死ぬ刻
路地裏。
ヒカリと斎藤は息を切らし、走った。
後ろから、足音。確実に追ってくる。
「おい、こっち来んなって!」ヒカリが叫ぶ。
「こっちだ」斎藤が角を曲がる。
ヒカリもすぐ後を追う。
蒸し暑い壁にぶつかる影が、二人の視界をかすめる。
男が立っていた。
黒い戦闘服。自動小銃を握るその影は、昼の路地の光に少し溶け込んでいた。
「見つけたぞ」
男が銃を構える。
「銃しかねーのかよ、情けねぇな」──ヒカリが舌打ちした。
そのまま突進。拳が男の顔面を打ち抜く。
ゴリッ!
男が背中から壁に吹っ飛ぶ。蒸し暑い空気の中、衝撃音が路地に跳ね返った。
「どうだよ、俺すげェだろ!」
「ああ…ただ、少し静かに」
斎藤は息を切らし、腕の傷が痛むのか顔をしかめる。
その時、ヒカリの携帯が震えた。
画面には「リリス」の名前──真夏の路地裏の熱気の中で、冷たく整った文字だけが浮かぶ。
「もしもし」
『ヒカリくん、報告します。望月くんは…』リリスの声は抑えられている。けれど、その抑え方が逆に真剣さを増していた。
「望月さんがどうしたんですか」
『増援が到着した時点で、現場で死亡が確認されました。既に…息を引き取っていました』
「あ…」
『申し訳ない。私が援軍を間に合わせられなかった。あと、今敵が――』
ヒカリは言葉を追うことができず、右から左へ話が抜けていった。
携帯を握りしめ、ただ立ち尽くす。
望月さんが...
強かった望月さんが。
死んだ。
「ヒカリ…」
斎藤が肩に手を置く。手の重みが、無言の励ましとして伝わる。
「望月は、お前を守ったんだ」
「…」
「だから、生きろ」
「…わかってる」
ヒカリは頷く。肩の力をわずかに抜き、胸の奥にチクりと痛みが残る。
また奪われるのか? 取り立てるのか? 幸せを、自由を。
その時。
路地の奥から、ゆっくりとした規則的な足音が響く。影が一歩、また一歩と近づいてくる。
夏の熱気の中で、その歩みだけが異様に冷たいリズムを刻んでいた。
現れた男は他の連中とは違った。フードを深く被り、顔は見えない。背は高く、180センチ前後だろうか。細身だが筋肉は硬く、無駄のない線を描いている。体から漏れるものは、黒く禍々しい気配——言葉にし難い刃のような冷たさだ。
「敵だな。」
斎藤が拳銃を構える。
男はそれに構わず、片手をポケットに滑らせる。取り出したのは小さな銀の円盤。指先で軽く弾く仕草があり、その金属音が路地の暑気に小さく刺さった。
男は言葉を発さない。動作は淡々としていて、そこに凶暴さよりも運命を切り取るような確信だけがある。ヒカリの喉が締め付けられる。男の前では、距離と時間が白く透けるように感じられた。
「テメェ…」
ヒカリは声を振り絞り、警戒を固めた。
「よう」
男の声は低く、冷たかった。
「俺は聖桜教団の傭兵だ。任務は『人でないもの』の排除。――人間を殺すこともあるけど別に気にしてないぜ。」
フードの奥で、男が笑う。
「お前がヒカリだな」
「そうだけどよォ」
「俺と同じだな」
「同じ? なんだそりゃ」
男は右手を上げた。腕時計が視界に入る。だがそれは普通の時計ではない。時間が止まっている。針は午後3時11分で固まっていた。
「お前も、神と…合一してるんだろ?」
「…!」
その言葉を囁くように放った瞬間、男の体が震えた。やがて動きが止まる。腕時計を見つめたまま、男の表情が遠のいていく。時計がトリガーとなったかのように、彼の脳内で何かが再生されている——過去の断片か、記憶か、あるいは別の声か...
「変身のトリガーは、“死ぬイメージ”だ。」
「知ってるだろう? 合一者は、自分が死ぬ瞬間を正確にイメージした時に変身できる。」
東日本大震災が起きた午後二時四十六分。
あれが、俺にとっての“死のイメージ”だ。
男は手首の時計を見つめる。
針をゆっくりと二時四十六分へ動かす。
カチッ、と小さな音。
震災でクラッシュ症候群に陥り、心臓が止まったあの瞬間。
二時四十六分を見るたび、体がそれを思い出す。
息が詰まり、鼓動が遠のく。脳が「死ぬ」と錯覚する。
黒い霧が体を包む。禍々しい、災厄の色。絶望の色。破滅の色。
霧の中から、男が姿を現す。
だが、もう人間ではない。
全身が漆黒の鱗に覆われ、服の下からでもその凄絶さが透けて見える。
顔の半分は髑髏、もう半分は──人間のものではない、何か別の生き物の痕跡を残していた。
額から生える螺旋状の角は、禍々しい光を帯び、赤く燃える目が暗闇を切り裂く。
右手の甲からは、まるで意思を持つかのように禍々しい刃が浮かび上がり、空気を震わせる。
存在そのものが、戦慄を呼ぶ――触れれば絶望を招きそうな、異形の化身。
「これが、マガツの力だ」
男の声が低く、重く、歪む。
「マガツ…?」
「神の名だ。絶望の神」
男が一歩前に出る。地面が微かに軋む。
「俺は、この神と合一した」
「あっそ」
「そうだ。お前と同じだ、ヒカリ」
男の赤い目が、ヒカリを射抜く。
「お前はルシファーと合一している。俺はマガツと合一している」
「で? だから何だってんだよ」
男が冷たい笑みを浮かべる――笑みの奥に、確かな狂気が潜んでいた。
「...教団の目的は、お前や俺みたいな神に頼らぬ国を作ることだ。」
「意味わかんねェよ」
「そうか...分からなくていい」
男が構える。
「コインに命を賭けたことがあるか?」
ヒカリは呆れ顔で返す。
「はぁ?」
男はコインを弾き、手で覆った。
「当てろよ」
ヒカリの頭が追いつかない。
「意味がわかんねぇよ」
フード男が怒鳴る。
「いいから」
ヒカリは聞く。
「勝ったら何がもらえんだ?」
フード男は答える。
「勝ったら自由だ」
ヒカリは迷いながら、かすかに答えた。
「…表だ」
男の口元がわずかに歪む。
「…残念。ただ、死ね」
その瞬間、空気が変わった。
開戦の合図だった。




