さあ、行くぞ‼︎
午前二時。
港区の倉庫街。
パトカーが止まった。ライトが廃墟になった建物を照らしている。
警察官の村田が無線を取った。
「異常なし。引き続き警戒します」
彼は三十五歳。港区を担当して十年になる。妻と二人の子供がいる。
村田は無線を置いた。
助手席には、新人の小林がいる。二十三歳。警察学校を卒業して半年。
「先輩、ここ不気味ですね」
小林が周囲を見渡した。
廃墟になった劇場。十年前に閉鎖されて以来、誰も近づかない。
窓ガラスは割れている。壁には落書き。シャッターは錆びている。
「ああ。最近、ホームレスが住み着いてるって通報があってな」
村田が答えた。
「見回りを強化しろって上からの指示だ」
「でも、こんな夜中に…」
その時。
劇場の中から、光が漏れた。
「あれ?」
村田が目を細めた。
「誰かいるのか?」
「確認しますか?」
「ああ。行くぞ」
二人はパトカーを降りた。
懐中電灯を手に、劇場に近づく。
入口の扉は半開きになっている。
「警察だ。中にいるなら出てこい」
村田が声をかけた。
返事はない。
「入るぞ」
二人は劇場の中に入った。
暗い。埃っぽい。カビの匂いがする。
懐中電灯の光が、床を照らす。
壊れた椅子。破れたカーテン。舞台の上には、古いピアノが放置されている。
「誰もいないみたいですね」
小林が呟いた。
その時。
舞台の奥から、拍手が聞こえた。
パチパチパチ。
ゆっくりとした、リズミカルな拍手。
「誰だ!」
村田が懐中電灯を舞台に向けた。
光の中に、人影が浮かび上がった。
派手な衣装。赤と黄色のダイヤ柄。
白塗りの顔。
大きく描かれた赤い口。
三角の目。
ピエロだった。
「な、何だあれ…」
小林が後ずさった。
『ようこそ、ようこそ!』
ピエロが大げさに一礼した。
その声は高く、甲高い。
『よくぞお越しくださいました!警察の皆様!』
「何者だ!動くな!」
村田が警棒を構えた。
『さぁさぁ、今宵の見世物をお楽しみください!』
ピエロが手を叩いた。
パン!
その瞬間――
村田の口が、勝手に笑った。
「ハハ…え?」
村田は自分の口を押さえた。でも、笑いが止まらない。
「ハハハ…何だこれ…ハハハ」
「先輩?」
小林も笑い出した。
「ハハハ…やめて…ハハハ」
二人とも、笑いが止まらない。
腹が痛い。息ができない。
涙が溢れてくる。
「ハハハ…助けて…ハハハ」
村田は無線を取ろうとした。でも、手が震えて取れない。
笑いながら、倒れた。
『さぁ、もっと笑いましょう!』
ピエロが近づいてくる。
その足音が、ゆっくりと響く。
「ハハハ…ハハハハハ」
村田の視界が暗くなっていく。
笑いながら、意識が遠のいていく。
最後に見たのは、ピエロの大きな赤い口だった。
──────
公安本部のブリーフィングルーム。
ヒカリが到着すると、既にメンバーが揃っていた。碇、ヒルメ、望月、田中、斎藤。
全員の表情が硬い。
作戦会議室は窓のない密閉空間だ。蛍光灯の白い光が、机の上の資料を照らしている。エアコンの音だけが響いている。
ヒカリは息を切らしながら入室した。
「はっ、はっ……お、くれ……ました。」
喉の奥でつっかえて、最後だけ形になる。声は低く、息が混じる。言葉より先に、空気がざらつく。
「大丈夫、速かった。よく来てくれた。」
碇が頷いた。彼の表情はいつもより険しい。目の下にクマができている。
「座れ。すぐに始める」
ヒカリは空いている席に座った。隣にヒルメ。
ヒルメが小声で言った。
「大変なことになったわよ」
「どんクレぇ、大変?」
「最悪レベル。警察官が襲われた」
碇が立ち上がった。
ヒルメがすぐに姿勢を正す。
「では、説明を始める」
彼がリモコンを操作すると、スクリーンに映像が映し出された。
防犯カメラの映像だ。
港区の倉庫街。時刻は午前二時十五分。
パトカーが映っている。
二人の警察官が劇場に入っていく。
そして――
数分後、劇場から二人が転がり出てきた。
笑いながら。
「ハハハ…ハハハハハ」
二人とも地面に倒れて、笑い続けている。
そのまま、動かなくなった。
映像が止まった。
ヒカリは息を呑んだ。
「今朝二時十五分、港区倉庫街で警察官二名がクラウンに襲われた」
碇の声が低く響いた。
「村田巡査部長と小林巡査。二人とも意識不明の重体。現在、港区総合病院の集中治療室にいる」
碇が次の映像を映した。
病院のベッド。
二人の警察官が横たわっている。
顔が引きつっている。目は見開かれたまま。口は笑ったまま固まっている。
「二人とも、笑いが止まらない。薬物投与も試みたが、効果なし」
田中が小さく息を呑んだ。彼女の手が震えている。
「医師の見解では、このまま笑い続ければ、48時間以内に心停止する可能性が高い」
「48時間…」
ヒルメが呟いた。
「つまり、明後日には…」
「ああ」
碇が頷いた。
「だから、今日中にクラウンを倒す。時間がない」
望月が碇の隣に立った。
望月は二十代前半の女性だ。カットされた黒髪。鋭い目つき。公安でのキャリアはまだ短いながら優れた力を持つため神崎班で碇の補佐を務めている。碇とは同期で、長年バディを組んでいる。
「碇君」
望月が碇を呼んだ。
「これは本当に厄介よ。被害者は警察官だけじゃない」
望月がスクリーンを操作した。
新しい映像が映し出された。
病院の廊下。
十数名の人々が、ベッドに横たわっている。
全員、笑っている。
「現在、被害者は合計三十名。警察官二名、一般市民二十八名。全員が笑いながら苦しんでいる」
望月の声が冷静だった。でも、その目には怒りが宿っている。
「名は《道化の神》。
このクラウンの力は、おそらく強制的な笑いの付与。公安も、まだ詳細を掴めていないの。」
望月が資料をめくった。
「被害者は笑いが止まらなくなる。悲しいことも、恐ろしいことも、痛いことも、すべて笑ってしまう。感情のコントロールを完全に失う」
「既に三十名が被害に遭っている。そのうち三名は…」
望月が一瞬言葉を切った。
「笑いすぎて窒息死した」
「窒息死…」
ヒカリが呟いた。
笑いながら死ぬ。
想像するだけで気味が悪りぃ。
「斎藤、詳細を」
碇が指示を出した。
斎藤が立ち上がった。
斎藤は二十代前半の男性。細身で背が高い。眼鏡をかけている。公安のデータ分析官で、感情を表に出さないことで知られている。
「港区の倉庫街、座標は北緯35.6586度、東経139.7454度」
斎藤がスクリーンを操作した。詳細な地図が表示される。
「廃墟になった劇場の中に、クラウンがいると推定されます。元々は『港区市民劇場』という名称の小規模演劇場でした。2015年に廃業。以降、放置されています」
斎藤が次のデータを表示した。
「周辺住民は既に避難済み。半径五百メートルは警察が封鎖しています。ただし、クラウンの能力が封鎖範囲を超えて被害が拡大する可能性があります。」
「能力の範囲は?」
碇が聞いた。
「不明です。ただし、防犯カメラの映像を分析した結果、クラウンは劇場内から出ていません。つまり、能力の範囲は限定的である可能性が高い」
「つまり、劇場に入らなければ安全か」
「そう推測されます。ただし、確証はありません」
斎藤が眼鏡を押し上げた。
「もう一つ。クラウンの能力パターンを解析しましたが、不規則です」
「すみません、不規則とは?」
ヒルメが聞いた。
「ええ。被害者によって、笑いの程度が違います。軽く笑う人もいれば、狂ったように笑う人もいる。法則性が見つかりません」
「つまり、誰が重症化するか予測できないってことね。やっかいね。」
望月が腕を組んだ。
「そういうことです」
沈黙が会議室を支配した。
田中が立ち上がった。
「私、病院に行きます。被害者の方々を少しでも楽にしてあげたい」
田中は二十代後半の女性。茶色いポニーテールで、優しい目をしている。公安の医療班に所属し、神崎班の現場にも同行して応急処置や後方支援を担当する。
「田中、気持ちは分かる」
碇が静かに言った。
「だが、お前が病院に行っても、できることは限られている。それより、俺たちと一緒に来てくれ。現場で医療サポートが必要になる」
「でも…」
「被害者を救う最善の方法は、クラウンを倒すことだ」
碇の声が力強かった。
「それに、俺たちが攻撃を受けた時、お前の医療知識が必要になる。」
田中が唇を噛んで、頷いた。
「…分かりました」
碇が全員を見渡した。
「では、作戦を説明する」
彼がスクリーンに図を映した。
劇場の見取り図だ。
「第一グループは俺、ヒカリ、ヒルメ、望月。劇場内部に突入、状況確認優先」「第二グループは田中、斎藤。周辺警戒と後方支援を担当。無線で随時報告せよ」
「ヒカリは変身して、望月と共に前衛を務める。俺とヒルメが援護する。」
「クラウンの能力を受けたら、すぐに距離を取れ。...ヒカリも無理に戦おうとするなよ。」
碇が全員を見た。
「それと…もし、誰かが笑い出したら、すぐに伝えろ。隠すな。恥は捨てろ。命に関わるからな。」
全員が頷いた。
「出発は十分後。装備を整えろ」
「了解」
椅子の軋む音とともに、各員が立ち上がる。誰も余計なことは言わない。靴音だけが、重く部屋に響いた。
ヒカリも立ち上がった。
喉が乾く。鼓動が速い。でも、怖くはない。体が勝手に、戦う準備をしてるだけだ。
——所轄の警察官が襲われた。ってことは、次は俺らか。ま、順番ってやつだ。
『ヒカリ』胸の奥で、ルシファーの声が響く。
『怖くはないのか?』
「別にぃ。死ぬのは嫌だけど、それ以外はどうでもいいな」
『……ふっ。人間らしくない答えだな』
「今さらだろ。ビビってる暇あったら、早く片付けて帰りてぇ。」
『全く...だがそれが“自由”というものかもしれない。』
「なら、俺は自由そのものだな」
『...やっぱり、キミというヤツは面白いな。』
「お褒めの言葉として受け取っとくわ」
『はぁ。行くぞ』
ヒカリは立ち上がり、装備室へ向かった。廊下の空気が、出撃前の静けさで張りつめていた。




