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2 独りよがりで何が悪い




 ジェシカに拒絶された翌日。


 僕は変わらず、いつもどおり、ジェシカに会いに行った。


 その翌日も、その翌々日も、その後もずっと、やっぱり毎日会いに行った。



 僕はジェシカに何も言わなかった。

 ジェシカも、僕に何も言わなかった。


 お互い、あの日のことはなかったことのように過ごしていた。



 だけど、僕はずっと考えていた。



 ずっとずっと、諦められなかった。




 だからまずは、自分の国の医療体制から調べることにした。


 結果は惨憺たるものだった。


「なんだ、この治療院の少なさは」

「殿下」

「そもそも、医療を学ぶ施設の少なさは何だ。大学の生徒がこれだけで、毎年排出される医師の数がたったこれだけだと?」


 調査結果書を共に見ていた僕の側近候補達は、青い顔をして沈黙している。


「たったこれだけしかいない医師のうち、さらに国際医師資格を取得できた者は、国内全体で見ても年に数人だけじゃないか!」


 調査結果書を机に叩きつけた僕に、側近候補達がおずおずと声を出す。


「殿下、仕方がないのです。我が国には聖女様がいます。聖女様が治してくれるのに、高い金を払って医者に診てもらう必要がないのです」

「医者になるためには、膨大な知識と経験、投資が必要になります。国際資格を取るとなればなおさらです。そして、我が国では、それだけの費用と努力を積み重ねただけの収入と地位は得られません」

「……!」


 分かってはいても、はっきりと言われると気持ちが追いつかない。


 この国は、聖女の存在に甘えきっている。


「……聖女に見てもらうには、寄付金がいるじゃないか」


 寄付金の高さで、聖女の治療順を買い取ることさえできる。

 だけど、寄付金が払えない者は……。


「殿下、そのとおりです。ですから、聖女の治療を受けられず医者に行くのは、治療費を踏み倒しかねない貧乏人だけです。この国で医者とは、なるために膨大な努力と金を必要する上に、栄誉も稼ぎも得られない職業なのです」


 頭を抱える僕に、側近たちはさらに追い打ちをかける。


「……巷の子供たちにも話を聞きましたが、医者という職業に憧れを抱く者は皆無でした」

「一方で、聖女になりたいという女児は沢山居ました。身内を治してもらった経験から、憧れを抱くようです」

「医者への反感ならありましたね。知っている知識をひけらかすばかりで、患者の状態に沿った対応ができない者が多いと」

「そもそも、聖女様の治療可能人数が多すぎます。国内には聖女専用の転送魔法陣が大量敷設されているので、何かあった時に医者が出てくる場面がほとんど無く……」


 あまりの惨状に、言葉が出なかった。



****



「たった一人の少女にこれだけ依存して、恥ずかしくないのか……」


 そう思った僕は、医療現場に身分を隠して入り込み、情報を集めた。


 自分でも医学の勉強法を始め、宮廷治療師について回り、様々な知識を得た。


 だけど、やはり全然だめだった。


 医療の現場には、やる気が感じられない。


 雑な診察に、おざなりな治療。治らなければ、金を溜めて聖女のところに行くよう指示。まともな薬も少なく、知識も経験も浅く偏った医者ばかり。

 僕が学んだ医学知識に関して質問しても、試験対策に丸暗記しただけだからと、理屈を理解しておらず質問に答えられない医者ばかりだった。


 宮廷治療師となった医者達はまだまともな方だったが、それでも相対的にマシなだけだ。

 何しろ、宮廷治療師まで成り上がると、王族の診察をしなければならないのだ。

 彼らは診察自体は得意だった。そして、治療が必要な王族を聖女のところに連れて行くまでの、時間稼ぎの応急処置のエキスパートだった……。



 僕は決意した。




****




「聞いたぞ、オズワルド。どういうことだ」

「国王陛下」

「何故、留学など」


 15歳になっていた僕は国内の学園に通っていたが、僕には学園の授業は物足りなかった。

 国内の貴族と同じレベルで学んでいるようでは間に合わないのだ。


 彼女に残された時間を考え、僕は馬車馬のように勉学に努めていた。


 だが、それでも足りない。

 僕だけが学びを深めても、それはただの個人の力だ。


 僕が必要としているものは、きっとこの国の中に居ては手に入らない。


「ご安心ください。この国の学園は卒業します。飛び級で1年間のみの通学となりますが」

「飛び級だと!? そんなものは認めない!」

「早期卒業については既に教師達とも調整済みです。今年1年で3年分の履修を済ませるなら問題ないと」

「問題ならある! あの貴族学園は、将来のコネクション作りの場という側面もあるのだ! それを、1年で終えるなど……」

「コネクション作りなら1年で十分です。それに、国内に関しては兄上達が既に関係作りを行っているので、私1人が多少欠けたところで不都合はありません。それよりも、私は国外のコネクションを作りに行きます」

「……学園は何をしているんだ! 学園長の責任だな、こんなことを認める訳には」

「陛下」


 僕の暗い瞳に、国王は息を呑む。


「学園長は、聖女切り替えの1ヶ月の間に、妻を亡くしています」


 青い顔をした国王に、僕は嗤った。


「学園長は私のやりたいことに賛同してくれました。――聖女がいなくても成り立つ国を作ることに」


 一歩近づく僕に、国王は怯んだのか、一歩下がる。


「この国は異常だ。聖女に全てを委ねすぎている。だからああいうことが起きる」

「ああいうこと?」

「聖女が亡くなり、次の聖女が治療をできるようになるまでの期間。切り替えのための1ヶ月の間に、国内で何人の死亡者が出たのか、ご存じですか」


 僕は調べた。

 聖女という制度に関して、この数年、ありとあらゆることを可能な限り調べた。


 国内人口が500万人のこの国で、あの1ヶ月、死者は2万人を超えていた。たった一月で250人に1人は死んだことになる。ちょうど流行病があった時期でもあったので、次々に死者が出たのだ


 そしてそれは当然の事態だった。


 原因は目に見えている。


 聖女に甘えて、ろくな治療法も知らない医者達。

 流行病に対して、国際的に普及しているワクチンも治療薬も調達できない国民。


 ――そして、確実に来ると分かっている聖女の治癒のない1ヶ月に対して、何の対策も取らない国家。


「……聖女の死は突発的だ。そして、聖女のいない1ヶ月を短くすることはできない。だから仕方がないのだ!」

「馬鹿なことを言わないでください。聖女の死は確かに突発的ですが、そのことと対策をとらないことは別問題だ」


 国王の言う事実は間違いではない。


 確かに、聖女の死は突発的なのだ。

 なぜなら、彼女達はいつだって過労死するのだから。


 そして、聖女が亡くなってから次の聖女が治療できるようになるまでの1ヶ月を、これ以上短くすることはできない。


 新たな聖女の選定会議が1週間。この期間に、聖女の家族に莫大な報奨金を渡し、王命でねじ伏せ、場合によっては口封じをする。

 聖杯が新たな聖女に力を授け、その力が馴染むまで、2週間。この間、聖女は地獄の苦しみを味わうのだという。

 その後の1週間で、国は聖女に対して教育を施す。心を折り、国の奴隷であることを認識させ、従順で人間味のない聖女という名の生き物を作り上げるのだ。


 急に訪れる(はざま)の期間。


 けれども、だから仕方がないなんてことは、絶対にない!


「ここまでして聖女に依存する環境を作っておきながら、肝心の聖女がいない1ヶ月に関して何の対策も施さないのは、ただの怠慢です」


 医者を育てるための費用対効果の悪さ。

 それを生み出す聖女を中心としたこの国の医療体制。

 それを構築したのが国なら、それを正すのも国でなければならない。


「私は医学の進んだエインズワース王国に留学します」

「私が認めなければ、留学などできない!」

「議会は私の留学を認めるでしょうね。そうなれば、あなたの同意は不要だ」


 僕は静かに、蔑んだ目で国王を見る。



「ジェシカが聖女になったときの1ヶ月。王宮にだけ外国の医師団が配置されていたことを、議員のみなさまは忘れていないようですよ」



 目を見開いた国王を見つめた後、僕は踵を返した。



 そんな僕に、国王は言う。



「――留学するなら、聖女の婚約者ではいられないぞ」



 足を止めた僕に、嘲笑うような声音で、男は吐き捨てた。


「聖女の婚約者は聖女の拠り所だ。その傍を離れるなど許されない。お前のジェシカは、傍を離れるお前ではなく、別の弁えた男を選ぶだろう。聖女のために何かを成そうとしても、結果はこんなものだぞ!」


 僕は息を吐いた後、もう一度彼と向き合う。


「構いません」

「なっ……」

「ジェシカが他の男を望むなら、彼女の望みどおりにしてください。私は彼女の婚約者でいたいから――彼女と幸せな結婚をしたいからこんなことをしている訳じゃない」


 静かにそう伝えると、目の前の男は狼狽えた。


「では、何故……」


 ふっと、失笑が漏れる。


「あなたは私の父親なのに、そんなことも分からないんですね」


 それだけ言うと、僕はもう一度踵を返した。


 今度は振り返らなかった。



 根回しは済んでいる。

 やるべきことも見えている。


 そして、今この時点で、この男の理解を求めるのは難しいことだと分かっている。


 息子として、父の理解を得たい気持ちは当然ある。


 けれども、僕の中の優先順位は既に決まっていて、彼の理解を得ることは、今なすべきことではなかった。



****



「留学しようと思うんだ」


 その日は、カラッと晴れた天気のいい日だった。

 このジメジメした話を雨の日なんかにしたくないと、そう思ったから、僕はその日を選んだ。


「……どういうことですか」


 僕の膝からゆっくりと起き上がったジェシカは、固い声でそう聞いてくる。


「隣国のエインズワース王国は医学が発達してるんだ。だから、僕はそこに勉強をしに」

「そうじゃない」


 怒りを含んだその言葉に、僕は失笑する。


「そうだね。ごめん」

「……私の傍を離れる気なの」

「そうだ」

「私のことを捨てるのね」

「それは違う」

「違わないわ!」


 初めて聞く強い声を、僕は真っ直ぐに受け止める。

 僕を見つめるその目は、その顔は、怒りに震えていた。

 15歳になった彼女は、今でもお人形のような見た目だった。まともな睡眠がなく、疲労困憊の彼女は、発育が悪かった。小さく細い、ボロボロの、金髪碧眼のお人形。


「私の命は短い。なのにどうして傍を離れるなんてことができるの」

「ジェシー」

「あなたは私を捨てるんだわ。私に縛られる毎日を捨てて、自分だけ自由に」

「違う」

「自分だけ楽しく過ごそうとしているのよ! 毎日こんな、暗いだけの場所に来るのが嫌に――」

「違う!!」


 僕は、ジェシカの手をとった。

 小さくて、細くて、頼りない手だ。

 みんなはこの手を、全てを癒す万能の手だという。力強く、みんなを支える手だと。


 みんなを、支えるべきだと。


 こんなにも、頼りなく震えているというのに。


「ジェシカ。僕は諦められないんだ」


 何度も、何度も考えた。


 僕がやろうとしていることは、本当に彼女のためになるのか。

 独りよがりじゃないのか、本当に着手する価値があるのか。

 僕も、ジェシカに甘えてしまっていいのではないか。余計なことをするなと言ってくれたジェシカに甘えて、何もしない方がいいんじゃないか。

 聖女がいない間に何人死のうとも、聖女に頼り切って甘えたこの国の全員が悪いのであって、それは僕の責任じゃないのではないか。国が、歴代の国王が、昔の王族達が悪いのだ。僕が生まれた時には現在の状況が出来上がっていたのだから、仕方がない。今の国王のように、引き継がれたものを、目を瞑ったまま受け入れるのが普通なのだ。僕が諦めるのも、仕方がないことで――。



(――そんな訳、あるか!)



 僕が諦めるのであれば、それは僕の責任だ。


 今ある状態を受け入れ、ジェシカに甘えるのであれば、僕もジェシカに全てを背負わせた犯人の一人だ。

 ごまかしたって、その事実は変わらない。


 それになんだ。

 僕のやろうとしていることが、独りよがりじゃないかどうかって?



 そんなの、独りよがりに決まっているだろうが!!



「僕はジェシカの現状を受け入れられない。僕は、ジェシカが普通の生活を送ることができる未来を諦められないんだ」

「余計なことをしないでと言ったわ!」

「分かっている。僕がやろうとしていることは、君にとって余計なことで、迷惑な話だ。全部僕の自分勝手な行動で、君のためにやろうとしていることじゃない」

「分かっているならやめて!」

「分かっていてもやめられないんだ。君の意思を無視してでも、僕はやる」


 頑なな僕に、ジェシカは息を荒げて震えている。


「……聖女の伴侶は、傍を離れたら意味がないわ」


 静かに耳を傾ける僕に、ジェシカは続ける。


「あなたのやろうとしていることは無謀よ。可能性があったとしても、私の短い命が続く間に成し遂げることができるとは思えない」

「そうだね」

「そんな不確かなものより、一分一秒でも長く私の傍にいるべきよ」

「君はそう言うだろうな」

「なら!」

「僕以外を、伴侶に選ぶといい」


 絶句したジェシカに、今度は僕が話し出す。


「留学に行く僕では、君にとって不足だろう。婚約者選びは数少ない君の権限だ。君が気にいる男を見つけて、次の婚約者にするといい」

「な……」

「この話は、僕の兄や妹にもしてある。次兄は、僕のやることに反対していた。年齢的に長兄のスペアもそろそろ不要だから、次兄も君の婚約者候補に含まれるだろう。彼は全てに目を瞑り、良い婚約者を演じてくれると思う」


 ジェシカが、ポロリと涙をこぼした。

 初めて見る彼女の涙に、僕はぎょっと目を剥いた。


「ジェ、ジェシカ……!?」

「や、やっぱり、私を捨てるんじゃないの!」

「え!? 違うけど」

「他の男に私を渡して、何も思わないなんて――」

「――何も思わないなんてこと、あるわけないじゃないか!!」


 思わず、声を荒げてしまった。

 ジェシカは、びくりと肩を震わせて、目を見開いている。


 何なんだ、国王も、ジェシカも!


「僕がどんな思いでこの話をしていると思ってるんだ!」

「……殿下」

「僕は君が好きだ!」


 心の底から、今の今まで抱えてきた思いを吐き出すように叫ぶ。


「何度も考えた。僕は、自分が一体どうしたいのか。僕は君のことを、どう思ってるのか」


 ジェシカに拒絶された時、僕はショックだった。


 ジェシカが、全てを知った上で僕に救いを求めなかったこと。婚約者を好きになるという『役割』をこなしていただけだったということ。何より、本来の――本音で語るジェシカと対面したのが、あの時が初めてだったということ。


 全てが僕の心を砕いたし、足元から全てが崩れ落ちていくようだった。



 そして考えた。



 僕が今まで見ていた彼女は幻想なのだ。

 彼女が彼女の意地と誇りをかけて作っている、人間味のないただ微笑むだけの聖女像。


 僕はその幻想に惹かれただけなのか、それとも本当に彼女が好きなのか。



 結果は、さっき言ったとおりだ。



「僕は君が好きだ。忘れようとしても、できないんだ。初めて会った時の、婚約が決まった時の、君と初めて話をした時の君の姿がずっと頭に残ってる。毎日会いにきてるのだって、僕が君に会いたいからだ。義理や同情なんかでこんなこと、続けられる訳ないだろうが!」

「……殿下」

「いつだって僕は君に惚れ直してる! 君は『役割』で僕の婚約者を演じているけど、僕はそうじゃない。僕は昔から今までずっと……君に…………」


 僕の告白に、ジェシカは唇を噛み締める。


「ふざ、けないで……」

「ジェシカ」

「……本当の私は、醜くて、恨みばかりを抱いている、汚い人間だわ。あなたに八つ当たりをして、なんとか自分を保ってる。あなたが好きな理想の聖女なんていないのよ!」

「僕は君が理想の聖女だから好きなんじゃない」

「嘘ばっかり! こんなふうに怒って、嫌味ばかりを言う歪んだ私が好きだっていうの!?」

「そうだ! 僕は、人間のジェシカが好きだ。みんなの理想の聖女(人形)なんてどうでもいい!」


 ジェシカは信じられないようなものを見る目で僕を見ている。


「僕は傀儡のように死んだジェシカじゃなくて、今みたいに本音で話してくれる君がいい」


 僕の望みは、ただそれだけだった。

 僕は何度考えても、彼女が好きなのだ。

 いつだって、自分を強く律する、正しくて強くて、そして弱くて壊れそうなジェシカ。

 僕はそんな彼女が、自分らしくいられないことがなによりも耐え難いのだ。


「……わ、私、本当はあんたのことなんて好きじゃない!」

「分かってる。それでも僕は君が好きなんだ」

「なんでよ! 私、あんたの前で酷いことしか言ってないわ!」

「嘘くさい笑いばっかり浮かべてるより全然いいよ」

「この変態!」


 流石の僕も、これにはちょっと凹んで俯いてしまう。

 そうしたら、何故か僕を罵倒したジェシカ本人が慌てていた。


「い、言いすぎたわ……」


 ……なんなんだよ。

 なんでこんな時に、この子は僕の気持ちなんかに気を遣うことができるんだ……。


 僕は胸をいっぱいにしたその気持ちを必死に抑えつけて、彼女の名前を呼ぶ。


「ジェシカ」

「……」

「僕は君に惚れてる。役割なんかじゃない。……でも、だからこそ、君の希望を叶えられないんだ。すまない……」


 不安そうな顔で僕を見上げてくるジェシカに、僕はなんとか微笑む。


「私の、希望……」

「全てに目を塞いでただ君の傍にいることに、僕が耐えられない」


 応接室のソファで向かい合ったまま、僕は彼女の手を強く握った。


 僕たちは婚約者だったけれども、恋人らしい触れ合いは一切したことがない。

 彼女に何もしてあげられない僕に、そんな資格はないからだ。こうして彼女の手を握るのが、僕の中でのギリギリ許されるラインだった。


 そして、きっとこれからは、こうして彼女に触れることすらなくなる。


「僕は君の環境を改善するために、動かないでいられない。そしてそれは、僕の独りよがりな行動だ。決して君自身のためじゃない。僕は僕の気持ちのためだけに行動している」

「……」

「だから、僕のことは忘れてくれていい。僕は君の理想の伴侶にはなれない……」


 その言葉を最後に、僕は彼女の手を離した。


 伝えるべきことは伝えた。

 僕に言えることは、きっともうない。



「……私が、治療しなかったら」


 ぽつり、とジェシカが呟いた。


「人が、死ぬの」

「……うん」

「子供が、妊婦さんが、お年寄りが、体力のある大人だって……わ、私が、休んでる間に、死んでしまうの」

「……」

「私の、せいなの。私が、休もうとするから。今この瞬間だって、本当は」

「ジェシカ、違う」

「私、だめよ。そんなの受け入れられない。あ、あなたのやろうとしていることは、そういうことだわ。私を休ませて、人を殺してしまう」

「ジェシカ!」


 ボロボロと涙を落とす彼女に、僕は向き合う。


「僕が君の背に乗っているものを降ろす」

「そんなの、無理よ」

「無理じゃない。君がいなくても人は死なないようにしてみせる」

「そんなの、信じられない」

「信じなくていい。だから、君は僕を忘れていた方がいい。僕のことはなかったことにして、次の婚約者を選ぶんだ」


 彼女は涙に濡れた瞳で、僕を見つめている。


「あなたは、それでいいの?」


 僕は真っ直ぐに、その視線を受け止めた。


「……それでいい」


 そう言葉にした瞬間、僕は彼女に頬をつねられた。


「……!? ジェ、ジェシカ……」

「ふふっ……」


 情けない顔をしているだろう僕を見ながら、彼女はくすくす笑っている。


 初めて見る朗らかに笑う彼女に、僕は自分の気持ちをねじ伏せるだけで精一杯だった。


「ばかな人」

「……そうだね」

「本当に、ばかよ。何にも得しないのに」

「……うん」

「だから、待っててあげる」


 彼女の言葉が頭に入ってこなくて、思わず僕は目を瞬く。


「……ジェシカ」

「他の男を見繕うなんて、面倒だし。次の婚約者なんていらない」

「ジェシカ、でも」

「別に、聖女の仕事なんて大したことないわ。あんたは勝手に隣国にでも行ったらいいのよ」

「待ってくれ、僕は……」

「何。それともあんたは、やっぱり私の婚約者でいるのが嫌なの」


 彼女は、じろりと僕を睨みつけてくる。

 そんな彼女を呆然として見ていたら、彼女が急に慌て始めた。


「ちょっと! あんたが泣くことないじゃないの」

「え?」


 驚いて顔に手をやると、手が濡れた。

 どうやら僕は泣いていたらしい。


「だ、だってジェシカ。待つだなんて」

「言い方が悪かったわね。しばらく次の婚約者が要らないだけよ。あんたなんか待ってやんない」

「……」

「でも、そうね。いつ帰ってくるつもりなの」


 床に目線を逸らす彼女に、僕はしどろもどろになる。


「短くて、2年。長いと、もっと……」

「……」

「だから待たなくても」

「あんたなんか待たないって言ってるでしょ!」


 吐き捨てる彼女に、僕は心臓が震えるようだった。

 服にパタパタと雫が落ちていくのを止められない。


「可能な限り、早く帰ってくる」

「別にいいわよ」

「毎日手紙を書くよ」

「別に要らない」

「毎週、映像通話で話そう。莫大な費用がかかるけど、聖女の特権があればそれくらいできるはずだ」

「……」

「ジェシカ」


 気がつくと、ジェシカの瞳も涙に濡れていた。


「3日に1回がいい」


 そう言ったジェシカを、僕は抱きしめた。

 初めて、抱きしめた。


「本当にいいのか」

「いいって言ってるでしょ。しつこいわ」

「うん……」


 ジェシカが、僕の服を握りしめる。


「オズワルド以外、要らない」


 それが、彼女が僕の名前を呼んだ初めての瞬間だった。



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