ずうっと一緒の世界で
帰ると、碇はもうビールを飲んでいた。
缶の底を軽く叩きながら、どこか遠くを見ている。
「急に出るなよ。びっくりしただろ」
ヒカリは靴を脱ぎながら、短く言う。
「……悪い」
食卓には冷めたご飯。
湯気の消えた味噌汁が、夜の温度に馴染んでいた。
「早く食えよ」
「わかった」
箸の音だけが響く。
その沈黙を破るように、ヒカリがぽつりと口を開いた。
「そういえば、おまえ、好き嫌いねえの?」
碇は少しだけ笑って、
「あるよ。性格の悪い女」
とだけ答えた。
ヒカリはその笑い方に何かを感じ取った。
言葉が喉の奥まで来て、そこで止まった。
箸の先で白飯を崩しながら、何も言わずに飲み込む。
外で風が吹いた。
カーテンがゆっくりと揺れて、
誰も見ない夜の匂いが、部屋に流れ込んだ。
─────
翌日。
ショッピングモール。
薄暗いモールの通路を抜けると、映画館のロビーはガラス張りの大窓を通して、公園の緑を淡く見下ろせた。吹き抜けの高い天井に、微かに反響する足音。売店の小さな明かりが、ポップコーンの袋やカップを静かに浮かび上がらせている。
イヴはチケットを手にして、静かに立っていた。ヒカリは無意識にその横顔を追う。
髪の先に夕暮れの光がかすかにのり、微かに赤みを帯びて見えた。そのささやかな光の変化が、まるで彼女の心の奥をそっと映すかのようで、ヒカリは目を離せずにいた。
「ふふ、ちょうど真ん中の席取れたね。」イヴは軽く微笑み、チケットを握った手を小さく動かした。
ヒカリは少し顔を赤らめた。口元を固く引き結び、視線をわずかに逸らす。唇から出た言葉は短く、かすかに震えていた。
「……隣なら、どこでも良いぜ」
その声の余韻が胸の奥でひそやかに暴れ、熱を帯びる。しかしイヴは何も変わった様子もなく、ただ静かにこちらを見ている。ヒカリはそれを知りながらも、言葉を飾ることも、感情を制御することもせず、自分の内にだけ燃えるものを抱え込む。
売店でポップコーンのLサイズをひとつ買い、二人で分け合う。ヒカリは一粒口に入れ、イヴの横顔をちらりと見てまた少し笑った。香ばしさとほんのり塩気の残るその味が、彼の胸にじんわり広がる。
チケットを胸に押し当て、二人は館内の暗がりへと足を踏み入れた。入場口を押し開けると、スクリーンの白い光が客席の傾斜に沿って淡く揺れ、革張りのシートの輪郭をかすかに浮かび上がらせる。
座席は前後に余裕があり、視界はさえぎられず、二人だけの小さな世界をひそやかに包んでいた。
ヒカリはそっとイヴの隣に腰を下ろした。ポップコーンをつまむ手を止め、再び横顔に目をやる。息づかいの微かな揺れ、スクリーンの光がゆらぐ様子、館内に静かに満ちる音――すべてが胸の奥で微かに波打ち、言葉にならぬ感情として積もるのをやめない。
「もうすぐ、始まるね」
イヴは声を潜め、しっとりとした調子で呟いた。
スクリーンには予告が映り始め、長い予告が淡々と過ぎていく。二人はほとんど言葉を交わさず、暗がりに沈み込み、光の揺らぎをただ見つめていた。
ヒカリは手元のポップコーンを弄る。音と光と沈黙が入り混じり、胸の奥で微かに、確かに震えた。
しかし、上映開始から1時間ほど経った頃——
「……ん……」
ヒカリの瞼が鉛のように重くなってくる。途中で飽きてしまったのか、睡魔が襲いかかった。
「……すぅ……」
ヒカリの頭は、コクリ、コクリとひそかに前後に揺れる。
「……ちょっと、ヒカリくん」
ツン、ツン、ツンツン。
隣に座るイヴの指先が、そっと彼の頬をつつく。小さな衝撃が暗がりの中に静かに広がる。
「うっわ!」
ハッと目を覚ますヒカリ。周囲の観客に迷惑をかけぬよう、声を潜めて言い訳する。
「ご、ごめんなさい……少し眠くなった……」
イヴはクスクスと笑い、再びスクリーンに視線を戻した。
「正直ね。そういうの、嫌いじゃないよ。」
ヒカリは胸の奥で動く何かを確かに感じながら、黙ってスクリーンの光に目を落とす。暗がりの中、光と影、観客のざわめきとスクリーンの音が混ざり合い、沈黙の一瞬が二人だけの空間をゆっくりと包んでいた。
映画が終わり、二人はショッピングモール内を歩いている。
「さて、お腹空いたね。どこで食べる?」
イヴが尋ねる。
「ご飯?どこでも良いだろ?目の前にあるヴェスパーってパスタ屋で良くね?」
ヒカリが軽く答えると、イヴは立ち止まり、真剣な表情で振り返った。
「ヒカリくん!」
「え?」
突然の真面目な声に、ヒカリは戸惑う。
「人が一生で食べられる数は決まってるんだよ」
「え?」
「全ての食事は美味しく幸福でなきゃダメだよ!」
イヴは力強く言い切った。
「だから、『どこでも良い』なんて言っちゃ駄目よ。ちゃんと選ばなきゃ……あと、そこのパスタ屋はやめよ。名前が嫌。」
イヴの真剣な眼差しを受け、ヒカリは思わず肩の力を抜き、わずかに笑みを浮かべる。
「わかった、わかった。じゃあ、イヴの好きなところに行こう」
「うん。じゃあ、勝手気まま食堂に行こう。美味しいローストビーフが食べられる店なんだよ」
ヒカリの胸の奥で、軽やかに何かが弾ける。声には出さずとも、イヴの小さなこだわりや熱意に触れるたび、心はひそかにくすぐられるのだった。
────
ローストビーフ専門店「勝手気まま食堂」。落ち着いた雰囲気の店内で、二人は向かい合って腰を下ろした。
「いただきます」
声を揃えるようにして、小さく息を呑む。
ローストビーフが皿に置かれると、肉の照りと湯気が淡く光に映えた。ヒカリはナイフを手に取り、一切れを慎重に切り分ける。イヴは柔らかく笑い、フォークを手に取った。
口に運ぶ瞬間の香り、咀嚼の感触、静かに流れる店内の音――すべてが互いの存在を意識させる。言葉は少なくとも、目線や息づかいが静かに交差し、二人だけの世界が確かに存在した。
「で、映画どうだった?」
イヴが尋ねる。
「うーん、悪くねぇな。途中寝ちゃったけど」
「途中じゃなくて、結構長い時間寝てたよ?」
「マジ?ごめん……なさい。」
「ふふ、いいよ。私は結構面白かったな!眠る暇がないくらい、熱中したもん。特にラストのどんでん返し」
「あー、あそこね。確かにあれは予想外だった」
ローストビーフを食べながら、映画の感想を交換し合う。イヴは熱心にストーリーの解釈について語り、ヒカリはそれに頷きながら相槌を打つ。
「ヒカリくんはああいう展開、好き?」
「あんま、わかんねーけど。意外性があって良かった。ただもうちょっと伏線?がありゃ100点だな。」
「そうかなぁ。私はあのくらい唐突な方が衝撃があって好きだけど。あ、そういえば007の『スカイフォール』もそうだったよね。賛否あったけど、私は好きだな」
「007?それが好きなのか?」
「うん、大好き。ジェームズ・ボンドシリーズは全部観てるよ」
イヴは少し照れくさそうに笑う。
「あとスポーツ観戦も好きなんだ。特に柔道とか」
「へー。インドアってヤツかと思ってた」
「...観るのが好きなの。自分でやるのは…まぁ、昔少しやってたけどね」
意見を交換しながら、楽しい食事の時間が過ぎていった。
────
食事を終えた後は、ショッピングモール内の様々な店を巡る。
服屋、雑貨店、アクセサリーショップ——
「ねぇ、これどう思う?」
イヴが服を合わせて見せる。
「似合ってんな。かわいい。」
「じゃあ買っちゃおうかな?」
気に入った服を次々と購入していくイヴ。その荷物を持つのは、もちろん——
「本当に良いの?無理しないでね。」
「……」
ヒカリの両手には、いつの間にかたくさんのショッピングバッグが。
「重いよね。ありがとうね...」
「大丈夫……」
両手が完全に塞がった状態で、イヴの後をついていくヒカリ。
そんな時、目の前に可愛らしいクレープ屋が現れた。
「わぁ、凄く美味しそう……」
イヴが目を輝かせながら、ショーケースを覗き込む。
「もし、食べたいなら...買ってくるから。」
ヒカリが言うと、イヴは首を横に振った。
「ううん、私が行く。だって...両手塞がってるじゃない。ヒカリくんはここで待ってよ」
「あ、そう?じゃあお願いしますわ。」
荷物を抱えたまま、ヒカリはその場で待つ。
数分後、イヴが戻ってきた。
「お待たせ」
「おう。……あれ、二つ?」
イヴの両手には、クレープが一つずつ。
「ふふん、サービス、サービス」
得意げな笑顔を浮かべるイヴ。
「え?」
ヒカリが首を傾げると、イヴは説明し始めた。
「1つくださいって言ったの。そしたら、店主さんがどうぞって」
「はぁ……あっ」
(なるほどなー、頭いーな)
イヴの愛想の良さに、店主が気に入ってオマケしてくれたのだろう。ヒカリは納得した表情で頷く。
あーむ
両手にクレープを持ったイヴが、一つをパクッと食べる。
「……あの」
「む?何みてるのさ。」
「両手……食べらんねぇんだけど」
ヒカリは両手に荷物を抱えたまま、じっとイヴを見つ続ける。
「あら……食べなきゃいいじゃん」
「えぇー、そりゃねぇよ」
「嘘。食べさせてあげるね」
イヴはクスッと笑うと、クレープをヒカリの口元に近づけた。
「はい、あ〜ん。」
ヒカリは素直に口を開ける。
パクッ
「うん、美味しい」
……が、イヴは自分で食べていた。
「え〜、そりゃねぇぜ大将。」
「はいはい、あーん」
再び口元に近づけられるクレープ。
パクッ
またイヴが食べる。
「……ワザとだろ」
「え?まっさかぁ。タベサセテアゲルノ、テムズカシイナ。」
とぼけた顔で、イヴはニヤニヤと笑っている。
「はい、あーん」
三度目。今度こそ——
パクッ
「へっ?」
ヒカリは驚いた表情を浮かべる。もらえないと思っていたからだ。
「はい、美味しいね、美味しい」
イヴは満足そうに微笑んだ。
ヒカリも、少し照れくさそうに頷く。
両手に荷物を抱えたまま、二人はクレープを分け合いながら、ショッピングモールの通路をゆっくりと歩いていった。
昨夜の雨の記憶。今日の幸せな時間。
全ての出来事がヒカリの心に温かくじんわり、染み込んでいく。




