6 反対派との攻防
それから、ジェシカは毎日、僕との面談終了時刻になると僕に抱きついてきて、「オズ、また明日も来てね」「好き」と囁くようになった。
彼女曰く、自分がいつ死んでも後悔しないように、あと、他の男に靡いてもいいなどというふざけた婚約者が――本当にすみません――納得するように、全力で頑張っているらしい。
全力で頑張った結果が、背中に抱きついて震える声で二言囁くだけ。
なんて可愛い生き物なのだ。彼女が可愛すぎて、僕は彼女に毎日悩殺されている。僕の脳みそは彼女でいっぱいである。やはり彼女は悪魔で、僕への刺客だったのだ。彼女に殺されるなら、僕は本望だ。
「なんだろう。僕は死ぬのかもしれない」
「お兄様、妹に一体何を言ってるのよ!」
「えー。だってアイリーンが色々と一番進んでるじゃないか」
「最低! お兄様、最っ低!!」
アイリーンは、僕が留学から戻ってきた後のこの二年の間に、隣国に嫁いでいた。
僕たち兄弟姉妹の中で、一番最初に結婚したのだ。
男女関係に一番詳しいのは、彼女のはずだ。
そして、その彼女に、僕は怒られていた。
「大体ね、お兄様は何にもしなさすぎなのよ!」
「僕には資格がないから」
「お兄様になかったら誰にあるの!」
「……!」
そういう発想はなかった。
確かに、他の男にジェシカに触れる資格はないな!
ならば僕がちょっと彼女を抱きしめるくらい許されるだろうか……。
考え込んだ僕に、アイリーンは笑う。
「お兄様もジェシカお姉様も、幸せなのね」
「アイリーン」
「こんな話ができるようになるなんて思わなかった。私も頑張って良かったわ。まだまだ頑張るから、何かあったら知らせて」
胸を張るアイリーンに、僕は微笑む。
アイリーンは、本当に頑張ってくれた。
僕が留学中にジェシカを訪問してくれていたこともそうだけど、それ以上に、魔法医療機器の入手に一役買ってくれたのだ。
アイリーンが嫁いだ先であるスウィングラー王国は、魔法器具の製作技術に特化した国だ。
彼女はその立場を利用して、ほとんど医療器具のないオルタナシア王国に、魔法医療機器を大量に卸してくれたのである。
「本当に大変だったのよ。特需はありがたいけど、特需が終わった後のことも考えなきゃいけないんだから。大量の医療機器を作るために集めた人材や製作用設備の使い道とかね」
「そうか」
「結局、特需後は人材と設備を造船関係に回すことになったの。うちの国は海に面してるからね。海の資源はいくらあっても困らないものだし」
笑う彼女に、僕は感慨深く頷いた。
彼女にとって『うちの国』は既に、スウィングラー王国のことなのだ。けれども、彼女はジェシカのためにここまで動いてくれている。なんてありがたいことなんだろう。
「お兄様。ここが踏ん張りどころよ」
「最近みんな僕にそう言うんだよなあ」
「ふふ。お兄様は期待されてるからね」
彼女の明るい声に、僕は肩をすくめる。
みんなが、僕のために、ジェシカのために動いてくれている。
確かに、ここが正念場だ。
僕にもそれは分かっていた。
****
だけど、予算要求はなかなかうまくいかなかった。
どうしても、強硬な反対派がいて議決が通らないのだ。
「――聖女の稼働時間を下げることは認められない」
「陛下!」
「なんだこの予算案は。こんな莫大な費用をかけるメリットが少なすぎる。聖女には5時間の時間を与えている、格段に環境は良くなっているだろう」
「それでは睡眠時間にも足りません! 聖女は奴隷ではないのです、それどころか我が国の象徴ではありませんか。その労働時間は国民と同様に、いやそれ以上に厳しく上限管理されるべきです」
「その管理のために数億、数十億ジェリーを投じると?」
「そのとおりです、陛下」
「くだらない! 我が国は聖女の治癒の恩恵を国民全体が享受できることを理由に栄えてきた。その恩恵を失うだけでなく、ここまで金がかかるだと? 我が国の事業としては下策だ」
「お言葉ですが、恩恵を失う訳ではなく、聖女の稼働時間を減らし、恩恵の与え方を交通整理するだけです」
「屁理屈だ! お前の目指すところは、聖女の治癒を受けられる国民の数を減らし、我が国の売りを消し去り、国を衰退させるものだ!」
「それは違います。私は聖女の治療を受けられることを全面に出すこと禁じるつもりはありません! 聖女に依存しない医療体制を基礎に、他国では治療できないような患者のみを聖女に治療させればよいのです。全てを聖女に任せているようでは、聖女のいない魔の1ヶ月を国民が難なく過ごすことはできない。逆に、魔の1ヶ月であっても安心して過ごせる国となれば、我が国にはさらに人が集まるでしょう。聖女の為だけじゃない、この国の未来のために、金をかけてでもやるべき事業です!」
「大仰な理想論だが、それを実現する金は無尽蔵ではないぞ。費用を考えるなら、現状維持の方がよほど良い策だ。どこから金を捻出する気だ!」
「――議長。それについては、私から」
議会の場で言い争う僕と国王に口を挟んだのは、王太子である長兄のウォルトだ。
長兄の発言に、議長は頷く。
「他国の予算案を参考に、我が国の予算上、力が入っている事業をピックアップしました。予算の比率が高いのは、治水事業と街づくり観光事業です。しかしながら、他国の二倍近い予算を投じているにもかかわらず、成果は出ていないようです」
「なんだと!」
「それは我々への愚弄だぞ、王太子殿下!」
治水大臣と街づくり観光大臣が、長兄に食ってかかっている。この二人も、医療充実化事業の反対派だった。
「我が国では治水事業と称して、頻繁に橋を掛け直しています。資料を見ていただけると分かると思いますが、その回数は他国と比較すると異常だ」
「それは、我が国に川が多いからで……!」
「治している箇所の図面がこちらです。ここ十数年、同じ橋の工事を何度も繰り返している。費用の中抜きにより、掛けた橋自体に欠陥があったり、酷い場合は架空の工事に費用を投じているようです。これがその、横領の証拠となります」
配られた資料に、治水大臣は真っ青な顔をしている。
「街づくり観光事業に関しても、同様の状態が見られます。ここの費用を削減すれば、医療費に予算を数十億ジェリー回すことは可能です」
淡々と述べる長兄に、国王も反対派の大臣たちも、顔を赤くしたり青くしたり大忙しだ。
一方で、医療体制充実化の賛成派は、勢いを増している。
「……予算が余るとしても、それを医療体制の充実化に回すかどうかは話が別だ!」
「陛下!」
「聖女の治療を受けられること自体が、我が国の誇りであり、基盤なのだ。中位魔法程度を我々にかけるなど、烏滸がましいにも程がある!」
国王の言葉に、反対派の大臣たちまで勢いづく。
そのうち、医療体制充実化賛成派と反対派の対立によって、議場には罵声が飛び交いはじめてしまった。
「みなさま、お静かに! 静粛に! ――閉廷! 本日は閉廷します!」
結局、議長によって、その日の会議は中断となったのだった。
その日は流石に僕もゲンナリして、勇気を出してジェシカに甘えるべくおねだりをしてみた。
「ジェシカさん」
「はい」
僕の緊張を感じ取ったのか、ジェシカは僕の膝枕からゆっくりと起き上がると、僕と向き合ってくれる。
「お願いがあります」
あまりに緊張している僕に、ジェシカが段々蒼白な顔になっていく。
そんな彼女に僕は気が付かず、やっとの思いで、なんとか言葉を捻り出した。
「ぼ、僕から……抱きしめても……いいですか…………」
……彼女からは、返事がない。
僕はそんな彼女の様子に慌てて、必死に言い募った。
「すみません。調子に乗りすぎました」
「……」
「わ、分かってるんだ! まだ君のために大したことができてないのに、こんなふうにちゃっかり甘えるなんて、クソ野郎だと思ってるんだろう? 自戒が足りなかった。ごめんなさい」
「……」
「ちょっと、今日は落ち込むことがあって。でも、別に大したことじゃないんだ! ばかだな僕は。本当にすまない。君の近くに居られるだけでも十分幸せなことなのに、僕は……ジェ、ジェシカ!?」
ぽろぽろ涙をこぼしている彼女に、僕はこれ以上ない程狼狽える。
「……別れ話かと思った」
「絶対そんなことしない!」
「……私、全然大きくなれなくて。魅力的じゃないから」
「君はいつだって僕の女神だ!」
「オズは私を女神みたいに扱うけど、生身の女の子としての興味はあんまりないんでしょう?」
唖然とする僕に、ジェシカははらはらと涙をこぼしている。
「アイリーンが、男の人はちょっと抱きつくだけでイチコロだって言ってたのに、オズは私に全然興味がなさそう……」
一体何を吹き込んでいるんだアイリーン!?
僕がジェシカに興味がない!? どこの異次元の話だ!
「膝枕はしてくれるけど、手を繋ぐのは数ヶ月に一回だし、オズから抱きしめてくれたのは15歳の時の一回きりだし」
それは確かにそうだ。
数ヶ月に一回、僕は我慢できなくてジェシカの手を握ってしまっていた。そして、僕が彼女を思わず抱きしめてしまったのは、留学前のあの日だけ。
「私が抱きついたら、いつも慌てて帰っちゃう」
「ち、違うんだ、それは」
「……ほ、本当は本心で、私に……他の男の人に、靡いて欲しいんじゃないの? 私が、こんなふうだから……」
思わず僕は、彼女を抱きしめた。
まさかこんなに彼女を不安にさせていたなんて思いもよらなかった。僕はなんて間抜けなんだろう。
「ジェシカ、好きだ! 僕は君に興味しかない!」
「……本当に?」
「本当に。僕は身も心もいつだって君のものだ。毎日君の可愛い姿で頭はいっぱいだよ」
「……」
「ジェシカ」
涙に濡れた瞳で見つめる彼女に、僕が敵うはずもなく。
その瞳に誘われるように、僕は彼女と唇を重ね合わせていた。
理性を総動員して一度で終わらせようとしたけれど、唇を離した瞬間、嬉しさを噛み締めるみたいな顔をしたジェシカが目に入り、僕の理性は崩壊した。
何度も何度も彼女の唇を奪うけれども、全然止められない。ジェシカが潤んだ瞳で「待って」「もうだめ」と無意識に煽ってくるので更にやめられなくなり、僕は散々ジェシカに夢中になった。
うん、これは僕は悪くないと思う!
「オズは極端なのよ!」
最後にジェシカは真っ赤な顔で憤慨していた。
さっき、「私に興味がないの?」と泣いていた女の子と同一人物とは思えない。
「ジェシカ」
「なによ!」
「僕は大好きな女の子と毎日、二人だけで密室にいるんだよ? だけど、やるべきことを成せていなかったし、何より君を寝かせてあげたかったから、我慢に我慢を重ねていたんだ。なのに君は僕を煽ったんだから、君は受け入れるべきじゃないか」
「……わ、私……」
「明日から、覚悟して」
「……!!」
「冗談だよ」
僕の言葉に狼狽えるジェシカは、本当に可愛い。
あまりに可愛い様子に、僕がけらけら笑っていると、僕から距離をとって仁王立ちをしていた彼女は、悔しそうにプルプル震えていた。
「ジェシカ、こっちにおいで」
「……」
「ジェシー」
警戒してる猫みたいになった彼女は、僕に言われて、恐る恐る僕の横に腰を下ろす。
「ジェシカ、愛してる」
彼女の肩を寄せてそう伝えると、彼女は本当に嬉しそうに頬を緩める。
僕は幸せだった。
きっと、彼女も幸せを感じてくれているんだろう。
そのことが、更に僕に幸福感を与えた。
幸せすぎて、アイリーンにも言ったとおり、もうすぐ死ぬんじゃないかなとは思っていたんだ。
だから、翌日、ナイフで脇腹を刺されたときも、少し納得してしまった。
最近僕、ちょっと幸せすぎたからな。
だけどそうだな。
ジェシカが泣くのは嫌だなあと、僕は思った。