アップルパイ
パン屋に寄った休日の帰り道。
「甘酢っぱいってどんな味だっけ」
突然、横を歩く君が俯いたまま呟く。
夕暮れ時の茜空を見上げながら
「急に、そんなこと言われても分からないよ」
とヘラヘラしながら答えてみる。
僕の右手…というより、パン屋の紙袋をチラ見した君は「そっか」と言って、僕の左手を握った。
最近シワが気になってきたという君の手は、いつもと変わらない優しい温もりで安心する。
その反面、付き合いたての頃の気持ちを思い出して少しさみく思うこともある。
出会って間もない頃は、数日に一度ぎこちない会話をするだけでも心が躍った。
いつから君のことを好きになったとか、どんなキッカケで好きになったとかは覚えていない。
まぁ、顔が可愛いかったからなんて言ってもつまらないだろうし、良い言い訳も思いつかないので割愛しよう。
そんなこんなで、出会ってから数ヶ月。
なんの進展もないまま、僕はわずかに取れるコミニュケーションで満足するヘタレだった。
そんなある日、僕にとっての危険人物が現れたんだ。
彼は秘密主義でクールなアイツ。
恋愛関係のことに関しては非常に疎い自覚があったわけだが、先に君を好きになったとか、どれだけ想っているとかで望んでいる結果が得られるものではないことくらい理解していた。
日に日にアイツと君の距離が縮まっていくのに比例して、君を奪われるような、置いて行かれているような感覚に焦燥する日々。
口にできないような哀れな嫉妬心だけが募るのに耐えきれなくなった僕は、気がついたときには告白をしていた。
きっと僕のことだ。回りくどい告白をしたことは予想ができるが、なにぶん黒歴史は完全に抹消派。何も覚えていない。
だけどこの後のことは、ハッキリと覚えている。
突然告白をされた君は困ったような顔をしたんだ。
秘密主義でクールな、あいつのことが気がかりなのだろう。
仕方がないことだ。振られたとしても、ここで執着するような男にはなりたくない。
とは言いつつも、数々の言い訳が頭のなかを巡回して、後悔と羞恥が僕の脳を支配していく。
その間に困った顔から、バツの悪そうな顔になった君は、
「きみってわかりやすいよね。何ヶ月も前から気づいてたよ」
と小悪魔のような笑みを向ける。
あとから聞いた話、やっぱり君は秘密主義でクールなあいつのことが好きだったみたいだ。
なんで僕と付き合ったのか聞いたが、何度もはぐらかされたうえに結局は直感だそう。
それから時間は流れ、「あなにはわたしがいなくちゃダメでしょ」と逆プロポーズをされた。
我ながら情けない話だが、今でも幸せなんだから格好悪くても、プロポーズしてくれた君には感謝している。
結婚からも数十年が経って、今ではキスもハグもすることはなくなった。
巷でいう、絶滅危惧とういうものだろうか。
それでも…
「ねえねえ聞いてる?」
考え込んでいた僕に、君は頬を膨らませて顔を覗き込んでくる。
沈みかけの夕日に照らされた君の顔が赤く揺らめいて、とんでもなく愛おしく思えた。
「リンゴみたいに可愛らしいお顔だな」
素直な感想を伝えてみる。
「もう可愛いなんていう歳じゃないでしょ」
とはぐらかされた。
幾つになった君も、僕が好きになった君だろう?と、クサイセリフを思いついたが口には出さず
「リンゴといえば、さっき買ったアップルパイ楽しみだな〜」
と言って、僕は右手の紙袋を持ち上げて君に見せる。
「でも、ちょっと冷めちゃったねー」
と君は残念がったけど、僕は案外それもいいんじゃないかと思った。
出来立てはもちろん美味しいだろうけど、時間が経っても…そんな2人もまたいいんじゃないかなと思ったんだけど、これも口にはしないでおこう。
照れくさいからね。