ナショナル・ドッグ
腹が鳴る。 まるで餓鬼の断末魔だ。
懐には、あの夜に奪った重い財布がある。 中には、俺が一生かかっても稼げないほどの札束が詰まっている。
だが、使えねぇ。 こんなスラムのガキが万札を出せば、即座に袋叩きにされるか、警察に突き出されるのがオチだ。 結局、昨日もコンビニの棚を眺めるだけで終わった。 金はあるのに、何も食えない。皮肉なもんだ。
だが、俺は笑う。 腹は空いても、目は死んでいない。
「武士は食わねど高笑い」ってな。
『高楊枝じゃないか?』
頭の中でルシファーが皮肉を飛ばす。
『それに武士でもない』
「ッ...わかってるよ……」
俺は今、不法占拠した廃屋にいる。 壁は穴だらけ、天井からは雨が漏る。 あの財布は、今は畳の下に隠してある。
腐った畳を踏むと、死人の腹みたいにペコペコ沈む。 だが、俺にはここしか居場所がない。タダで眠れる、唯一の城。
別荘なんてねーよ。
────
契約してから三日。あの夜、アバラを殺してからだ。
体が変わった。音が、匂いが、世界の情報が過剰に流れ込んでくる。 力も強くなった。
だが、それでも腹は膨れない。 力なんて、結局は「飯を食うための道具」でしかないんだろうな。
『ヒカリ、誰か来る』
ルシファーが脳を叩く。
『公安だ。国家が動かないはずがない』
公安。俺みたいなゴミ溜めの住人でも、その名前の重さは知っている。 俺は咄嗟に畳の下から財布を引っ張り出し、ボロ着の内側にねじ込んだ。
――コンコン。
扉を叩く音が響く。死神のノックみたいだ。
「警察の者です。騒音の苦情が出ているのですが、お話を聞かせてもらえますか」
男の声。低くて、地獄の底から響いてくるような響き。 俺はそっとドアの隙間から覗く。二人の男女が立っていた。
一人は眼鏡の男。 スーツを着こなしているが、佇まいは刃物のように鋭い。
そして、もう一人は女だった。
女を見た瞬間、心臓が跳ねた。 今まで見てきたどんな人間とも違う。
青黒い髪を後ろでくくり、凛とした黒スーツに身を包んでいる。 スタイルも、立ち振る舞いも、スラムの空気とは無縁の美しさ。 太陽を直視したみたいに、目が眩んだ。
「開けてくれないか?」
男がまたノックする。 逃げるか? だが三階から飛び降りたところで、どこへ行ける。
それに、あの女性ともう一度言葉を交わしてみたい。 そんな衝動が、俺の足を止めた。
俺は、意を決してドアを開けた。
「あの……」
声がかすれた。
「ヒカリ君ね」
女性が微笑んだ。その一言で、張り詰めていた空気が溶ける。
「だ、誰だよ、あんたたちは」
「警視庁公安部・神性事案対策課の牛島純一だ。こちらは神崎リリス」
「寒いでしょう? 中でお話ししましょう」
リリスさんが、俺の肩にそっと手を置く。 その手の温もりに、喉がカラカラに乾いた。
「入らせてもらってもいいかしら? 立ち話では風邪をひいてしまうわ」
丁寧な物腰。俺は慌てて部屋のゴミを足で隠した。 懐に隠した「奪った金」の重みが、妙に意識に障る。 こんな惨めな姿、見られたくなかった。
「汚くて、すいません……」
「大丈夫よ。一人で頑張ってきたのね。偉いわ」
リリスさんが優しく言う。 軽蔑もしない。その眼差しに、胸の奥が熱くなった。
牛島が部屋を見回し、表情を変えた。
「実は、騒音の件ではない」
牛島がファイルを取り出す。そこには、俺の写真があった。
「三日前の夜、君は《アバラ》という神を殺害した」
心臓が止まるかと思った。
「証拠も目撃者もある。監視カメラにも映っている」
ファイルの写真は、俺が変身してアバラを殴り飛ばす瞬間だった。 逃げ場はない。
だが、リリスさんが俺の手をそっと握った。
「 でも大丈夫よ。あなたは悪くない。生きるために戦っただけだもの」
「君のような『神殺し』は貴重だ。特に神と混ざり合って意識を残している前例はない。だが、その力も無届けであれば処罰の対象になる」
『筒抜けだな』
ルシファーが笑う。
「……で、俺を捕まえるのか?」
「悪いが選択肢は二つだ。国家の犬になるか、反逆者として処分されるか」
牛島の言葉は冷たい。
「でも、協力してくれるだけでいいのよ」
リリスさんがまだ俺の手を握っている。
「協力って、何をすれば……」
「訓練を受けながら、任務に参加してもらう。」
『「保護」という名の監視か。自由とはかけ離れているな。』
ルシファーの声を聞き流し、俺はリリスさんの瞳を見つめた。
「君は神崎の指揮下に入る」
リリスさんが微笑む。
「よろしくね。私があなたを守るから」
守る。 俺みたいな奴を、この人が。
「給与は月二十万ほどか。食事と住居も支給される。」
二十万。毎日、本物の飯が食える。 奪った金なんて必要なくなるほどの、真っ当な光。
「食事も、ですか?」
「ええ。あなたは痩せすぎ。体が心配だわ」
心配。 そんな言葉、何年ぶりに聞いただろうか。
「どうする?」
牛島が問う。答えは決まっていた。
「やります」
リリスさんが嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。一緒に頑張りましょうね」
「まずはシャワーを浴びましょうか」
リリスさんが俺の頭を撫でる。 嫌な顔をせず、微笑んでいる。聖母のようだ。
────
警視庁の地下、極秘フロア。 真っ白な廊下が、果てしなく続いている。
「ここがあなたのお部屋よ。はい、鍵」
人生で初めて手にする、自分の居場所の鍵だ。
「シャワーの後、何が食べたい?」
「……なんでもいいです」
「じゃあ、ハンバーグはどう? お野菜もたくさん食べなさいね」
ハンバーグ。 テレビの中でしか見たことがない、憧れの料理。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして。これからは仲間……いえ、『家族』なんだから」
家族。 俺に、家族ができたのか。
俺はシャワー室に飛び込み、服を脱ぎ捨てた。 ボロ着のポケットから、あの財布が床に転がる。 神を殺して奪った金。だが、今の俺にはそれすら汚れた過去の一部に見えた。
鏡の中の俺は相変わらず痩せているが、皮膚の下には異様な筋肉が躍動している。
蛇口をひねると、熱いお湯が勢いよく流れ出した。 天国だ。三年間こびりついた泥が、溶けて流れていく。
リリスさんが俺を待ってくれている。
『後悔してるか?』
「するわけねぇだろ。やっと、まともに生きられるんだ。それに……初めて優しくしてくれる人がいた」
『……そうか。だが忘れるな。君はもう普通の人間ではない』
「え?」
『何でもない』
その言葉の重さを、俺はまだ知らない。 俺はただ、温かいお湯に打たれながら、新しい人生の予感に震えていた。




