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堕天/FREEDOM’S CROWN  作者: イチジク
もう目覚めたから

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12/41

じょいふる

夢の感触がまだ腕や首に残っている。

父親の手が首を締める。

胸が圧迫され、呼吸が細くなる。

「やめろ……!」声を上げても、届かない。

目が覚めて、ベッドの冷たさに触れるまで、夢と現実の境界はなかった。

「はぁ……そうか、休みか。最高だ!」

夢の重さがまだ胸に残っていても、今日を生きる力は自分の中にある。

揺るがない意志が、静かに体中を巡る。

たとえ過去の影が手を伸ばしても、光は必ず自分の足元から伸びている――

そう、ヒカリは、不屈であった。

布団を力強くめくり、伸びをする。

体がギシギシと音を立てるのも、今を生きる実感のようだった。ヒカリは携帯を手に取った。時刻は午前九時。通知はない。任務の連絡もない。


やることもねえ。

うーん……飯か? いや、めんどくせぇ。そうだ二度寝だ、二度寝!

なんか、ベッドの上でゴロゴロしてるだけで幸せ……。

ああ、俺、なんてダメなやつなんだろうな。

でも、このダメな感じが……悪くねぇんだよな。

「でも……」

俺は急に思い出す。

あの洋食屋。

ベテル。

そして、あの店員の顔。

「あー……行くか」

ベッドからぐりっと体を起こす。

布団の温もりを置いて、俺は足を床に下ろした。


────


ベテルの宿舎は公安本部のすぐそばにある。

ゆっくり歩いても、十五分ほどで着く距離だ。

「よし、行くぞ」

ジーンズにパーカーを合わせ、彼は身支度を整える。

深呼吸して、扉を開いた。

――『ヒカリ』

ルシファーの声。

「なんだよ」

――『本当に行くのか?』

「当たり前だろ。飯を食いに行くだけだし」

――『その割には何か変だぞ……』

「気にすんな。飯が楽しみなだけだ」

エレベーターで一階に上がると、ロビーには警備員が一人。

彼は新聞を広げ、軽く会釈してヒカリを見送った。

「お出かけですか」

「ちょっと、飯を食いに」

「お気をつけて」

外に出ると、通りに吹く夏の風は意外にもひんやりとしていて、心地よく肌を撫でた。

ヒカリは公安本部の裏手の道を歩く。表通りを避け、古い商店街を抜けていく。

八百屋の前には大根と白菜が並び、魚屋からは生臭い匂いが漂う。古本屋の前には、段ボールに入った百円の文庫本。

こういう、普通の街並みを見ると――自分が何を守っているのか、実感する。

クラウンが現れたら、この街は一瞬で地獄になる。

笑い声が響いていた商店街が、悲鳴と血に染まる。

だから俺たちは戦う――そう、碇が言っていたな。

そんなことを考えながら歩いていると、ベテルが見えてきた。小さな店。木製の扉には、色とりどりのステンドグラスがはめ込まれている。

光が差し込むと、床に淡い模様を落とし、扉そのものが小さなガラス張りのように輝いた。

看板には手書きで「洋食ベテル」と書かれている。

ヒカリは深呼吸した。緊張している自分に気づいて、少し笑ってしまった。

任務の時は特に緊張なんかしないのに、女の子に会いに行くだけで緊張していた。

「馬鹿みてぇ」

俺は扉を押し開けた。

カランカラン。

ベルの音が鳴る。

「いらっしゃいませ。」

その声――イヴだ。

ヒカリは顔を上げた。

イヴがカウンターの奥から彼を見ていた。白いブラウスに黒いエプロン。髪は前回と同じように、後ろで小さなお団子にまとめられている。青い瞳が、まっすぐこちらを見ている。

「あら」

イヴの顔がぱっと明るくなった。

「ヒカリくん、また来てくれたんだ〜」

その笑顔を見た瞬間、ヒカリの心臓がバクバクした。

「まぁな」

「嬉しい‼︎」

イヴが嬉しそうに笑った。

目がキラキラと光り、頬が少し赤く染まっている。

その笑顔を見ると、周囲の空気まで柔らかくなるようだった。

「カウンター席でいいですか?」

「ああ」

ヒカリは促されるままに、カウンター席に座った。

店内には他に客が二人。

窓際のテーブルで新聞を読んでいる老人と、奥の席でパスタを食べている女性。

静かな店だ。ジャズが小さく流れている。ピアノの音が心地いい。

イヴが近づいてきた。近い。めっちゃ近い。

彼女の肌は本当に白い。首筋に小さなほくろがある。

首元には、トップに小さな鳥かごをあしらったネックレスが光っていた。

底面には、B、o、u、n、d の文字。

髪からは石鹸のような、清潔な匂いがした。

「お飲み物は?」

「紅茶で」

今日は紅茶の気分だった。理由はねぇ。なんとなく。

...本当はコーヒーが苦かったから。

でもさ、自分で砂糖とかミルク入れるの、なんかダサくね?

誰かが入れてくれるなら全然いいんだけど、自分でやるのは負けた気がすんだよ。

「承知しました」

イヴが静かに厨房へ向かった。

その後ろ姿を、ヒカリは思わず目で追っていた。

細い背中である。エプロンの紐が、蝶々結びになって揺れていた。

『ヒカリ』

ルシファーが低く囁いた。

『あの女は外国人か?』

「そうじゃね」

『...ふん。』

イヴの姿はもう厨房の奥に消えていたが、白い首筋のあたりに、なお光が残っているように見えた。

しばらくして、イヴが紅茶を持ってきた。白いカップ。湯気が立ち上る。いい匂いだ。

「ヒカリくん、お待たせ〜」

イヴが彼の前に置いた。

その時、イヴの顔が近づいた。

「…顔色ひどいですねぇ」

イヴが心配そうに眉を寄せた。

「え?」

「疲れてない?ちゃんと寝てます?目の下にクマできてますよ〜」

イヴの指が、ヒカリの頬に軽く触れた。冷たくて柔らかい。

「は?大丈夫だって...」

ヒカリは思わず顔を引いた。心臓がバクバクする。

「本当?無理してない?」

イヴがカウンター越しに身を乗り出す。近い。めちゃくちゃ近い。

「公安のお仕事、大変なんでしょう?」

「まぁ、大変っちゃ大変だけど…慣れたし」

「ふふ、強がっちゃって」

イヴが微笑んだ。

「ゆっくりしていってね。ここは安全だから」

その言葉が妙に心に響いた。

安全。

そうだ、ここは安全だ。化けクラウンもいねーし。戦いもねーし。ただ、美味しい飯と優しい笑顔がある。

ヒカリは紅茶を一口飲んだ。

(ウメェ。ほんのり甘い。)

「なぁ、イヴ」

彼は思わず声をかけた。

「はい?」

イヴが振り返った。

「イヴって、いつもここで働いてんの?」

「ええ。ほぼ毎日。休日は朝十時から夜九時までかな?」

「長いなぁ」

「慣れてますから」

イヴが笑った。

「それに、お客さんと話すの好きなの。色んな人が来てくれるから。」

「そっか」

ヒカリは少し考えて、素直に言った。

「じゃあ、俺もよく来るよ。」

イヴが少し目を丸くした。そして、くすっと笑った。

「嬉しい。たくさん来てね。」

「おう」

イヴがにこにこしながら、カップを置くと、いきなり目を輝かせて言った。

「...ヒカリくん、ちょっと遊ばない? 茶葉占い〜!」

「茶葉占いって……なんだ?」

「ここでイヴの豆知識〜

紅茶の底に残った茶葉で、今日の運勢や未来のヒントを読むんです!もちろん、ちゃんと手順があるよ。」

イヴはカップを左手に持ち、心の中で軽く願い事を唱えながら、カップを三回ゆっくり回す。 その動きは無邪気に見えて、でも確かな手順を踏む、本格的なものだった。

「ふふっ、なるほどね……」

イヴの目がキラキラしている。なんだかヒカリまでワクワクしてきた。

イヴはヒカリのカップを手に取って、中を覗き込んだ。少し首を傾げる。

「ん〜……あ」

「何か出た?」

「ヒカリくん、近々ちょっと面白いことが起きそうだって出たよ〜。でも安心、楽しめるやつ!」

イヴは軽くヒカリの肩に手を置き、腕にそっと触れながら親しげに笑った。指先がかすかに腕をなぞると、ヒカリは思わず軽く肩をすくめる。カップをそっとテーブルに戻すと、その手元では、茶葉が鋭い線や棘のような形を描いていた。

「へぇ……楽しめるやつか」

ヒカリは思わず笑ってしまった。占いなんて信じてないけど、イヴが楽しそうだから、それでいい。

「楽しみにしててね」

イヴが手をそっとヒカリの手に添え、ニコッと笑顔を返した。

その時、ヒカリのスマホが鳴った。

画面を見る。碇からだ。

ヒカリの表情が一瞬で変わった。休日に碇から電話。それは緊急事態を意味する。

「あ、悪りぃ。」

ヒカリは席を立って、店の外に出た。

電話に出る。

「もしもし」

『ヒカリ、今どこだ?』

碇の声が低かった。いつもより緊張している。

「どこでも良いんだろ?」

『すぐに来てくれ。緊急事態だ。港区でクラウンが出た』

「マジかよ.....」

『ああ。詳しくは本部で説明する。急いでくれ。十五分以内に来られるか?』

「走れば行けます」

『頼む』

電話が切れた。

ヒカリは店の中に戻った。イヴが心配そうに見ている。

「悪りぃ、お会計……ごめん、急用で。紅茶代、今度まとめて払うわ」

「大丈夫。じゃあ、ツケといとくね」

イヴが微笑んだ。でも、その笑顔の奥に少し寂しそうな影がある。

「お仕事、頑張ってね。気をつけて」

「おう、ありがとな」

ヒカリは店を出た。振り返ると、イヴがガラス越しに手を振っていた。

また来よう。絶対また来る。

彼は公安本部に向かって走り出した。

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