絶望の合一者
男が動く。
速い。
ヒカリが反応する前に、男の拳が顔面にめり込んだ。
プチュッ。
頬骨の奥で何かが潰れ、血が霧になって飛ぶ。
ヒカリは吹っ飛び、壁に叩きつけられた。
ドガンッ。
崩れたコンクリ片が雨のように降る。
立ち上がる間もなく、男がすでに目の前にいた。
腹に蹴り。
グチュッ――鈍い破裂音。
内臓が悲鳴をあげる。
「がはッ!カヒュ...」
喉の奥から血泡が弾ける。
ヒカリは地面を転がり、アスファルトに赤を塗りつけた。
「ヒカリ! 無事か!」
斎藤が叫び、銃が三つの声を吐いた。
タンッ、タンッ、タンッ――。
しかし男の体は、その”声”がまだ空気に溶ける以前にひねられていた。骨が軋むような角度。人にできる所業じゃない。
銃弾は頬を撫でるように通り過ぎ、鎧のような皮膚に熱い摩擦痕を刻んだ。火薬の匂いが鼻腔を刺し、時間は遅れて世界に追いついてきた。
轟音が落ち、振動が遅れて身体を揺らすとき、紙一重の線だけが残されていた。
男はもう、疾風の如く、別の位置に立っていた。まるで因縁が折り畳まれ、次のページがめくられたかのように──静かに、しかし確かに事は終わっていた...
「残念...」
男は斎藤へ向き直る。足取りは静かだが確実だ。
「ッ、させねェ!」
ヒカリが立ち上がり突進する。拳を振るう。
だが男は沈み込むように距離を詰め、ヒカリの右腕を捉えて懐に入った。片手で襟元、もう片手で袖を引き、腰を深く入れる。重心が一瞬で移り、ヒカリの体重が男の腰へ乗る。
「全力か?」──男の声が耳元を撫でる。
そのまま、力を一点に集めて大外刈りを放った。男の刈足がヒカリの脚を払う。ヒカリの体が滑るように宙を描く──がっちりと密着したまま、男は投げきる。
ドガァン!
着地の衝撃が床を伝わり、周囲の建物までもがわずかに揺れた。粉塵が空気を霞ませ、ヒカリは息を切らしながら床に崩れ落ちる。喉の奥からかすかな声──
「ごぉぶッ……!」
男は微動だにせず見下ろす。
「痛いか……」
冷たく響く声。
「合一してるくせに、その程度か。」
ヒカリは体を瞬時に再生し、なんとか立ち上がる。だが全身に重さが残り、動きは鈍い。
「くそっ……なぁ! 今の投げ、反則だろ! ルール守れよ!」
顔を歪め、拳を震わせながら続ける。
「ルール破りのクソ野郎め……テメェみたいな違反野郎を逮捕するのが、俺の仕事なんだゼ‼︎」
少し間を置き、息を整えたヒカリが、僅かに笑みを浮かべて呟く。
「ただ、テメェが強いのも確かだな……」
「当然だ」
男が答える。
「俺はなぁ、マガツの力を完全に支配してる。」
「支配だぁ?」
「そうだ。マガツの意思はほとんどない。俺の自我が強かったからな。」
男が続ける。
「...お前は違う。ソイツと対等な関係だろ?」
「…そうなるな」
ヒカリの中で、ルシファーの声が響く。
『ヒカリ──』
「なんだよ」
『私は縛られたくない。”自由”が欲しいんだ。...こんなイかれた集団に捕まって、夢半ばで死ぬのはごめんだ。キミも嫌だろ?』
「そら、そうよ」
『なら、戦え。対話してる暇はないぞ』
「分かってら」
ヒカリの意志とルシファーの声が、瞬間的にひとつに重なる。息が詰まるほどの緊張の中、彼の体は自然と動き始めた。
ヒカリは拳をぎゅっと握り締めた。
掌の奥で、微かに炎が宿る。
ルシファーの力だ──確かな熱を帯びて。
「行くぞォ!」
ヒカリが突進し、拳を振り抜く。
だが男は体をひねり、拳をかわす。素早くヒカリの腕を掴む。
引き手──男の手がヒカリの腕を引き、重心を崩す。
そのまま、背負い投げ。
腰を深く落とし、ヒカリの体を背中に乗せる。男の足がバネのように弾み、力を前方に伝える。宙を描くヒカリの体が、地面へと叩きつけられる。
──ドガァン‼︎‼︎
ヒカリが絶叫する。
「アギャッ!」
「まだだ」
男はヒカリの腕を掴んだまま、関節技へ移行する。
腕挫十字固め──男の両足がヒカリの腕を挟み、腰を持ち上げる。関節は逆方向に曲がり、ミシッミシッと嫌な音が響いた。
「がっ!」
「諦めろ。無駄だ。」
「黙れァ!」
ヒカリは拳に力を込め、体中から光が溢れ出す。
その力で男の拘束を引きちぎる。
バキッ!
逆方向に曲がった腕が元の位置に戻り、空気が震えた。
「...底抜けだな。」
男が静かに離れる。
ヒカリはゆっくりと立ち上がる。腕に激しい痛みが走る。骨が折れている──だが、神と合一した者は、死んでも蘇る。傷は再生し、痛みは次第に薄れる。
男もまた、同じ力を宿していた。
その瞬間──空気が張り詰め、世界が一拍遅れて静止したかのように感じられた。
一瞬の動きで、男は斎藤に迫る。
「楽な方から片付ける。」
瞬間、斎藤の首を掴む。力は凄まじく、逃れる余地はない。
「ぐっ…」
「そうだよ..コレ、コレ」
男が斎藤を壁に叩きつけた。
ドガァァン!
壁が崩れ、粉塵が舞う。
斎藤は動かない。頭から血が流れ、眼鏡は粉々に割れていた。
瞳孔が開き、目は開いたまま──光は失われている。
死んでいる──確かに。
「マジかよ…」
ヒカリは呟く。
斎藤が...死んだ。
...そうか。
「次はお前だ。」
男が一歩詰める。距離が、刃のように鋭くなる。
「お前を殺して、連れて行く。」
「連れて行く? 何だそれ」
ヒカリが冗談混じりに返すが、声は少し震えている。
「...そうだ。研究材料として価値があるらしい。俺は金がいる。」
男の声は平坦で、ぞっとするほど現実的だ。言葉に空白はない。
そのまま、男の掌がヒカリの腕を掴む。冷たく確かな力。
「ッ、やめろ。テメェ。」
だが、力が入らない。体が動かない。
さっきのダメージが大きすぎる。
その時。
路地の入口から、足音。
速い。
そして。
「そこまでだ」
低い声。冷たいが、確かな声。
振り返ると、男が立っていた。
牛島。
スーツ姿。だが、その体から漏れる気配が異常であった。
殺気。
純粋な、研ぎ澄まされた殺気。
「何ンだよ……アンタが来てくれたのか!!」
「ヒカリ、これはどういう状況だ?」
牛島が男を見据える。その瞳は冷たく、氷のように光っていた。
「お前が……殺ったのか?」
「待て待て……誰だ?」
「警視庁公安部、神性事案対策部1課。牛島純一」
一歩、牛島が前に踏み出す。地面が軋む。
「今際の際だ。遺言はあるか?」
沈黙が落ちる──緊張が、次の瞬間を待ち構えている。




