宵の明星
「なんとまあ、絶景だね」
ある日の病棟。見渡す限りの白々しい無機質の片隅に、こじんまりと窓があった。切り取られた景色の中で、厳然と聳える山々を見据えながら、男は狼狽したような素振りでそう呟く。どこか達観したようで、それでいて悲壮感を孕んだ口調であった。あたりは朝焼け色に照らされて、この頃三日三晩降り注いだ細雪が、それを乱反射させていた。山肌はすっかりと雪化粧を纏わせた。――まるで、この無機質がどこまでも続くかのように――
男が入院に至った経緯は以下の通りである。
『男はとある体育の授業で、前方に飛び込む動作を誤り、右膝で額を打ち付けて、重度の陥没骨折をした。熱心な先生方は、男の容態を酷く心配されて、救急搬送の手配をして下さった。脳やその他神経への異常は一切ないが、額にメスを入れると今後一生傷が目立つとの医師の説明を受け、男は頭部を切り開き顔の皮を剥がすという手段を選んだ。当然、局部麻酔では対応しきれないので、全身麻酔での手術を行い、経過を観察する為の1週間の入院をすることになった』とまあ概略はこうだ。
手術までの期間、男は酷く身震いしていた。寒空の下、1人きりで過ごす病院生活。右も左も知らない人だらけ。ふとした時に、骨折の瞬間が何度もフラッシュバックし眠れない。――それだけではなく全身麻酔は死亡のリスクもある―― 麻酔科医に手渡された「万が一死亡に至った場合でも、当院は責任を取りかねます」と書かれた契約書に署名する時が、人生で最も緊張した。自分はここで死ぬのかと、そう思った。思わずにはいられなかった。けれど男はここで死んでも悔いはなかった。今日までの研鑽の日々とたくさんの人との出会いに悔いはなく、もうここで死んでも大丈夫だと思えたのだ。
一世一代の、覚悟の手術は見事成功した。男は何とか生き長らえた。これは神が「生きろ」と微笑んでくれたのだと、そう感じた。術後の女医の微笑む姿が忘れられない。まるで美術の時間に、絵画で何度も見た、ダ・ヴィンチの「モナリザ」のようだった。「あぁ、まだまだ生きていたい」そう心からの声が漏れる。あたりにはもう夜の帳が下りている。手術は7時間にも及んでいた。けれど、暗闇の中に、風前の灯火ではあれど、たしかに男は希望を抱いていた。
――ところが、その後の日々は、むしろ手術前よりも苦痛であった――
とめどなく溢れる血を抜くために、頭部に入れ込まれた血抜きのドレーン。容赦なく植え付けられた人工物は、あの日無意識の中で確かに男の額を切り裂いたメスの、おぞましいばかりの生々しさを心にうちつける。
治療で1度剥がされた額の皮は、触れど触れど、まるで自分の肌の気がしない。何度触っても痺れが取れない。鏡で見ると、少し黒ずんだ斑模様が、額を覆っている。まるで、この間までの自分の顔ではないようにさえ見える。
同室の面々も一際騒がしかった。4人部屋であったが、向かいの者は夜中までせんべいを食べ続け、同室の住人に啖呵を切る老人だった。左どなりの者は、高血圧で卒倒し救急搬送、院内でも血圧計を常につけなければ、いつ倒れるか分からないという容態。時々血圧計がエラーを起こし、鳴り響くアラーム、それを耳障りと文句を言うせんべいの老人。対角線上の者は、脳梗塞で右半身が麻痺していた。母音を発することしかできず、家族の手を握り返すことも出来ない。泣き叫ぶ最愛の妻、最愛の娘……。
その病室は男に世の理不尽と自分の無力さ叩きつけ続けた。
『当たり前の日々とはなんなのか』
――ある日突然、骨を折り入院に至った自分、手足が動かず言葉を発せなくなった同室の住人。泣き叫ぶ声。無鉄砲な人。鳴り響くアラーム。駆け寄る看護婦――
そんな問いの答えすらも、漠然としていて、見つからない。この時ばかりは、この解の模索が、砂漠から1粒の米を探すかの如き苦行にすら思えた。冷や汗が、背中を伝っていくのがわかる。気を紛らわすために、勉強をしようにも、吐き気が身を襲い、ままならない。1日に5回は吐いた。もう何も出なくなるほど吐いた。吐瀉物は、血が混じり、見たことの無い色をしていた。なんとも形容に尽くしがたく、筆も進まない色だ。まるで男に降り積もる鬱憤が、そのまま出たような見た目であった。
時間は刻一刻とすぎる。いつしか額の斑も消えた。いつしか皮膚の痺れもなくなった。ドレーンもかの女医の手によって抜き取られた。べっとりと髪にこべり着く血と瘡蓋は、自らの手で洗い流した。
ふと時計の針を見る。針は17時を指していた。窓を見やると、そこには金星が輝いていた。
「辛かった。辛かった」自分にはそんな思いしかないように思えていたが、そうでは無いのだ。
時計の音は意識しないと耳に入らない。けれど1度意識するとずっと耳から離れなくなる。――つまりいつしか恐怖心ばかりに目を向けていたのではないか。愛情も心配も何もかもを忘れて――
ふと見たあの金星も、明け方と夕暮れにしか現れないが、他の星々の何よりも輝いている。
男は、この時、金星の眩さに、この長い地球の歴史と比べれば、一瞬とも言える我々生命の神秘、輝きを重ねていた。そうして、少しはにかんだ。
Fin.