1 何も知らなかった僕
この国の第三王子である僕の婚約者は、ジェシカ。
ただのジェシカだ。
彼女は高貴な生まれだが、苗字はない。
だって、彼女はこの国の生贄なのだから。
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この国には、聖女が存在する。
生まれつきではない。
魔力の高い女性を神と契約させることで、国にたった一人だけの聖女を作り出すのだ。
僕が6歳の時、その瞬間はやってきた。
先代聖女が、30歳の若さで亡くなったからだ。
王妃である母は、6歳の僕を連れ、聖女誕生の儀式に僕を参列させた。
「オズワルド。彼女があなたの婚約者になるのよ」
そう言った母は、悲壮な顔をしていた。
僕は母の言う意味も、母が悲壮な顔をしている理由も分からず、ただただ儀式に魅入っていた。
聖杯を核として、司祭が金色の髪の彼女に、聖女としての資格だという黄色い光を降ろしていく。
それが彼女にとって何を意味するか知らなかった僕は、その神々しい儀式に、ただただ見惚れていた。
見ていただけの、何も知らない、愚かな子どもだった。
****
その1ヶ月後、僕は改めて、彼女と対面した。
その時には、僕は『コンヤクシャ』というものが何かを知っていた。
コンヤクというのは、将来夫婦になるという約束で、コンヤクシャになってくれた相手は、僕と生涯、一緒にいてくれるというのだ。
僕は嬉しかった。
聖女誕生の儀式で遠目に見たあの少女。
あんなに綺麗な子がずっと一緒にいてくれるなんて、なんて素敵なことなんだろう。
そんなふうに期待に胸を膨らませながら対面した彼女は、金髪碧眼の、小さな少女だった。
間近で見る彼女は本当に可愛くて、こぼれ落ちそうなちょっと垂れ目の大きな瞳も、長いまつ毛も、ちょっと厚めのぽってりした桜色の唇もみんなみんな可愛い。
僕は大きくなった後も、この日のことを何度も振り返るくらい、僕にとっては素敵な出会いだった。
「ご機嫌よう、聖女さま」
「……ご機嫌よう、第三王子殿下」
少し警戒した素振りの彼女は、年齢にそぐわない完璧なカーテシーで、僕に挨拶してくれる。
頬を染めて彼女に見惚れる僕を、彼女はしばらく、何の感情もない瞳で見ていた。
「あなた様が、私の婚約者なのですね」
鈴のような声音でそう言われて、僕は何度も縦に首を振る。
「そ、そうです。私があなたの婚約者になった、オズワルドです」
「……」
「あなたのような可愛らしい方と婚約できて、とても嬉しいです。大切にします、よろしくお願いします」
僕の言葉に、彼女は少し目を見開く。
僕は何か、変なことを言っただろうか。
彼女はしばらく考えるようにした後、ふわりと、花が溢れるような笑顔を浮かべた。
「よろしくお願いします。……私だけの、王子様」
その輝くような美しさに、僕は一気に心を奪われる。
その日の夜は、なかなか興奮して寝付けなかった。
なんて素敵な婚約者を得たのだろうと、ずっと胸をときめかせていた。
「凄く可愛い女の子だったんだ!」「仲良くなれるといいな。ねえ、父上、母上!」と喜ぶ僕に、父も母も暗い顔をしていたが、その時の僕はそのことに気がつくことはなかった。
****
そして、僕は12歳になった。
この頃には、さすがの僕も、ジェシカを取り囲む状況がおかしいことに気がついていた。
神殿の応接室の前まで来た僕に、神官の一人が声をかけてくる。
「面会時間は30分だけです」
「……分かっている」
そう言って、入口にいる侍女に先触れを頼み、部屋に入室する。
そこには、力無く微笑むジェシカがいた。
「いらっしゃいませ、殿下」
「うん。……二人で話すから、人払いを」
そう言って、毎回のことではあるが、嫌そうな顔をする神官達を部屋の外に追い払う。
すると、ジェシカはへたりと、ソファに背中を預けるようにして力を抜いた。
「ジェシー!」
「大丈夫です。少し疲れただけですわ」
「少しなんかじゃ……」
全然、少しじゃない。
彼女は、聖女となった6歳の頃から、馬車馬のように働かされてきた。
国で唯一の、高位治癒魔法の使い手。
私の婚約者は、そんな重たいものを、6歳の頃から背負わされていた。
「すみません、おもてなしもできず」
「いい。構わないから、いつものように横になってくれ」
僕は彼女の隣に座ると、彼女をソファに横にして膝枕をした。
王子である僕との面会時間だけは、彼女は誰にも邪魔されずにいることができる。
だから僕は、この状況に気がつき、自分で自分のスケジュールを管理できるようになってからは毎日、1日たりとも欠かさず神殿にやってきては、彼女をこうして寝かせていた。
「でも、ここのところずっと、殿下とちゃんとお話しできてなくて……」
「病人が多い時期は仕方がない。今は流行病もあるからな。いいから休んでくれ」
この神殿には、彼女の力の恩恵に預かろうと、人々は昼夜問わず殺到する。
治療はできて当然。
就寝時間でも叩き起こされ、体調不良で魔法が使えない間に人が死ぬと、これでもかと非難される。
それを彼女は、ただ一人、幼いその身で全てを背負っていた。
遊ぶ暇どころか、休む暇もろくにないこの生活は、とてもまともな人間のものではない。
(こんなの、奴隷じゃないか……)
すやすやと眠りについた彼女の目の下には、もはや消えないのではないかと思うくらい濃いクマができている。
肌も髪もボロボロで、とても同じ歳の令嬢の姿とは思えない荒みようだった。
もちろん、彼女の健康管理のため、食費や美容費には糸目をつけていない。彼女のためだけに、この神殿には、専属のマッサージ師もいるし、リラクゼーション効果のあるものは全て取り揃えられている。
しかし、そんなものでは意味がないのだ。
彼女に必要なのは、体を休める時間で、人としてあるべき余暇だ。
実際、まともにマッサージの施術を受ける間もないらしい。短い睡眠で叩き起こされることが多い彼女は、短時間の睡眠に集中するため、寝ている間にマッサージを施すことも拒絶するのだという。
聖女の普段の正装は、顔を隠すヴェールがついている。
それがボロボロの彼女を隠しているため、人々は彼女の疲労に気がつかない。
気がつくのは、本人と神官達、そして……。
(王族……)
ピクリとも震えることのない彼女のまつ毛を見ながら、僕は痛いほど手を握り締める。
彼女をここから救い出してあげたい。
僕は、段々とそんなふうに考えるようになっていた。
****
ある日、耐えられなくなった僕は、父上と母上、それから兄二人と妹三人がいる家族団欒の場で訴えた。
「ジェシカの扱いが酷すぎる」
その話をした瞬間、全員がシーンと静まり返った。
だけど、僕は言わねばならない。
「聖女ってなんなんだ。あんなの、ただの奴隷じゃないか!」
憤る僕に、父上と母上は顔を見合わせた後、私に向き直った。
「いい機会だ。オズワルドだけじゃない、みんなよく聞きなさい」
僕を含め、子ども達に向き合った両親は、残酷な事実を告げた。
「まさしく、あれはこの国の奴隷だ」
「父上!!」
「聖杯の力により、治癒の力を賜われるのは、国に一人。土地の力を吸い上げているのか、国に二人以上同時に存在することはできない」
「領土の狭い小国の場合、複数の国を合わせて一人、という場合もあるわね」
「複数人の聖女は生まれない。だから仕方がないのだ」
「仕方がないで済ませる問題じゃない!」
「彼女に余暇を与えたらどうなる? 夜中に亡くなりかけた産婦に死ねと? 事故に遭って息も絶え絶えな子供に、彼女の就業時間まで待てというのか。魔物に襲われた村の戦士達を放っておけと?」
言い募る父上を、僕は睨みつける。
「その代わり、聖女は死んでもいいって言うのか」
「オズワルド」
「僕は知ってる。うちの国の聖女はみんな、短命だ。先代は30歳で亡くなったけど、先々代は26歳だったし、その前はもっと若かった! 父上は、国民の、多数の期待に応えるために、聖女の寿命を削ってもいいって言うのか!」
「そうだ」
僕の叫びに、最も畏れていた答えが返ってくる。
「そうだ、オズワルド。それが正義だ。多数のために一人を犠牲にする、それが国王としての責務だ」
「そんなのは違う!」
「我が国は他国と違い、聖女の力に関して門戸を開いてきた。多額の寄付金さえ払えば、誰でも聖女の力の恩恵に預かれる。そんな国は他にはない。だから人が増え、国として成長し、大国として成り上がってきた」
理解できない。
父上が、この人が何を言っているのか、理解できなかった。
大国に成長。
それは、聖女という名の少女の犠牲を出してまでするべきことなのか?
「それに、オズワルド。お前がいるではないか」
「……僕?」
怒りに震える僕に、父上――目の前の理解できない生き物が曰う。
「聖女の力を発現させるためには、愛が必要だ。その内容は何でもいい。心の安定、相手を思いやる心、――異性への思慕」
血の気が引いていく。
僕が一体、何だって?
「我が国の聖女には、聖女の望む婚約者をつける。国に縛り付けることができる、王族か高位貴族の中からな。お前が気に入られなければ、次の候補を当てがうところだったが、その必要はなかったようだ」
言葉もない僕に、目の前の男は話を続ける。
「聖女の伴侶、力の拠り所。聖女の幸せのためだけに当てがわれる存在。先代は私の弟だった。あれは賢い男だったよ。お前もあれから学ぶといい」
「なに、を……」
「聖女が亡くなれば、後妻を娶れる」
「ふざけるな!」
なんだ。なんなんだ、この国は――この国の、国王は。
「ふざけてなどいない。聖女の伴侶には、代々、聖女には伏せた第二の婚約者を設けている」
「……オズワルド。聖女に肩入れするのはおやめなさい。あなたが辛くなるだけよ」
「母上まで、何を言っているのです!」
「あの子とは、本当の意味で結婚はできない。聖女に子を産ませる暇はないのよ」
ぐらり、と目の前が暗くなるようだった。
これはなんだ。
彼女一人を犠牲にしているとは思ってはいたが、一体どこまで腐っているんだ。
兄達も妹達も、僕と両親のやりとりを聞いて、真っ青な顔をしている。
僕はただ、怒りと、何よりも自分の無力さに、ただ唇を噛み締めて震えていた。
「事情を知った、弁えた娘を本当の婚約者にするの。聖女が亡くなったら、その娘と結婚なさい。それがあなたの幸せのためよ」
「オズワルド。今は分からないかもしれないが、いつかきっと私達の考えが分かるようになる」
「そんな日は来ない」
「オズワルド」
僕は両親の目を見て、はっきりと言う。
これだけは言っておかねばならない。
「僕は、ジェシカ以外を婚約者として迎え入れたりはしない。たとえそれが、王命であってもだ」
「オズ……」
「僕に理解を求めるな。あなた達のしていることは、人間のやることじゃない」
そう言って、僕はその場を立ち去った。
それから、僕は家族の団欒の場に出なくなった。
とてもまともに両親の顔を見られなかった。
だけど、そんなことはどうでもいい。
僕が家族と仲が良かろうと不仲だろうと、それは大きな問題ではなかった。
(一体、どうしたらいいんだ)
彼女が救われる道が分からない。
僕の力でできることは、あるのだろうか。
****
もうすぐ13歳になるある日。
その日も僕は、ジェシカに会いに行っていた。
彼女を横にしたまま、僕は彼女に話しかける。
「……僕が、浮気したらいいんだろうか」
「……殿下?」
僕の呟きに、ジェシカがゆっくりと、疲労を感じさせる動きで体を起こした。
「ジェシー、寝ていてくれ」
「そんな話を聞いて寝ていられません」
「じゃあせめてソファーにもたれて」
「殿下」
真っ直ぐに僕を見てくるボロボロの彼女に、僕は考えたことを伝える。
「君は、僕のことが好きだろう?」
「……」
「僕が、他の女性と仲良くする。そうしたら、君は傷ついて、聖女の力をうまく使えなくなるんじゃないか。君は、僕が好きだから、僕以外とは婚約をしたくないと駄々をこねる。そうしたら、君は使い物にならない聖女だ。原因は全て僕で――」
――その暗い瞳に、思わず息を呑んだ。
今まで、6歳の時から今に至るまで、見たこともないような暗い静謐。
その視線が、僕を黙らせた。
とても言葉を口にできなかった。
「余計なことをしないで」
彼女を思って、彼女のために考えていた僕に投げかけられた言葉は、拒絶の言葉だった。
「変な気を回すのはおやめください。それは不要です」
出会ってから今まで、彼女は常に僕に微笑んでくれていた。寝顔を見せてくれたことも、他愛のない話をしてくれたこともある。
けれども、拒絶の言葉を発したのは、初めてだった。
彼女はどんな時でも、僕に弱音を吐くどころか、否定的な言葉を一切口にしたことがなかったのだと――この時初めて、僕は思い知った。
「それは毒です。無闇に振り回すと全てが崩れ落ちます」
「……それ……って……」
「希望は、ただの幻想です」
なんの期待もない事実だけを述べる声音に、手の震えが止まらない。
「私はそんなものを望んでいない。ちゃんと弁えています。だから、あなたも役割をこなして」
「役、割……?」
「そう。役割」
子どもに噛んでいい含めるかのように、ジェシカは僕に言い聞かせる。
「あなたは、私を支える人。私を好きでいる人。私のために考える人。そういう役割。それが仕事でしょう」
「仕事なんかじゃない!」
「仕事よ。そして私は、それに騙されて乗せられ、利用される人。それが仕事で、役割」
「役割……」
ジェシカは頷きながら、僕を置いて、続ける。
「あなたは精一杯、私を騙して。私が生きている間は、私を一番に愛しているのだと信じさせて」
「騙す、なんて」
「私を騙し切ってくれるのであれば、仕事をこなしてくれるなら、あとは何をしていても私は構わない」
僕は目を見開く。
彼女の最後の言葉が何を指しているのか分かってしまった。
彼女も――第二の婚約者を作ってもいいと、僕に唆しているのだ。
「うふ、ふふふっ」
「ジェ、ジェシカ……」
「……私が生きている限り、あなたの一番は私のもの」
ジェシカの仄暗い笑い声が部屋に妙に響く。
「遊ぶことも、本当に結婚することも、子どもを作ることも、仕事を選ぶことも、何もできなくてもいいの」
知っているのだ。
ジェシカは、全て知っていた。
知らなかったのは僕だけだ。彼女がどういう運命にあるのか、知らなかったのは、僕だけ。
「私が死ぬまで、あなたは私だけの王子様」
「ジェシカ」
「それだけでいい。だから、余計なことはしないで。迷惑よ」
彼女がそう言ったところで、外から「30分経ちました」との声がかかり、彼女は職場に戻って行ってしまった。
残されたのは、呆然とした僕だけだった。
ジェシカの言っていることが、頭をぐるぐると駆け巡る。
いつだって、彼女は僕の前で、ふわふわと微笑んでいた。弱音も吐かないし、疲労困憊だけれど、正に聖女と言っていい優等生ぶりだった。
何の人間味もない、優しさの塊。人々にとって理想の聖女。
それを体現した彼女が、初めて僕に牙を剥いたのだ。
僕が、余計なことをしようとしたから。
僕は彼女のために何かできないかと考えていた。
彼女をこの環境から救い出すために。
だけど、彼女はすでに受け入れていた。
彼女の暗い瞳には諦めの色しかなかった。
僕のやろうとしたことは、彼女の目から見ると無駄な抵抗で、強い諦めによって保たれている彼女の精神を抉るものでしかなかったのだ。
僕はどうするべきだろうか。
みんな、僕が諦めることを望んでいる。
当の本人である彼女でさえそうなのだ。
それならば、僕は――。