それだけで、すでに特別なのです。」


「私たちは、ただそこにいるだけで光に触れられる──幸運をいただいているのです!」


「...もう、いいや。」

ヒカリは適当に答えたが、悪い気はしなかった。それでも、ヴェレスの「信仰」じみた視線は、やっぱり苦手だった。

ヒカリは、自分の手のひらを見た。何も変わっていない。でも、最近、変な感覚がある。

自由でいたい。

その思いが、やけに強くなっている気がする。

誰にも縛られたくない。誰にも命令されたくない。自分の意志で、戦いたい。

邪魔する奴らを駆逐したい。

「……なんだ、これ。気持ち悪りぃ。」

ヒカリは小さく呟いた。

ヴェレスは、その言葉を聞き逃した。


──任務開始の前日であった。

碇はリリスの表情を確かめるように見つめ、声を低くした。「あの、今回の任務対象の危険度は?」

リリスは、資料をめくる小さな音だけを室内に落として答える。「ランク3です。局所的災害レベル。ただし、被害拡大の速度から見て、ランク4への格上げも検討中」

ランク1は観測のみ。ランク2は限定的被害。ランク3は局所的災害。ランク4は広域災害。ランク5は――国家存亡レベル。

突きつけられる現実に、胸の奥がじんわりと冷たくなる。 笑えば気が紛れるのに、笑わなかった。

──そして現在。

助手席には、赤い活字で「対象危険度:ランク3 → 4 審議中」と印字された神格情報ファイルが静かに置かれている。碇がその端に触れると、冷たさが皮膚を通し、嫌になるほど現実的な脈打ち方で伝わってくる。

外の景色は何事もなく流れていく。だが車内の時間だけは、赤文字を中心にきしむように張りつめている。

碇誠太は膝の上の資料を見つめていた。運転は高橋が担当している。こんな日に、彼の落ち着いた運転が、どうにものどか過ぎて腹立たしい。

再び赤字を見た。それはただ印刷されているだけなのに、生き物めいて訴えかけてくる。

――これから、お前たちの世界は変わるのだと。

「ウェンカムイ……」碇は呟いた。

アイヌ語で「悪い神」を意味する。長い冬眠から目覚めたこのクラウンは、僅かな期間で40名を殺した。そして、行方不明者はコイツにやられた可能性が高い。

捜索隊が見つけた遺体は、全て同じ状態だった。

恐怖で発狂させた後、肉体を凍結させて砕く。

それが、『熊の神』の殺し方だ。

「……望月」

碇は小さく呟いた。

「俺達を見ていてくれ。」

後部座席で、江頭が無言で碇の肩を叩く。何も言わないが、その手の重みが全てを語っている。

心配性の江頭が、何も言わないのは、それだけ今回の任務が危険で腹を括るしかないからだ。

「碇さん」

ヒルメが、後部座席から声をかけた。その声が、少し震えている。

「どうした」

「100名もおそらく……」

ヒルメは、人一番優しく責任感が強い子だ。だから、100名の行方不明者という数字が、心に重くのしかかっている。

「ああ」

碇が答える。

「だからこそ、俺たちで止める。」

碇の声は、静かだが、非常に力強かった。

「全員生きて帰るぞ。」

「……はい!」

伊織が頷く。その顔には、少しだけ笑顔が戻っていた。

車内に、再び沈黙が戻る。

雪を踏みしめる音だけが響く。

旭川郊外、林道終点。

「碇さん、まもなく目標地点です」

高橋が報告する。

「了解。停車しろ。」

無線が入る。

『こちらゼロ。封鎖線展開を許可する。作戦名”第七号特異災害対処行動”、開始せよ。道警公安部第一班との合同作戦とする。民間人への被害はこれ以上許されない。』

「了解。」

碇の声には、いつもの冷静さがあった。だが、その目には、静かな怒りが宿っていた。

40名が死んだ。

もう、これ以上の被害は許されない。

バンが停まり、全員が降りる。冷たい風が顔を叩いた。マイナス18度。雪中戦での戦闘能力の高さは世界屈指と言われる自衛隊の訓練を受けた隊員でも、30分が限界の気温だ。

「江頭、封鎖班を配置しろ」

「……了解」

江頭が無言で支援部隊に合図を出す。支援部隊は山道に封鎖線を張り、「民間人立入禁止」の看板を立てた。

北海道警の車両も到着する。公安部第一班の隊員たちが、無言で配置につく。

公安警察の指令は警察署や本部の上官を通さず、警察庁警備局の極秘の中央指揮命令センターから直接出される。だから、現場の連携は完璧だ。

「封鎖完了しました」

「よし。第二段階に移る」

碇が全員を見渡す。碇、ヒカリ、ヴェレス、江頭、伊織ヒルメの五人。高橋は車両待機だ。

「誘導班、前進しろ」

碇が言った。

「100名の行方不明者を、必ず取り戻す」

五人が山を登り始める。雪が深く、一歩ごとに足が沈む。

「っ……夏なのに、さっむ。……さむいよぉ。」ヒカリがぼやく。

「ヒカリ、準備はいいか」碇が聞く。

「ああ、いつでも変身できるぜ。」

ヒカリが答える。その声には、少しだけ緊張が混じっていた。

「よし。『熊の神』を発見次第、すぐに知らせろ」

全員が答え、山道を進む。標高が上がるにつれて気温はさらに下がった。

マイナス20度の外気。息が白く凍った。吐いた息が、一瞬で霜になって顔に張りつく。

肺が張り裂けそうだ。

「碇さん!」

ヒルメが声をかけた。

「熱源反応、捕捉しました!」

伊織は携帯型サーマルカメラを見ている。

その手は激しく震えていた。

「方角は!?」

「北西、300メートル先です! 大きいです、すごく……! それと——」

ヒルメが息を呑む。

「複数の微弱な熱源反応も……!」

「……まさか」碇の顔が、一瞬歪んだ。

「行方不明者か!?」

「分かりません! でも、人間の体温に近い反応です!」

「……くそっ!」

碇が舌打ちする。珍しく、感情が表に出てしまった。

「全員、警戒しろ。生存者がいる可能性がある。」

全員が武器を構え、前進する。

雪を踏みしめる音だけが響く。

そして——

前方に、巨大な影が見えた。

純白の体毛。真っ赤に染まった眼。

10メートルを超える巨体。

そして、口から零れる、血。

その周囲には、凍りついた人間と思わしき塊が、雪の中に埋まっていた。

「……っ!」

ヒルメが悲鳴を上げそうになるのを、ヒカリが手で塞ぐ。

『熊の神』——ウェンカムイだった。

そして、その足元には、まだ息があると思われる人間が、震えながら倒れていた。

「……熊の神を確認。」

碇が無線に囁く。

『こちらゼロ。討伐開始を許可する。生存者の保護を最優先せよ』

「ヒカリ」

碇が静かに言った。

「……ああ」

ヒカリは一歩前に出た。

その目には、何かが宿っていた。

怒りとは違う。正義感とも違う。

もっと根源的な何か。

「行くぞ。」

「変身」

ヒカリが呟く。その声は、いつもより少しだけ低かった。

そして、ヒカリの体が光に包まれる——

変身したヒカリは、純白の大地を踏みしめて、飛び出した。

『熊の神』が、真っ赤に染まった目でヒカリを見つめた。

そして——

咆哮。

山が、大地が震えた。

「ヒルメ!準備しろ!」碇が叫ぶ。

「は、はいっ!」

伊織ヒルメが、背中に担いでいた剣を引き抜く。

天叢雲剣あめのむらくものつるぎ

水を操り、洪水を起こし、全てを薙ぎ払う、最強の神器。

「江頭! 生存者の回収を!」

「……了解」

江頭が、凍りついた人間たちの中から、まだ息のある者を探し始める。

碇が無線を握りしめ、短く鋭く叫んだ。「高橋!銃火器の追加要請だ、急げ!」

『了解、直ちに手配します!』

碇が、前を見据える。

「...腹を括れ。」

ヒカリが、『熊の神』に飛びかかる。

その拳が、神格の顔面に叩き込まれた——

賽は投げられた。

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