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破天のモーニング・star  作者: イチジク
もう目覚めたから
16/17

逆さまのアップルパイ(日常)

俺はいつもの店に来た。

ドアの鈴が古いガラスに当たって、細い光の輪が一つだけ揺れる。《ベテル》の昼前は喫茶にも似て、しかし料理屋の匂いが根を張っている。焦げたバター、擦り切れた木の椅子、油の匂いの影に隠れたコーヒーの苦み。湯気が窓を薄く曇らせ、年寄りたちの笑い声が端の方で折れている。

カウンター越しに、イヴがにゅっと顔を出した。白いエプロンの端をくるりと掴んで、いつものでかい笑顔を貼り付ける。彼女はよく喋り、笑うと子どもみたいに口元が弾む。怒れば──いや、怒られるたびに、マスターへ“可愛い報復”を忘れないのが、彼女の常だ。

「コーヒー一杯で二時間は勘弁してよね〜、うちは料理屋なんだからさ‼︎」

その台詞が店の空気をぱちりと引き締める。言い方は乱暴だが、言葉の先はいつも柔らかい。俺はカウンターの隅に腰を下ろし、胸の奥が少しだけ重いことに気づく。

「はぁ……疲れたなぁ。」

思わず零れた声だった。仕事の濡れた後が喉をつぶして出た。言葉に責任はなく、ただそのままそこに落ちた。

イヴが小首を傾げる。気遣いが下手で、でも真っ直ぐにそれを示す。彼女は手を拭きながら、ふっと言った。

「……お互い大変だよね。やるべきことがあるからさ」

そして、ふと顔を輝かせて続ける。

「ミルク砂糖たっぷりコーヒー、飲む?」

俺は息をひとつついて、短く答えた。

「....もらう」

その返事だけでイヴは満足そうに手を打ち、厨房へ消えた。湯気が立ち上る。店の音はいつもの速度に戻る──皿を擦る音、グラスの縁が当たる軽い乾いた音、外の雨が窓を叩くリズム。

しばらくして、イヴが戻ってくる。彼女の手には丸い皿と、まだ温かいコーヒーカップ。香りが指先から逃げて、俺の周りに小さな輪を作る。

「ねえねえ、お客さん!今日は何食べる?」

「あ〜....奥さん、おすすめは?」

「今日のおすすめはアップルパイ! すっごく美味しいよ!」

「じゃ、それで。」

彼女は踵を蹴るように厨房へ走り、期待を胸に戻す。しかし待ち時間はやけに長く、奥からバターの焦げる匂いが追ってきた。イヴの声が厨房の隙間から少し震えて聞こえる。

「……あれ? 焦げすぎたかも。でも、色つや、悪くないよね⁈」

その軽い一言が鞄の中の石みたいに弾けて、マスターの短い怒鳴りが厨房に波紋を落とした。戸が乱雑に開き、イヴの頬が一瞬で紅潮する。

「イヴ! 何やってんだよ。生地を後から押し込むなんて。」

「ご、ごめんなさい!…」

オーブンの扉は半開きのまま。熱気と焦げた砂糖の匂いが鼻を刺す。皿の上のリンゴは皮ごと煮詰められ、表面は濃い茶色の照りを帯びている。ふちのカラメルは固まり、ナイフを入れたらパリッと音がしそうだった。

「焦げてる以前の問題だ。これじゃアップルパイとは呼べない。見ろよ、もうタルトタタンになってるじゃないか。」

イヴは額の汗をぬぐい、握ったゴムべらの先を爪でこすった。

「えっと……アップルパイにするつもりだったんです。リンゴを煮すぎて、水分が多くなっちゃって……生地を被せればまとまるかなって思ってしまって。」

「まとまるも何も、フィリングは煮詰めて水分を飛ばしてから生地に乗せるんだ。生地は冷やして伸ばして、オーブンに入れるタイミングも計らないと、バターが溶けてべちゃっとなるだろ。」

短いため息のあと、マスターは焦げたパイ皿を指で示した。端の黒い輪が、今日の失敗を冷たく告げている。イヴの目に涙がうっすら光った。

「す、すみません……」

イヴの目が潤む。謝り方が下手で、笑い方が過剰で、失敗して泣きそうになるその顔が、どうにももろい。ヒカリは立ち上がった。

理由は自分でも説明できない。ただ、捨てるのが惜しいと感じただけだ。

「あの、俺、それ食いますよ。」

「え?」

「タルトタタンでもアップルパイでも、美味けりゃどっちでもいいし。捨てるのはもったいねーだろ。」

マスターは黙って、しばらく俺を見つめた後、ため息を吐いた。そして小さな皿が、湯気を立てて俺の前に出される。焦げたリンゴが琥珀色に光り、甘みと苦みを含んだ匂いが立ち上る。

「お待たせしました。」

「ありがとうございます」

「……食えるかどうか分からんよ。」

「大丈夫っす」

フォークを差し入れると、空気が少しだけ歪む。ひと口で、舌に甘さと焦げの渋みが広がった。思っていた以上に、きちんとうまい。イヴの顔が瞬時に晴れる。

「……うまい」

「え、本当?」

「本当だ。めっちゃうまいじゃん」

「やったー!」

イヴが手を震わせて小さく握る。俺はしらっとした顔をしてその手を受ける。優しさがあるわけじゃない。面倒見がいいわけでもない。もったいないのが許せなかっただけだ。だが、その小さな承認は彼女を晴らし、店の空気を柔らかくする。


─────


しばらくして、イヴがカウンターの端に置かれた小さなパンの切れ端を指差した。いたずらっぽく、彼女の目が光る。

「ヒカリくん、ここにパンがあるよね。ぜひ両耳にパンを当ててみてください」

俺は間抜けなことを強要され、つい両手にパンを取り、耳に当ててみる。温度がふわりと耳を満たし、世界の音がふっと丸くなる。

「こうか?」

「ッ…プフ。優しいおバカさんのサンドイッチの完成です‼︎」

イヴの笑い声が店の奥に跳ねる。年寄りの誰かが小さく笑い、マスターの口元が緩む。馬鹿馬鹿しい所作が、この店では最も高価な会話になる瞬間がある。

パンを外すと、ヒカリはコーヒーをすすった。苦みと甘みと焦げたリンゴの余韻が、同じまなざしの中で混ざり合う。窓の外の雨は細く、店内の光は柔らかい。何も劇的なことは起こらない。ただ、失敗が誰かの笑顔に変わり、疲れが少し溶けていく。

「優しくねぇよ。ただ、もったいねーと思っただけ」

「でも、嬉しい」

イヴの手がさりげなくヒカリの指先を握る。それは証明にも祝福にもならず、ただ確かな温度だった。ヒカリはその温度を受け取り、またコーヒーを一口飲んだ。

午後の時間がゆっくりと溶ける。焦げたバターの匂いと湯気、パンの端のかすかな温もりが混ざって、世界の輪郭が少しだけ丸くなった。店の灯りが揺れるたびに、ここは小さな避難所になる。誰かの失敗が捨てられず、誰かの馬鹿げたふざけが許される場所。


俺はもう少しだけここにいるだろう。雨が上がるまででも、空が薄く明るくなるまででも──ただ、イヴが笑っていられるなら、それでいい。

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