8.魔獣にご注意(2)
「フレデリックはどこかしら……?」
シャーロットから聞いた方角に馬を走らせて来たものの、一向にフレデリックには会えないまま時間が経ってしまった。
長く馬に乗っていたせいか、思っていた以上に身体が疲れており、近くの川辺に腰を下ろした。
――まさか道に迷ったり、何かに襲われたりとか……?
川の水に手を浸しながら、最悪の事態が頭を過る。けれど、フレデリックならばこの辺りの土地には詳しいはずだし、騎士団に所属しているほど剣の腕が立つのだから、心配には及ばないだろう。
――私も休んだら戻らないとね。シャーロットと別れてからだいぶ時間も経ったし、逆に心配をかけてしまうかも。
見上げた空は厚い雲が覆い、何だか今にも降り出しそうだ。先ほどまで暖かかったのに、風もひんやりとしている。今いる場所が陽の当たらない場所だからだろうか。
「雨は嫌……」
不意にそうこぼす。それがいつからなのかも理由もわからないけれど、なぜだか悲しい気持ちになるから。
降られてしまう前に早く皆の所へ戻ろうと立ち上がると、背後でカサッと木々が緩れる音がした。
「ん……?」
――もしかしてフレデリック……?
期待を込めてくるりと振り返る。すると、目の前に飛び込んで来た真っ黒な影に思考が停止した。
背後にいたのはフレデリックでも、レイモンド殿下やシャーロットでもない。
真っ黒な翼に毛で覆われた身体だった。
――何なの、この生き物……?
猛獣か鳥か、得体の知れない生き物に身体が固まる。
唸るような声に、ギラリと赤い瞳が光る。少しでも刺激をすれば、今にも襲い掛かられそうな勢いだ。
――どうしよう……助けを……とにかく逃げなきゃ……。
呼吸をするのも忘れるくらい慎重に後退る。向こうも私を警戒しているのか、まだ近づいてくる気配はない。
このまま逃げ切ろうと一歩後ろに踏み込んだ時だった。
「きゃっ!?」
足元にあった木の枝で足を捻り、大きく体勢を崩す。その瞬間、羽の中から鋭い爪が現れ、私を目掛けて振り下ろされた。
――あ……もう駄目。
やっと身体を取り戻したのに、こんな短期間であっさりと、よく知りもしない生き物に襲われて死ぬだなんて……私の人生、どこまで行っても散々らしい。元に戻ったらやりたかったこと、まだ全然できていないのに。
どうすることもできず、恐怖でぎゅっと目をつぶるけれど――
「グオッ!?」
――え……?
覚悟した痛みの代わりに、あたたかな何かに包まれる。そして聞こえてきた悲鳴に、おそるおそる目を開けた。
「レイ、モンド殿下……?」
「くっ……」
どこから現れたのか。レイモンド殿下が私の肩を抱き、庇うように剣を生き物へと向けている。その剣は血で濡れ、川辺の岩の上には赤黒い血が飛び散っていた。
助けてくれたのだと理解する前に、負傷した生き物が再び襲い掛かってくる。彼は私を突き飛ばすと、生き物との間合いに入り、もう一度剣を振るった。
「っ……!」
空気を斬る音とともに、頬を生温いものが掠める。私は鮮やかな太刀筋を呆然と見つめることしかできなかった。
レイモンド殿下の攻撃を受けた生き物は、逃げるように黒い森の中へと消えて行く。森に静けさが戻ると、彼はすっかり腰が抜けた私を気遣った。
「怪我はないか?」
「大丈夫です……ありがとう、ございます。あの、今のは一体……」
「あれはおそらく魔獣だろう。本当に存在するとはな」
「魔獣、ですか……?」
「この辺りは『魔女の森』だ。迂闊に足を踏み入れるなと教わらなかったのか?」
「えっ……?」
土地勘がなく気づかなかった。
魔女の森には、魔獣が棲み付いていると昔から言われていて、それも魔女の森に近づいてはいけない理由だった。
まさか自分がいつの間にか魔女の森にいて、魔獣に襲われるだなんて。彼が助けに来てくれなければ、また死んでいたかもしれない。そしてまた魔女……カーミラに会っていてもおかしくなかったというのに。その事実を実感すると、全身がまた震えた。
「まったく……」
レイモンド殿下はため息ひとつつき、私の手を引く。そのまま立ち上がらせてくれると、どこか呆れた表情を浮かべた。
「だから言っただろう、一人では危険だと」
「申し訳ございません……フレデリックを探していたのですが、なかなか会えなくて」
「何を言っている? あいつなら俺と一緒にいたぞ。お前の姿が見えなくなったから、手分けをして探しに来たんだ」
「え……?」
――どうして、レイモンド殿下と……? だって、シャーロットは……。
「とにかく雨も降りそうだ。森を抜け二人の元へ戻る」
「は、はい」
気になることはありつつも、今は二人と合流するのが先だ。
無事だった馬の元へ戻ろうとして、レイモン殿下が顔をしかめたことに気づいた。
――あれ……。
微かに、レイモンドの左足に違和感を感じる。
「もしかして殿下……怪我をされましたか?」
「……そんなわけないだろう。行くぞ」
不自然な間に、咄嗟に彼の腕を掴む。そして左足首に触れてみると、レイモン殿下は小さく声をあげた。
「やっぱり……先ほど私を庇ってくださった時に?」
「捻っただけだ。大したことではない」
「駄目ですよ、今すぐ手当しないと」
「なに、戻ってからでも――」
どちらも譲らない言い合いの末に、どんよりとした空から大粒の雫が落ちて来る。
ぽつぽつと降り出した雨はすぐに本降りになり、私たちは仕方なく近くで雨宿りをすることとなった。




