自由だ
午後十一時、東京の路地。黒いバンが息を殺して停まっている。
窓越し、カメラはゆっくりと車内へ侵入する。フードを深く被った男の腕が映る。腕時計の針が「カチッ」と小さく刻むたび、室内の空気が張る。
「…クソだ。屈辱。」
男は呟く。隣には黒い戦闘服、覆面を被った部下が腰掛けている。色のない街灯が二人の輪郭を引き締め、ネオンの残光が遠くで揺れている。二人とも、教団の指示に金で従っている傭兵だ ―― 立場は仕事、忠誠心は札束の厚みだけ。誠意は金。
「あの、次の指示は?」覆面が平坦に訊く。
フード男は腕時計を見やり、時間を噛みしめるように答える。
「待機だ。雑魚には理解できないんだろうが、牛島純一は規格外だ。ヤツを正面から討てる奴などいない。...やりづらいな、不自由だ。」
覆面は短く頷く。情報と金が仕事を回す世界。計画はいつも冷徹である。
「じゃ、どうするんです?」
「別の方法を考えるしかないな。
まぁ、どの道ヒカリを捕獲する。それが俺達の目的だろ?」
答えは簡潔だ。目的があるから手段がある。二人の視線は窓外の灰色の東京へと流れ、通りを行き交うシルエットをなぞる。
リーダーであるフード男の目が遠くを射抜く。小さな笑みが滲んだようで、すぐ消えた。
「全てを利用し、この世の王になる。それが、俺の天命。」
バンは静かに動き出す。テールライトが赤い点のように夜へ溶け、影が街に溶け込む。カメラはゆっくりと引いていき、二人の背中をフレームに残したまま画面が暗転する。
────
訳あって入院していたヒカリ。
仕事終わりの夕、なんとなく。
灯るいつもの店へと足を運んだ。
「...ヒカリくん!」
イヴが明るい声で迎えてくれた。しかし、すぐに探るような視線をじーっとヒカリに向ける。
「名探偵イヴちゃんの目は誤魔化せませんぞ!...最近来なかったけど、何かあったの?」
「はっはははっ、ははっ、なんもねぇよ……元気100倍」
ヒカリは笑った――口先だけの笑みで、心の奥のざわめきを隠すように。
イヴはしばらくヒカリの顔を見つめていたが、それ以上は追及せず、ふっと表情を和らげた。
「……じゃあさ、明日、遊びに行こっか」
「え?」
「ダメ? 明日、空いてるでしょ?」
突然の誘いに、ヒカリは一瞬口元を歪め、軽く笑った。
「へっ……別に、どうってことない。大丈夫」
「じゃあ決まり!楽しみにしてるからね〜」
イヴの笑顔を見て、ヒカリの胸が不意に高鳴る。
その夜。
休日の空は暗雲に覆われ、雨が降り注いでいた。
ヒカリは碇の家で、薄暗い天井をぼんやり見上げ、頭の後ろで手を組む。イヴの言葉を何度も反芻しながら。
碇の家にいる理由は簡単だ。今日は碇とホラーゲームをするつもりだから。
「遊びに行こっか……」
言葉が胸の奥で弾けた。心臓が急に早鐘を打ち、体がふっと軽くなる。部屋にいることが耐えられなくなり、ヒカリは傘も持たずに戸を開け放った。
「おい、ヒカリ、ご飯ができ……あれ?」
廊下に残った碇の声は途中で途切れ、雨の音がそれを飲み込む。ヒカリは止まらなかった。
雨に濡れながら、繁華街を歩く。まだ人通りは多い。傘をさした人々が行き交っている。
「はは……ははは!俺は自由だ!」
嬉しさのあまり、自然と体が動き出す。抑えきれない感情が溢れ出す。
雨の中、ヒカリは踊り始めた。
ステップを踏み、腕を広げ、くるくると回る。人混みの中で、ただ一人、雨に打たれながら。
「明日が……楽しみだ!」
周囲の視線が集まる。
「……なに、あの人」
「雨の中で踊ってるよ……」
「ヤバくない?」
「関わらない方がいいって……」
「俺ダンサーだけどなんだアレ!?」
奇怪なものを見るような目。ヒソヒソと交わされる陰口。
しかしヒカリは気にしない。いや、気にする余裕もないほど、心が浮かれていた。
やがて人混みを抜け、静かな裏通りへと足を踏み入れる。
人の気配がなくなった路地裏。街灯の明かりだけが雨に濡れた地面を照らしている。
「あ?」
ダンボール箱の横に、小さな影が見えた。
近づいてみると、そこには雨に濡れた子猫がいた。
「にゃあ……」
か細い鳴き声。ダンボール箱には誰かが捨てた傘が一本入っていた。
ヒカリは傘を取り出すと、それを開いて子猫の近くに立てかけた。
「これで、少しは濡れねえだろ?よかったな。」
子猫は傘の下に潜り込み、安心したように丸くなる。
ヒカリは自分が雨に濡れていることなど気にせず、その場を後にした。




