新たな仲間
電話が切れ、碇は部屋を後にした。
廊下を歩きながら、碇は周囲を見る。
第一課のフロアは、いつも緊張感に満ちている。
壁には、殉職者の名前が刻まれたプレート。
望月美咲。斎藤健。田中美咲。
そして、その下にも、無数の名前。
過去十年で、第一課だけで200名以上が殉職している。
クラウン討伐は、”命がけ”だ。
─────
食堂に向かうと、ヒカリとヒルメは向かい合って、まだ甘いものをつまんでいた。
「げぇ、結局甘いヤツばっか食べてるじゃん。太るぞ」
ヒカリが軽く突っ込む。
「いちいち言わなくても分かってま〜す」
ヒルメは舌をペロっと出し、少し不満そうに答えた。
碇が声をかける。
「ヒカリ、ヒルメ。班長が呼んでる」
「マジ? 何の用かなぁ」
ヒカリは立ち上がり、ヒルメもそれに続く。
「分からないけど、とりあえず会議室に行こう」
二人は碇の後ろに続き、食堂を出た。
────
ドアを押すと冷たい重みが指先に戻ってきて、室内の空気が一瞬だけ揺れた。窓際にリリスが立っている。背後から差し込む光が、彼女の輪郭を淡く撫でている――まるで朝の草むらに残った露を透かすように。
「来てくれて、ありがとう」
声は低いが澄んでいて、三人の胸にすっと入る。リリスの微笑みは、鋭さを帯びない。包むようで、押し付けがましくない。彼女が指で椅子を三つ示すと、誰も言わずに腰を下ろした。椅子が軋む音が小さく響く。
リリスも腰を下ろし、テーブルの縁に指先を軽く当てる。窓の光がその指先に沿って揺れた。
「今日は大切な話があるの」
静かに、しかし一言一言が確かな音量で落ちる。言葉が部屋の隅々まで満ちるような感じがした。
「班の再編成について」
「再編成…ですか」碇の声は喉の奥から出た。言葉の表面に少し震えが残る。
「そうだね」。リリスは頷き、視線を三人に行き渡らせる。「襲撃で多くを失った。望月さん、斎藤さん、田中さん──」
その三つの名前が空気を裂く。リリスの声が一瞬震え、しかしすぐにぎこちなくも整えられた。
「彼らがいなくなって、班の戦力は明らかに落ちている。上層部の指示で、新しい仲間を迎えることになったのよ」
「新しい仲間…」
ヒルメが言葉を繰る。息が少し速い。
リリスは、窓の方へ顔を向けて立ち上がる。窓の向こうでは街路樹の影がゆっくり揺れている。彼女の背中越しに差す光が、まるで小さな湖を揺らすようにきらめく。
「三人、紹介します」
リリスが小さく手を振る。ドアが静かに開いた。開いた向こうに、三つの影が段になって立っていた。足音は低く、しかし確かに床に吸いつくように伝わってきた。
最初に入ってきたのは、二十代後半の男性だった。
体格はがっしりとしていて、腕には古い任務痕の傷が波のように刻まれている。
顔にも、かつての火災や交戦で受けた痕跡が残り、右目の周りには爪で引き裂かれたかのような痛々しい傷が走っていた。
「……江藤。柳生班から異動してきました」
声は低く、落ち着いた口調。公安の現場に慣れた者の匂いがする。
「クラウン討伐、前線での制圧を得意としています」
リリスは軽く頷き、微笑む。
「江藤くんは、最前線での実戦経験豊富よ。クラウンの鎮圧、捕獲、交渉も経験済み。五度、凶悪なクラウンと交わり、五度、生きて戻った。班の戦力として、非常に心強い仲間になるわ」
部屋には、微かに緊張の空気が漂う。
次に入ってきたのは、二十代前半の女性。
「氷室 和です。医療班に所属していました。田中君と……あの子とは、ずっと大親友でした」
声が微かに震えていた。
碇の表情が、わずかに歪む。
田中の名前が、胸の奥に鋭く刺さる。
リリスは立ち上がり、氷室の肩にそっと手を置いた。
「和ちゃん、ありがとう」
その声は、控えめながらも確かな温かさを帯びていた。
「...辛いわね。でも、あなたがいてくれて、私は嬉しい。」
氷室の目に、光るものが浮かぶ。
「ありがとうございます……」
リリスは、氷室の肩に軽く触れ、優しく席に座らせる。
そして、最後に入ってきたのは――
「えー、私、ヴェレスと申します」
二十代前半の女性。
小柄で華奢な体つき、サイドテールの金髪が揺れる。大きな瞳は、西洋人形のような儚い美しさを宿していた。
しかし、その目は――あまりに生き生きとしていた。
いや、あまりに――人間のものとは思えないほどに。
「クラウンの行動予測、討伐支援を担当します」
ヴェレスはきちんと頭を下げる。
その時、ヴェレスの瞳がヒカリを捉えた。
一瞬、彼女の表情が変わる。
まるで、獲物を見つけた野生の獣のように――。
「以前のことは覚えてなくて……」
言葉が途切れる。
「……牛島班長に捕まってからしか覚えてませんね。私、クラウンだったらしいです。」
部屋の空気が、凍りつく。
「何?」
碇が声を上げる。眉間に皺が寄り、眼光は鋭く光った。
その瞬間、班員たちの呼吸がわずかに揃い、緊張が身体を突き刺すように広がる。
「牛島君に捕まって、実験的に動員されることになったわ」
「ヴェレスは、『退屈の神』というクラウンが人間に受肉した存在なの。半人半神。」
リリスの声には非難の色はない。ただ、淡々と事実を述べている。
「えぇ……人の意思は残ってるんですか?」
「この子の場合、屍に受肉したから、本人の意思は残っていないわ」
伊織が眉を寄せる。
「と、言うことは、クラウンを班に配属するということですか?」
「ええ」
リリスは静かに頷く。
「クラウンの心理を理解するには、クラウン自身の視点が必要だから」
しばしの沈黙の後、リリスの視線がヒカリに向けられる。
「——それに、彼女、どうやらヒカリ君を気に入っているみたいだから。」
※補足:クラウンが人に受肉した場合、相手の精神状態によって結果が異なる。植物人間や意識が薄い相手に乗り移ると元の意思は完全に消え、クラウンの意思が主体になる。一方、生きている人間に乗り移った場合、クラウンの意思が優先されつつも、元の人格の記憶や感情が部分的に残ることもある。この状態では、人間側は自覚なく操られていることが多い。
また、個体によっては受肉した際に受肉者の外見が大きく変化する場合もある。
ヒカリはヴェレスを見つめる。
ヴェレスもまた、じっとヒカリを見返している。
その瞳は、いつもより鋭く光っていた。
「なあ」
ヒカリは声を低く落とす。
「お前、クラウンなんだろ?」
「はい!」
ヴェレスは興奮気味に答える。
「要するによォ、俺ら人間じゃねェ連合ってわけだ。人権もねェ、偉い奴らに管理される道具みてェなもんだろ?」
「ヒカリ…」
碇が声をかける。
リリスがヒカリの隣に立ち、そっと肩に手を置く。
「ヒカリ君、あなたは道具じゃない」
その声は穏やかに響き、確かさを帯びていた。
「私たちにとって、大切な仲間よ」
ヒカリは黙ったまま、リリスの袖端を指先で軽く掴む。
その指先の僅かな動きだけが、言葉にはしない欲求を伝えていた。
リリスは微かに笑い、そっと手を動かして応える。
ヴェレスは二人のその光景をじっと見ていた。
「ヒカリ様、ヒカリ様!」
ヴェレスの声が響き、会議室の全員が一瞬凍る。
「お慕いしております」
ヴェレスは深々と頭を下げる。
「はァ?」
ヒカリは眉をひそめ、目を丸くする。
「ああ、ヒカリ様。本当にお慕いしております」
ヴェレスの声は丁寧そのものだ。
「『自由の神』ルシファー様と合一されているヒカリ様——尊敬しています。大好きです」
ヴェレスがヒカリに歩み寄る。
「いや、待て待て」
ヒカリが手を振る。
「俺、別に偉くねェし」
「いいえ、偉いです」
ヴェレスは目を輝かせ、さらに距離を詰める。
「ヒカリ様は、ルシファー様と合一している。それだけで特別なんです。愛してます」
「マジかよ…って、そんなに近づくな…」
ヒカリは目と鼻の先まで迫るヴェレスを見て、呆れるしかなかった。
リリスが微笑む。
「ヴェレス、ヒカリ君を困らせないで」
「はい、リリス様。申し訳ございません」
ヴェレスは頭を下げる。
しかし、その目は相変わらずヒカリを見つめ続けていた。
リリスは静かに全員を見渡す。
「これから、私たちは六人で神崎班として動きます。」
リリスの声は穏やかだが、その一語一語には強い意志が宿っていた。
「望月さん、斎藤さん、田中さん——三人は...もういません」
「しかし、私たちは前を向かなければいけません。」
言葉が会議室を包む。
「彼らが守ろうとしたもの、彼らが大切にしていたもの——それを、私たちが守る。」
リリスは一人ひとりをじっと見据え、まるで心の奥まで見抜くような視線を送った。
「力を貸して。私たちの手で、未来を切り拓きましょう。」
その言葉は、六人の胸に重く、しかし確かな希望として響いた。
碇はゆっくりと拳を握る。
伊織は小さく頷いた。
ヒカリは黙っている。だが、その目は確かな希望で光っていた。
「よろしくお願い…します」
江藤が頭を下げる。
「私も、君たちのために精一杯尽くす」
氷室は涙を拭う。
「ヒカリ様と一緒に働けて、光栄です」
ヴェレスは微笑む。
リリスは立ち上がり、再び全員を見渡した。
「では、これから会議室に移りましょうか」
「業務内容を説明します」




