愛
螺座路御苑、正門前。
ヒカリ、碇、ヒルメ、リリスの四人が集まった。
「みんな、揃ったわね」
リリスが微笑む。
今日のリリスは私服だった。
白いブラウスはほどよく体に沿い、肩のラインがきれいに見える。
黒いロングスカートは落ち着いた素材で、歩くたびに静かに揺れる。
藍色の髪は肩にかかり、背中のほうへ自然に流れている。
風が吹くと、髪がわずかに揺れ、光を受けて柔らかく輝いた。
控えめなイヤリングと、シンプルな革のバッグが彼女の落ち着きと知性を引き立てる。
普段のリリスとは少し違って、柔らかく、やさしい印象だ。
そばにいると、なぜか安心する。
「じゃあ、入りましょう」
リリスが歩き出す。
その歩き方が、ゆっくりとしている。
だが、優雅だ。
まるで、この世界のすべてを受け入れているかのような。
一歩一歩が、計算されているようでいて、自然。
スカートの裾が、風に揺れる。
その揺れ方が、妖艶だ。
四人は、御苑に入る。
午後3時15分。
新宿御苑の中。
緑が広がっている。
広大な芝生が、どこまでも続いている。
木々が、太陽の光を浴びて輝いている。
欅、楓、桜の木。
それぞれが、異なる影を落としている。
花が咲いている。
赤、黄色、ピンク。
色とりどりの花。
バラ、菊、コスモス。
秋の花々が、御苑を彩っている。
「綺麗ですね」
ヒルメが呟く。
「ええ」
リリスが頷く。
その頷き方が、ゆっくりとしている。
まるで、時間が流れるのを楽しんでいるかのよう。
首の動きが、しなやか。
白い首筋が、光を反射する。
「植物は、正直で好きよ」
リリスが花壇に近づく。
膝を折り、しゃがむ。
スカートが広がる。
黒い布が、地面に触れる。
その姿が、絵画のよう。
「正直?」
ヒルメが首を傾げる。
「ええ。嘘をつかない。水をあげれば育つ。日光を当てれば咲く。シンプルで、美しいね」
リリスが花に触れる。
その手が、優しい。
細い指が、花びらを撫でる。
まるで、子供に触れるように。
爪の先まで、丁寧に手入れされている。
その手の動きが、滑らか。
「...人間は、もっと複雑ね」
リリスが立ち上がる。
ゆっくりと。
その動作が、流れるよう。
腰から、胸へ、肩へ。
身体のラインが、曲線を描く。
美しい曲線。
「隠して、演じて、騙し合う」
リリスが微笑む。
その微笑みが、悲しげだ。
だが、それでいて温かい。
唇が、柔らかく弧を描く。
「リリスさん…」
ヒルメが、リリスを見る。
「でも、それが人間よ」
リリスが続ける。
「不完全で、傷ついて、それでも生きようとする」
リリスが空を見上げる。
その横顔が、美しい。
鼻筋が通っている。
睫毛が長い。
肌が白い。
まるで、陶器のよう。
「だから、愛おしいのかな」
その言葉が、心に染み込む。
リリスの声が、低く、優しい。
まるで、子守唄のよう。
ヒカリは、少し離れた場所から、リリスを見ていた。
リリスの横顔。
その表情。
優しさに満ちている。
まるで、すべてを受け入れているかのような。
リリスが動くたびに、髪が揺れる。
スカートが揺れる。
その動きが、ヒカリの目を捉える。
「…」
ヒカリの胸が、熱くなる。
何だ、これ。
何でだろう。
リリスさんを見てると、胸が苦しくなる。
それでいて、温かくなる。
心臓が、早く打つ。
手の平に、汗が滲む。
「オレはあの人が…」
ヒカリが呟く。
碇が、ヒカリを見る。
「ん?...好きなのか?」
「え?いや、ちが、ちげぇ、いや、そんなんじゃ…」
ヒカリが慌てる。
「でも…なんか、見てると落ち着くんだよな」
「落ち着く?」
「ああ。なんだろな…包まれてる感じ?」
ヒカリが頭を掻く。
「まるで、母親みてぇな」
その言葉が、自然と出た。
母親。
ヒカリには、母親がいない。
物心ついた時から、いなかった。
父親も、ほとんど家にいなかった。
居た時も、殴るだけ。
だから、ヒカリは、いつも一人....だった。
孤独だった。
誰にも愛されて...いない。
そんな感覚が、いつもあった。
だが、リリスを見ていると。
その孤独が、少し和らぐ。
まるで、受け入れられているような。
愛されているような。
「…変だな、オレ。馬鹿だな。」
ヒカリが苦笑する。
その時。
ルシファーが囁く。
『ヒカリ』
「ん?」
『キミは、どう思う?』
「どうって?」
『あの女について』
「リリスさん?」
ヒカリが、リリスを見る。
リリスは、花を見ていた。
優しい顔をしている。
『お前が、どう感じるかだ。私は何も言わない』
「…オレは」
ヒカリが、考える。
リリスさんは、優しい。
温かい。
オレを受け入れてくれる。
まるで、母親のように。
「…わかんねー。まだ。ただ、良い人だろ?」
ヒカリが、小さく言う。
「そうね」
静かに答えた。
「なら、それでいい」
「本当に、いいのか?」
「ああ」
ヒカリの目をじっと見つめる。力は、相手が自ら選ぶ瞬間にも宿る。自由とは、単に鎖を断ち切ることではない。他者の自由を尊重し、助け、共に生きることで初めて成立するものだ。
「私は、見ているだけにする。キミが決めるんだよ。」
その言葉には、他者の自由を否定する者には、自分も自由でいられないという重みがあった。逆に、他者の自由を選び、守るなら――その瞬間、力は揺るぎないものになる。
「これが正しい…」
ルシファーは小さく頷く。その瞳には、迷いと同時に確かな意思の光が宿っていた。
リリスが、こちらを向く。
その瞬間、空気がひときわ澄んだ。
彼女の瞳が、ヒカリを捉える。
ヘーゼルの光――金と緑が揺らめき、まるで朝露の中に太陽を閉じ込めたようだった。
見つめるほどに、世界が静まっていく。
風の音も、遠くの鳥の声も、すべてがその瞳に吸い込まれていく。
ヒカリはただ、立ち尽くした。
それは人の目ではなかった。
光そのものが、意志をもってこちらを見ているようだった。
「ヒカリくん」
リリスが微笑んだ。
その笑みは、陽だまりのように柔らかく、どこか無防備だった。
唇がゆっくりと開き、白い歯がこぼれる。
飾り気のない仕草なのに、美しさがあった。
「……はい」
ヒカリの声が、かすかに裏返る。
「一緒に歩きましょう」
リリスが手を差し出した。
白く細い指。淡いピンクに塗られた爪が、午後の光を受けて微かに透ける。
ヒカリはその隣に並んだ。
ふたりは、御苑の細い小径を歩く。
踏みしめるたびに、音がさらりと鳴る。
リリスの香りが、ふと風に乗って届く。
花のようで、少し甘い。
けれど強すぎず、静かな香りだ。
バニラのようでもあり、ジャスミンのようでもある。
ヒカリは深く息を吸った。
その香りが胸の奥に沁みて、なぜか懐かしい気がした。
隣を歩くリリスの横顔が、光を受けて柔らかく揺れている。
それだけで、残酷な世界が少し美しく見えた。
「ヒカリくんは、お母さんがいないのよね」
リリスが、静かに言う。
その声が、耳元で響く。
「…はい」
ヒカリが頷く。
「寂しかったでしょう」
リリスの声が、優しい。
まるで、心の奥まで見透かしているような。
「…別に、そんな事ありませんよ。」
ヒカリが、そっけなく答える。
だが、その声は、少し震えている。
リリスが、立ち止まる。
ヒカリを見る。
その目が、深い。
まるで、すべてを見透かしているような。
瞳がヒカリを映していた。
「慣れる必要なんて、ないのよ」
リリスはそう言い、彼の頭に手を置いた。
その掌は、驚くほど温かかった。
春の陽だまりのような、いや、それ以上に人の心をほどく温度。
指先が髪を梳くたびに、ヒカリの思考は白く溶けていった。
「寂しい時は、寂しいと言っていいの」
「辛い時は、辛いと言っていいの」
その声は、まるで祈りのようだった。
彼女の胸が彼の頬に触れた。
柔らかく、甘く、そしてどこか死に似た静けさを孕んでいた。
リリスは彼を抱きしめた。
上から下へ、背を撫でる手の動き。
その緩やかさが、世界の時を止める。
「あなたは、一人じゃないの」
ヒカリの胸が熱くなる。涙が滲む。
だが彼は泣かなかった。
涙を流すことが、いま、この奇跡を汚すように思えた。
「リリスさん……」
震える声が、彼の中の子供を呼び戻す。
「大丈夫よ」
その一言が、すべてを赦した。
――愛されている。
その感覚が、彼の全身を包んだ。
今まで誰からも与えられなかったもの。
それが、いま、確かにあった。
「……ありがとうございます」
ヒカリが小さく呟く。
リリスは微笑んだ。
その微笑みは聖母を思わせたが、どこかで、より深く、美しいものに近かった。
まるで、朝日のような光。
優しく、残酷なまでに清らかな、愛の光だった。
ヒカリには似つかわしくない光。
───
オレは思った。
リリスさんは、すげぇ。
聖母みてぇだ。
あの人は...オレみたいな、カスみたいな人間でも──
受け入れてくれる。
血に汚れた手でも、握ってくれる。
愛してくれる。
そんな人、見たことねぇ。
胸が熱くなる。息が少し荒い。
涙が滲む。出そうになる。
だが、堪える。泣くのは何か違うと思う。オレは泣かねぇ。
それでも、この温かさは消えない。
忘れられる気がしない。
とっても、きれいな気がした。
────
碇とヒルメは、少し離れた場所で、二人を見つめていた。
「……強がってはいるが、ヒカリは孤独を恐れている」
碇が呟く。
「...はい」
ヒルメが頷く。
「リリスさんって、不思議な人ですね」
「ああ」
碇が同意する。
「まるで、愛そのものを信仰しているみたいだ」
「そうですね、皆さんを、愛してらっしゃいます。」
ヒルメが続ける。
「無償の愛」
その言葉が、二人の胸に響く。




