じょいふる
夢の感触がまだ腕や首に残っている。
父親の手が首を締める。
胸が圧迫され、呼吸が細くなる。
「やめろ……!」声を上げても、届かない。
目が覚めて、ベッドの冷たさに触れるまで、夢と現実の境界はなかった。
「はぁ……そうか、休みか。最高だ!」
夢の重さがまだ胸に残っていても、今日を生きる力は自分の中にある。
揺るがない意志が、静かに体中を巡る。
たとえ過去の影が手を伸ばしても、光は必ず自分の足元から伸びている――
そう、ヒカリは、不屈であった。
布団を力強くめくり、伸びをする。
体がギシギシと音を立てるのも、今を生きる実感のようだった。ヒカリは携帯を手に取った。時刻は午前九時。通知はない。任務の連絡もない。
やることもねえ。
うーん……飯か? いや、めんどくせぇ。そうだ二度寝だ、二度寝!
なんか、ベッドの上でゴロゴロしてるだけで幸せ……。
ああ、俺、なんてダメなやつなんだろうな。
でも、このダメな感じが……悪くねぇんだよな。
「でも……」
俺は急に思い出す。
あの洋食屋。
ベテル。
そして、あの店員の顔。
「あー……行くか」
ベッドからぐりっと体を起こす。
布団の温もりを置いて、俺は足を床に下ろした。
────
ベテルの宿舎は公安本部のすぐそばにある。
ゆっくり歩いても、十五分ほどで着く距離だ。
「よし、行くぞ」
ジーンズにパーカーを合わせ、彼は身支度を整える。
深呼吸して、扉を開いた。
――『ヒカリ』
ルシファーの声。
「なんだよ」
――『本当に行くのか?』
「当たり前だろ。飯を食いに行くだけだし」
――『その割には何か変だぞ……』
「気にすんな。飯が楽しみなだけだ」
エレベーターで一階に上がると、ロビーには警備員が一人。
彼は新聞を広げ、軽く会釈してヒカリを見送った。
「お出かけですか」
「ちょっと、飯を食いに」
「お気をつけて」
外に出ると、通りに吹く夏の風は意外にもひんやりとしていて、心地よく肌を撫でた。
ヒカリは公安本部の裏手の道を歩く。表通りを避け、古い商店街を抜けていく。
八百屋の前には大根と白菜が並び、魚屋からは生臭い匂いが漂う。古本屋の前には、段ボールに入った百円の文庫本。
こういう、普通の街並みを見ると――自分が何を守っているのか、実感する。
クラウンが現れたら、この街は一瞬で地獄になる。
笑い声が響いていた商店街が、悲鳴と血に染まる。
だから俺たちは戦う――そう、碇が言っていたな。
そんなことを考えながら歩いていると、ベテルが見えてきた。小さな店。木製の扉には、色とりどりのステンドグラスがはめ込まれている。
光が差し込むと、床に淡い模様を落とし、扉そのものが小さなガラス張りのように輝いた。
看板には手書きで「洋食ベテル」と書かれている。
ヒカリは深呼吸した。緊張している自分に気づいて、少し笑ってしまった。
任務の時は特に緊張なんかしないのに、女の子に会いに行くだけで緊張していた。
「馬鹿みてぇ」
俺は扉を押し開けた。
カランカラン。
ベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ。」
その声――イヴだ。
ヒカリは顔を上げた。
イヴがカウンターの奥から彼を見ていた。白いブラウスに黒いエプロン。髪は前回と同じように、後ろで小さなお団子にまとめられている。青い瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「あら」
イヴの顔がぱっと明るくなった。
「ヒカリくん、また来てくれたんだ〜」
その笑顔を見た瞬間、ヒカリの心臓がバクバクした。
「まぁな」
「嬉しい‼︎」
イヴが嬉しそうに笑った。
目がキラキラと光り、頬が少し赤く染まっている。
その笑顔を見ると、周囲の空気まで柔らかくなるようだった。
「カウンター席でいいですか?」
「ああ」
ヒカリは促されるままに、カウンター席に座った。
店内には他に客が二人。
窓際のテーブルで新聞を読んでいる老人と、奥の席でパスタを食べている女性。
静かな店だ。ジャズが小さく流れている。ピアノの音が心地いい。
イヴが近づいてきた。近い。めっちゃ近い。
彼女の肌は本当に白い。首筋に小さなほくろがある。
首元には、トップに小さな鳥かごをあしらったネックレスが光っていた。
底面には、B、o、u、n、d の文字。
髪からは石鹸のような、清潔な匂いがした。
「お飲み物は?」
「紅茶で」
今日は紅茶の気分だった。理由はねぇ。なんとなく。
...本当はコーヒーが苦かったから。
でもさ、自分で砂糖とかミルク入れるの、なんかダサくね?
誰かが入れてくれるなら全然いいんだけど、自分でやるのは負けた気がすんだよ。
「承知しました」
イヴが静かに厨房へ向かった。
その後ろ姿を、ヒカリは思わず目で追っていた。
細い背中である。エプロンの紐が、蝶々結びになって揺れていた。
『ヒカリ』
ルシファーが低く囁いた。
『あの女は外国人か?』
「そうじゃね」
『...ふん。』
イヴの姿はもう厨房の奥に消えていたが、白い首筋のあたりに、なお光が残っているように見えた。
しばらくして、イヴが紅茶を持ってきた。白いカップ。湯気が立ち上る。いい匂いだ。
「ヒカリくん、お待たせ〜」
イヴが彼の前に置いた。
その時、イヴの顔が近づいた。
「…顔色ひどいですねぇ」
イヴが心配そうに眉を寄せた。
「え?」
「疲れてない?ちゃんと寝てます?目の下にクマできてますよ〜」
イヴの指が、ヒカリの頬に軽く触れた。冷たくて柔らかい。
「は?大丈夫だって...」
ヒカリは思わず顔を引いた。心臓がバクバクする。
「本当?無理してない?」
イヴがカウンター越しに身を乗り出す。近い。めちゃくちゃ近い。
「公安のお仕事、大変なんでしょう?」
「まぁ、大変っちゃ大変だけど…慣れたし」
「ふふ、強がっちゃって」
イヴが微笑んだ。
「ゆっくりしていってね。ここは安全だから」
その言葉が妙に心に響いた。
安全。
そうだ、ここは安全だ。化け物もいねーし。戦いもねーし。ただ、美味しい飯と優しい笑顔がある。
ヒカリは紅茶を一口飲んだ。
(ウメェ。ほんのり甘い。)
「なぁ、イヴ」
彼は思わず声をかけた。
「はい?」
イヴが振り返った。
「イヴって、いつもここで働いてんの?」
「ええ。ほぼ毎日。休日は朝十時から夜九時までかな?」
「長いなぁ」
「慣れてますから」
イヴが笑った。
「それに、お客さんと話すの好きなの。色んな人が来てくれるから。」
「そっか」
ヒカリは少し考えて、素直に言った。
「じゃあ、俺もよく来るよ。」
イヴが少し目を丸くした。そして、くすっと笑った。
「嬉しい。たくさん来てね。」
「おう」
イヴがにこにこしながら、カップを置くと、いきなり目を輝かせて言った。
「...ヒカリくん、ちょっと遊ばない? 茶葉占い〜!」
「茶葉占いって……なんだ?」
「ここでイヴの豆知識〜
紅茶の底に残った茶葉で、今日の運勢や未来のヒントを読むんです!もちろん、ちゃんと手順があるよ。」
イヴはカップを左手に持ち、心の中で軽く願い事を唱えながら、カップを三回ゆっくり回す。 その動きは無邪気に見えて、でも確かな手順を踏む、本格的なものだった。
「ふふっ、なるほどね……」
イヴの目がキラキラしている。なんだかヒカリまでワクワクしてきた。
イヴはヒカリのカップを手に取って、中を覗き込んだ。少し首を傾げる。
「ん〜……あ」
「何か出た?」
「ヒカリくん、近々ちょっと面白いことが起きそうだって出たよ〜。でも安心、楽しめるやつ!」
イヴは軽くヒカリの肩に手を置き、腕にそっと触れながら親しげに笑った。指先がかすかに腕をなぞると、ヒカリは思わず軽く肩をすくめる。カップをそっとテーブルに戻すと、その手元では、茶葉が鋭い線や棘のような形を描いていた。
「へぇ……楽しめるやつか」
ヒカリは思わず笑ってしまった。占いなんて信じてないけど、イヴが楽しそうだから、それでいい。
「楽しみにしててね」
イヴが手をそっとヒカリの手に添え、ニコッと笑顔を返した。
その時、ヒカリのスマホが鳴った。
画面を見る。碇からだ。
ヒカリの表情が一瞬で変わった。休日に碇から電話。それは緊急事態を意味する。
「あ、悪りぃ。」
ヒカリは席を立って、店の外に出た。
電話に出る。
「もしもし」
『ヒカリ、今どこだ?』
碇の声が低かった。いつもより緊張している。
「どこでも良いんだろ?」
『すぐに来てくれ。緊急事態だ。港区でクラウンが出た』
「マジかよ.....」
『ああ。詳しくは本部で説明する。急いでくれ。十五分以内に来られるか?』
「走れば行けます」
『頼む』
電話が切れた。
ヒカリは店の中に戻った。イヴが心配そうに見ている。
「悪りぃ、お会計……ごめん、急用で。紅茶代、今度まとめて払うわ」
「大丈夫。じゃあ、ツケといとくね」
イヴが微笑んだ。でも、その笑顔の奥に少し寂しそうな影がある。
「お仕事、頑張ってね。気をつけて」
「おう、ありがとな」
ヒカリは店を出た。振り返ると、イヴがガラス越しに手を振っていた。
また来よう。絶対また来る。
彼は公安本部に向かって走り出した。




