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6.手作りクッキー作戦(4)

「ごめんなさい……もう、こんなことしないから」


 嗚咽をこらえ涙を隠すように下を向く。クッキーを集めていると、その場にしゃがみ込んだフレデリックの手が伸びて来た。

 彼の長い指先が、地面に落ちたぼろぼろのクッキーをひとかけら掴む。そのまま形の良い唇に運ばれる様子があまりにも綺麗で、釘付けになった。

 ジンジャークッキーがフレデリックの口に運び込まれたあとで、はっとする。


「待って、それ落ちたクッキー……」

「――君が作ったものなら、どんなものでも食べるよ。たとえ相手が地面であっても譲りたくはないから」

「えっ……?」

「だから、もう泣かないでアイリス」


 今までと違う柔らかな眼差しに、呼吸をすることすら忘れてしまう。流れた涙を、フレデリックがそっと拭ってくれた。


「ありがとう、俺のために」


 突然の優しさにすっかり固まっている私を見て、彼は我に返ったのかぱっと手を離し視線を逸らす。


「……クッキーの件は、ごめん。人が心を込めて作ったものを適当にするなんて最低なことをしたよね。どうお詫びをしたらいいか」

「え、ええと……」

「落ちちゃったけど、残りもまだ食べられそうだからいただくよ」


 フレデリックは私の手から袋を奪うと、クッキーを詰め込んでいく。

 地面の上が綺麗になると、私の手を取って立ち上がらせてくれた。


「それじゃあ、気をつけて帰って」

「あ……」


 するりと離れていく手に、寂しさが募る。

 私は咄嗟にその手を追いかけていた。


「駄目、待って……その……」


 ――何としてでも引きとめなきゃ。何か言わなきゃ。


「お詫びを、してほしい。せっかく作ったのに、悲しかったから」

「え……」

「だから……もう私のこと避けないでほしいの」


 無茶苦茶なことを言っている自覚はある。

 だけどもう後戻りはできなくて――私は真っ直ぐにフレデリックの瞳を見つめた。



 執務室の机の上に置いた、粉々なジンジャークッキーが入った袋を見つめながら、つい先ほどの出来事を思い出す。


「アイリスが……俺のためにクッキーを? やっぱりこれは夢?」

「いいえ、現実でございます」


 一部始終を見ていたというグレンが二度首を横に振った。

 あの不器用なアイリスが俺のためにクッキーを焼いたというのは、紛れもない事実らしい。


「困ったな……食べるのがもったいない」

「一度落としたものですし、お腹を壊す可能性もございますから――」

「食べるなと言うつもり? アイリスが俺のために一生懸命作ったというのに?」

「……失礼いたしました」


 粉々になったクッキーは決して美味しそうには見えないけれど、溢れる彼女からの愛情を感じる。

 喜びで胸がいっぱいになる反面、アイリスには最低なことをしてしまったと心が痛んだ。彼女の泣き顔はもう二度と見たくない。二度と泣かせまいと心に誓ったのに。


 ――本当のことが言えたら……そう思うのは、俺の傲慢だね。


 ジンジャークッキーをひとかけら摘み、口に運ぶ。先ほどは突然のことで味がよくわからなかったけれど、俺が大好きなスパイスがたっぷりのジンジャークッキーだった。


「甘いな……」


 アイリスは「甘くないクッキー」と言うが、甘いものが苦手な俺にとっては十分に甘い。だけどこれだけが、唯一食べられる菓子だった。あの日、彼女がはじめてこれを作ってくれた日から――


 俺とアイリスの婚姻は、物心ついた時には決まっていた。自分は侯爵家の長男であり、自由がない。だからこそ、親同士が決めたことに反対する気もなかったし、二つ年下のアイリスのことは正直妹みたいな感覚だった。

 だけど、彼女はどうだっただろう。定期的に開かれる茶会で顔を合わせる時、アイリスはいつも俺の顔をうかがっていた。どこか恐れているように。

 だからはじめは、きっと俺のことが苦手だろうと思っていた。もし将来的に、アイリスが俺との婚約を望まないのであればどうにか解消しようとも。

 そんな二人のぎこちない関係性を変えたきっかけが、ジンジャークッキーだった。


「これは……?」


 普段通りの茶会の日、アイリスが箱に詰めたジンジャークッキーを取り出した。


「おかあさまと作ったの……そのフレデリックは甘いものが苦手って聞いたから、甘くないものをあげたくて」

「わざわざ俺のために?」

「だって、いつも私とのお茶会に付き合ってもらってるのに……嫌いなものばかりじゃつまらないでしょう……? 私とのお茶会はつまらないかもしれないけど……ちょっとでも楽しんでほしくて」


 自信がなさそうにアイリスが告げる。なぜ「付き合ってもらってる」とか「つまらない」とか、そんな後ろ向きな言葉ばかり出て来るのか戸惑ったけれど、すべては自分のせいだったと反省した。

 なぜなら俺自身がアイリスとの茶会中、菓子に手を付けなければ、積極的に彼女に対して話しかけるようなことをしなかったから。理由はもちろん、形式上の婚約相手だったからであり、アイリスにも負担に感じてほしくなかったのだ。そのこと自体が彼女を悩ませていたなんて。


「私は…フレデリックにも楽しんでほしい。それからもっと仲良くしたい……」


 手作りは、その気持ちがより伝わるようにと公爵夫人からの助言だったらしい。

 彼女の立場ならば、俺との関係を断ちたいと両親に乞うこともできるのに。純粋に、俺との良好な関係を望んでくれているのだと思い、嬉しかった。そして同時に申し訳なくも、情けなくもなった。どうせ形式だけの茶会だと、勝手に決めつけていた自分が。

 ひとくち食べたクッキーは甘くて、だけどなぜか心が温まるような不思議な味がした。


「美味しい……?」

「うん、美味しいよ」

「よかった……!」


 ぱあっと花が咲いたような笑顔。いつもこちらの顔色をうかがうような、怯えた彼女からはまるで想像できない笑顔だった。

 単純かもしれない。だけどその笑顔を見た瞬間に、アイリスを心から守りたいと思ったんだ。その愛らしい笑顔をもっと見せてほしいとも。

 あの瞬間が、俺にとっての初恋だった。


 これをすべて食べるべきか、それとも家宝にするべきか。不毛な選択に迷っていると、グレンがおもむろに口を開いた。


「……やはりアイリス様にお話しされてはどうでしょうか。気づかれるのも、時間の問題かと……」


 長年俺に仕えてきたグレンの言うことは、いつも正しく、彼の言う通りにしたほうが大抵のことが上手くいく。だからずっと、疑うことなく従ってきた。

 けれども――この気持ちだけは揺らがない。揺らいではいけない。愛しい人を守るために。

 覚悟を再認識すると、机の上のジンジャークッキーを宝物のようにしまい込んだ。


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