灰色の先は
ヒカリは――意識を失った。
三日後、午後二時十五分。
白い天井は低く、光が刃のように降り注いでいた。
ヒカリはゆっくり目を開ける。胸が鉛のように重く、全身が痛む。シーツが肌に触れるたび、体のどこかが叫ぶ。
「ここは…どこだ?」
「...目が覚めたか」
横から声。振り返ると、牛島が椅子に腰掛けていた。スーツの皺はきれいに整い、背筋は冷たく張りつめている。枕元の書類には「公安調査庁 本庁」とあり、その下には細く「東京都千代田区霞が関一丁目一番一号」と印刷されていた。
牛島は短く頷き、淡々と続ける。
「よく寝ていたな…三日間も」
「三日間? 冗談だろ…」
声が砂利のようにかすれ、喉の渇きで言葉が割れる。
「キミが三日間眠っていた間、再び徹底的に検査された。本部の指示によるものだ。驚異的な回復力だな。肉体疲労はあるが、外傷も内傷もない。」
ヒカリは拳を見る。皮膚はきれいだ。しかし手のひらは熱く、親指の先には小さなかさぶた。握ると、腕の奥で勝手に何かが動く。──ここに俺がいる。確かな感覚だけが残る。
思い出せない。どこで何が起きたのか、頭の中は断片で埋め尽くされている。言葉はつながらない。だが一つだけ──体の奥で何かが蠢く感覚が、冷たい確信となって喉を詰まらせた
「あー、もう…」
ヒカリは力を込めて体を起こした。全身が軋むように痛んだ。筋が張り、骨の奥まで疼く。
「無理するな」
「平気だっての。」
牛島が椅子に沈む。影が壁に伸びる。光が硬く鋭く差し込む。
「で、他んとこは?」
「壊滅だ」
牛島の声は重く、事実を淡々と告げる。
「聖桜教団は、主力が留守のときを狙った。田中美咲が情報を流したからな。」
「田中か…」
「ああ。家族を人質に取られて、強制されてのことだ。...だが、爆発で死んだ」
「そっか。せっかく美人だったのにな。残念だな」
「神性事案対策部が狙われた。望月、斎藤、他、多くの人命が失われた。」
しばらく沈黙が続く。
「...話を続けるぞ。碇は入院中であった為、無事だ。ヒルメも碇の見舞いに行っていたからな。」
「...で、敵はアレだろ。」
「...敵は聖桜教団だ」
ヒカリは、足りない頭を必死に働かせた。
眠りの間に思考は整理され、次に何をすべきかはおのずと見えていた。
だが体はまだ鉛のように重く、痛みは消えなかった。
――ヒカリは、考えるのをやめた。
死者を悼む暇など、もはや彼には残されていなかった。
牛島は資料を開く。紙の擦れる音だけが、静寂を裂く。
「あんたも紙か?」
「紙は情報流出の危険がないからな」
牛島は視線を資料に戻す。
「表向きは宗教法人だ。黎明党とも深い関係にある」
「なんだそりゃ」
「二重構造だ。表では聖桜教団が宗教法人として活動し、黎明党が政治的に動く。裏では武装集団を雇い、非合法な作戦を実行している。」
「スローガンは、『日本人の手に国を取り戻せ』『神に頼らぬ国』
──言葉はきれいだ。だが要するに、神と契約した者を蔑み、国が神を利用する体制そのものを敵視してる。
自分たちを唯一の正しさと見なす──ある者はそれを『純人教』と呼ぶ。人間崇拝、人間讃歌。聞こえはいい、現実は汚い。」
「めんどくせェな」
「ああ。だが、それゆえに危険だ」 牛島が続ける。
「彼らの資金源は、クラウドファンディング、暗号通貨、フロント企業。募集はSNS、クローズドDiscord、匿名掲示板。表向きは『伝統保存』『地域復興』『ジャパンファースト』を掲げて、若者を勧誘してる。」
「...やっかいだな」
「あのフードの男は?」
「詳細は不明だ。分かるのは、合一者であることぐらいか。」
牛島が続ける。
「お前と同じように、神と合一した存在だ」
「…」
「しかし、ヤツの合一条件については分からない」
牛島が資料を閉じる。
「神と合一した例は、おそらくない。だから、研究が進んでいない」
「そうなんすか」
「ああ。お前がどうやって合一したのかも、完全には解明されていない。」
牛島が続ける。
「リリスの推測では、死の意識が関係しているらしいが、確証はない」
「…」
ヒカリは黙る。
あのフードの男が言っていた。
変身のトリガーは、自分が描く死ぬ瞬間をイメージすることだと。
ヒカリも同じだ。
死ぬ瞬間を正確にイメージすることで、変身する。
「もしかしたら、死ぬ瞬間を正確にイメージすることで──変身するんじゃねぇか?」
「それは本当か?」
「アイツがそう言ってた」
牛島は眉一つ動かさず、書類の端を押さえた。沈黙が短く流れる。
「……そうか。分かった。貴重な情報だ」
しばしの空白。空調の低い唸りだけが二人の間を漂う。
「ヒカリ、お前は戦うか?」牛島が静かに問うた。
「戦うって?」ヒカリは素で返す。声があまりにも冷たい。
「聖桜教団とだ」牛島は続ける。「彼らはお前を狙ってくる。研究材料として、全ての神を葬るために利用するつもりだ。共存なんて考えていない。」
ヒカリは考える。
戦う?逃げる?
望月の顔が浮かぶ。斎藤の顔が浮かぶ。
...田中の顔が浮かぶ。
人の愛。
それを奪われた。
「...戦う」
ヒカリが答える。
「俺はなァ、ずっと戦ってんだ。テメェらの自由守るためによォ。」
ヒカリは拳を握る。
「望月さんと斎藤....田中は、自由を奪われた。生きる自由を」
「…そうか」
牛島が頷く。
「お前に稽古をつける。俺直々にな。次は、負けるな」
「ああ」
牛島が立ち上がる。
「お前は強くならなければならない。あのフードの男に勝てるくらいに」
「分かった」
牛島が去った後、扉の閉まる音が遠くで消えた。
病室には、静かな呼吸音だけが残る。
ヒカリは天井を見つめたまま、動けずにいた。
白い光が滲み、世界がやけに優しく見える。
──望月さん。
あの人の顔が浮かぶ。
笑っていた。いつもみたいに。
胸がなんか痛い。
こんな感覚、知らなかった。
痛いのに、温かい。息が詰まるのに、少しだけ安心する。
……きっと、これが“悲しみ、優しさ”なんだろうか?
結局、俺には優しさなのか。悲しみなのか。
よく分からない。
だが、一つだけ分かることがある。
「許さねぇ」
ヒカリは拳を握る。
「聖桜教団、ぶっ潰してやるよ」
「あのフードの野郎も」
ヒカリは呟く。
怒りが、少しだけ体を満たす。
復讐ではない。
ただ、意味のわからない奴らが人の自由を奪った理不尽が許せない。
自由。
それを奪った理不尽が。
「クソゴミ野郎が...アイツらみたいなカスを倒すために俺は...いるんだ!」
ヒカリは天井を睨む。
「みんな、一生懸命やってんだよ」
ルシファーが静かに言う。
『ヒカリ』
「なんだ?」
『キミは正しい』
「当たり前だろ」
『自由を求める者。自由を守る者。それがキミだ』
「…ああ」
『その道を歩め、ヒカリ』
「分かってる」
東京の空。
それは灰色。
だが、その向こうに温かい光がきっとある。
「リベンジ...」
ヒカリは呟く。




