16.失われた記憶(2)
ここで死ぬのだ――落下中、そんな覚悟をした。
落ちている間は一瞬のはずなのに、永遠のように長くて、怖くてぎゅっと強く目をつむる。その恐怖を拭うかのように、フレデリックが私を強く抱きしめてくれた。
――ごめんね、フレデリック。私が貴方の言うことを聞かなかったばっかりに。貴方のことまで巻き込んでしまって。
恐怖で身体が強張る中、心の中で繰り返し謝って、彼の身体に強くしがみつく。
そして、次に気が付いた時――私は暗い森の中で倒れていた。フレデリックを下敷きにして。
――助かった、の……?
状況を確かめるために起き上がろうとするも、身体が思うように動かない。
代わりに、手のひらが生温い何かで濡れたような感触があった。
「え……」
おそるおそる手のひらに視線を向ける。そこは真っ赤な鮮血でべっとりと濡れていて、一瞬の後にそれがフレデリックのものであることを悟った。
「フレデリック……っ?」
下敷きになったフレデリックの頭から、とめどなく血が流れている。
私を強く抱き締めていた腕も、今はその力強さを失い、だらんとしたままだ。
「ねえ、フレデリック……しっかりして……!」
いくら庇ってもらったとはいえ、私も無傷ではない。全身が痺れて、頭をガンガンと金槌で打たれたような痛みが走った。
それでも何度も何度もフレデリックの名前を呼んだけれど、彼は一向に返事をしない。
――うそ、うそよ……私のせいで、どうして……。
混乱した状況の中でも、自分のせいでフレデリックが重傷を負ったことはすぐにわかった。それが生死を彷徨うほどだということも。
助けを呼ばなきゃと思うのに、情けないことに強い痛みで身体が動かない。
悔しくて悲しくて、泣いても意味がないとわかっていても、頬を涙が伝った。
その瞬間――暗い森の中から、不気味な声が聞こえてきた。
「あらあら可哀想に……彼、そのままでは死ぬわよ?」
「っ、誰? 誰なの?」
「でもこの森に落ちたことが幸運ね……私なら彼を助けてあげることができる」
どこから聞こえてくるかも、声の持ち主の顔もわからない。
だけど私は、フレデリックを助けることに夢中で、相手が誰かなんてどうでもよかった。
「本当にっ? 本当に彼を助けられるの?」
「もちろん、でもタダで、とは言わないわ」
「いくらでも払うわ! だから、彼を助けてちょうだい……っ」
もちろんお金を払うのは私ではないけれど、フレデリックが助かるならば何でもいい。お父様だってきっと許してくれる。
必死で訴えると、その声は乾いた笑みを漏らした。
「いくらでも……ね。たとえ、貴方の命と引き換えにしても、彼を助けたい?」
「私の命と……?」
思ってもみなかった提案に、口を噤む。
だけど、今あるのはフレデリックに救ってもらった命。そもそも、死ぬのは彼じゃない。私だったのだ。あの時、フレデリックが私を助けようとしなければ、彼が死ぬことなどなかったのだから。
それならば、答えはもう決まっていた。
「それでフレデリックが助かるなら……何だっていい。私の命と引き換えにしたっていいわ」
この先一生、彼を死なせてしまったことを悔いて生きていくらいなら、いっそ自分が死んだほうがマシ。私の選択に迷いなどなかった。
「くくく……潔い子。嫌いじゃないわ……でも、せっかくだから貰うのはその身体にしましょうか」
「え……?」
「若くて綺麗な身体……とっても魅力的。その身体が朽ちるまで、私がもらってあげる」
――どういう、意味……?
「契約の証人は……そうね、彼にお願いしましょうか」
「フレデリックに……? 証人って何なの?」
「私たちの契約が双方の同意の末に成り立ったものだと証明する必要があるでしょう? 後から不服を申し立てられたら困るもの」
「よくわからないけれど彼に証人なんて無理よ……」
もう私の声に反応しないほど弱りきっているのに。
「大丈夫、彼自身が生きたいと望むだけでいいの。それで契約は成立よ」
「フレデリックが……」
フレデリックの手を握り締めると、まだ微かに意識があるのか、その指先がぴくりと動く。
「フレデリック? 聞こえる……?」
「……」
「お願い、生きると言って……私の代わりに貴方には生きてほしいの」
祈りを込めて、フレデリックの手をさらに強く握る。
瞬間、黒い靄がその場に立ちこめ……私はそのまま、深い闇の中へと包まれたのだった。
そして、意識が覚醒した時にはもうカーミラが私の中にいた。事故の時の記憶などは、曖昧なまま。
お父様のおかげですべてを思い出した。あの時握った、フレデリックの手の感触も。
「そんな……てっきり私が怪我を負ったのだと……」
事故のショックで記憶が改ざんされていたのだろうか。それとも、カーミラが何か手を加えたのか。
確かめようにも、もうカーミラはいないのだから、知る由もなかったのだけれど。
つまり、私は自分の身体と引き換えにフレデリックの命を救った。きっと、あの時彼はきっと「生きたい」と願ったのだ。
だから契約が成立し、フレデリックは持ち直し、崖から落ちたことが嘘のように回復した。
――まさか、このことをフレデリックは知っていたの……?
真実はわからないけれど、もし知っていたならば、彼は罪の意識に苛まれて生きてきたことになる。自分のせいで、私が魔女と契約したのではないか、と。
――ううん、だったらフレデリックはもっと早く私に話してくれたはず。それに、私を急に拒み始めた意味だって、説明がつかない。
彼の行動の真意がわからず頭を悩ませていると、お父様が語りかけるように続けた。
「彼だけは、薄々気づいていたんじゃないか。何度かうちの書庫に来て、熱心に魔女について調べているようだったから」
「え……?」
「まあ私たちに話さなかったことを考えると、確証がなかったからだろうが」
わからない、フレデリックが何をどこまで知っているのか。私を避けようとする理由も。
だけど、これだけは言える。フレデリックは私に何かを隠していて、私はその真実を知らなきゃいけないということが。
身体を取り戻した今の私には、それができるはず。
「お父様。ありがとうございます、話してくださって……ずっと言葉にできないこと、大変心苦しく思っておりました。たくさんご迷惑やご心配をかけてしまい、申し訳ございませんでした」
お母様のこと、公爵邸の皆のこと、そしてカーミラの数々のわがまま。そのすべてはたった一言で許してもらえることではないけれど、こうして謝罪を言葉にできてよかった。その機会をくれたお父様に、心から礼を伝える。
「これからは、わがままを言わずお父様の娘として恥ずかしくないように、真っ当に生きていきます」
「いや……お前はそのままでいい。自由に生きていいんだ。わがままだって、言っていい。私に叶えられることは何でも叶えてあげよう」
自由に、その言葉に重みとありがたみを感じる。
私はしっかりと頷くと、すくっと立ち上がった。
「ではさっそく、ひとつだけわがままを言わせてください」
「何だ?」
「――それは、また今度あらためてお話いたします」
残された、すべての問題を片づけてから。
お父様が「わかった」と頷いてくれたのを確認し、私は部屋を後にした。




