without you
ずっと前の話。
ずっと昔、小さな箱の中にいた。
元々歩くのが苦手だということもあってか、部屋から出ることはなかった。でも外の世界に興味などなかったし、それが私にとっての一番の幸せと思っていた。
しかし、この箱に来るずっと前、外の世界の空気を吸ったことがある。
とても幼い頃だったから、あまり覚えていない。はしゃぎながら私は駆け出し、見たことのない周囲のもの全てに感動した。
だれど、黒い大きなものを視界に捉えた次の瞬間、大きな衝撃が身体中に伝わった。それからだ、この箱で生活するようになったのは。
格子の隙間から見える風景はいつも変わりなく穏やかだ。
暖かな頃は澄んだ風が挨拶しに来たし、凍える頃は暖炉がパチパチと他愛もない会話をしていた。
そんな情景を見るのはとても和やかな気分になれたし、それはこの部屋の時の流れがゆっくりなのだという認知を遅らせた。
「ニーナ、あんまり暴れちゃダメだよ」
彼女が優しい声で名前を呼ぶ。
時折彼女はこの箱の中から、連れ出してくれる。彼女の手の上は柔らかくて、この少し尖った爪が肌を傷つけてしまわないかと、たまに心配になる。
しかし、痛くはないらしい。体を動かすたびに、むしろくすぐったそうに小さく笑うのだ。そして、私の黒い肉球を飽きることなくずっと触る。
不思議に思い、彼女の名前を呼ぶ。言葉は伝わってないのかもしれないけれど、彼女は相変わらず同じように笑って、
「ニーナは可愛いなぁ」
そんなことを言って、黒くふわふわした毛の頭を撫でるのだ。
彼女の指は折れそうなくらいとても細くて、不健康に色白で骨ばっているのに、いつも温かく感じた。丈夫で、強くて、包み込むような温度があった。
しかしある日から、彼女は目の前に現れなくなった。
彼女はどこへ行ったのか、風や暖炉に聞いてみても、わかったようなわからないような、口ごもった奇妙な返答しか返ってこない。
彼女の隣でよく見た女性に、彼女に似ているけどずっと老いた女性に、自分の持てる限りの声で訴えかける。でも、どこか澱んだ悲しい目で見つめ返す以外に、何のことをしようともしない。
何も、できなかった。
ここは全てが歪んで、大切なものが欠落した部屋になった。そしてそれは、二度と戻らないものなのだと解った。
そんな日が、ずっと続いて、どれくらい経ったかはわからない。
だがある日、彼女に似た女性に箱の中を掃除してもらっている間、不馴れながら少し動いてみた。
いつもは掃除をしてくれる人の側を離れないのだが、その日は自分の可能性を見てみたくて、少し重たい両腕を動かしてみた。
女性から脚を離し、腕に力を込める。女性の手も少ししわが増え、力が弱くなっているようで、簡単に抜け出せた。
空中にふわと浮き上がったその瞬間、視界がぐらついた。視界は急速に流れ、天井がどんどん遠ざかり、豪華な明かりの光が目を刺した。
息を飲んだような悲痛な声が耳の中に聞こえ、背中に大きな衝撃が走った。
女性の手の中にあったタオルが、柔らかい音を立てて私の横に落ちた。腕から脚から、小さな自分の体から力のようなものが流れ出ているような気がした。
にーな、と呼ぶ声が聞こえる気がする。
ごわごわしたカーペットの床に体を貼り付けたまま、私は暗くなる世界の中で、やがて気を失った。
**
次に気付いた時、私は道路に立っていた。
長く続く道路だ。わりと新しいのか、綺麗な堅い灰色のコンクリートが掌に冷たい感覚を与えている。
掌、もとい、脚を見ると、ピンクのぷにぷにした肉球が見えた。地面の汚れか土か泥か、薄い灰色に汚れていた。
右を見ても左を見ても、赤や青の屋根の家が並んでいる。
遠くを見やると、青々と地面を覆う緑と、その隙間を敷き詰めるようにビルやタワーのような細長い建物が寄り添っていた。
目の前に広がる無機質な景色をぼーっと眺めていると、
「チロー!」
少し高めの子供の声がして、背中に何かがぶつかった。衝撃で口から、わふ、と声が漏れる。
首をずらし横目で見ると、やはり小さい女の子だった。二歳か三歳くらいの、幼稚園生くらいの女の子だった。
女の子は笑いながら私の頭を撫でまわし、ぼさぼさでごわごわなこの白い毛をつかんだりひっぱりして、少し痛かった。
しばらくされるがままになっていたら、
「こら、マコっ」
と窘めるような女性の声がした。
するとほぼ同時に、髭をいじくりながら体に張り付いていた女の子が、きゃああと言い、離れた。
わぁわぁと抗議の声を上げる女の子。
その声の方へ振り向くと、女の子と少しだけ顔つきの似た女性が女の子を抱えていた。その傍に、にこやかな笑みを浮かべる男性もいた。
「なんだよー」
「マコ、あんまり乱暴にチロをなでちゃダメよ?」
「らんぼーじゃないよー!」
女性の腕の中で、女の子は不満気にぷくっと膨れてみせる。
それを見ていた女性は困ったような表情をしていたが、すぐに耐え切れないような顔つきになって小さく笑った。
女性の隣に立つ男性が、笑いながらその膨れた頬をつつく。女の子はくすぐったそうに、きゃあと笑った。
それから、男性がはっと気づいたように、スニーカーでコンクリートの地面を踏みしめ近づいてきた。しゃがみこんで、穏やかな目つきで覗き込んでくる。
「チロはいい子だなぁ」
男性はそう言って、地面に広がっていた赤い紐を持った。その紐を辿ると、どうやら首に繋がっているようだった。
女の子が女性の腕から放たれ、とたとたと軽い足取りで、こちらに寄ってきた。
さっきよりも優しく、気遣うような手つきで毛をわふわふしながら、
「えへへー」
と、歯を見せた。
「チロとマコはなかよしだもんね!」
そして照れたようににかっと笑った。
小さなその腕に抱かれ、私は彼女の頬を優しく舐めた。
彼女は軽い足取りで先を歩きはじめる。ピアノの上で跳ねる指先の様に、素敵な時間を奏でている。
私はマコに紐を引かれて、いつも一緒にいた。
マコといつものように、ママさんとパパさんと、公園まで遊びに行くところだった。
彼女はいつも楽しそうだ。
あらゆるものが新鮮で、すべてが彼女を暖かく包み育てる。与えられるであろう未来は、彼女を幸せへ導くだろう。
ふわふわと漂うように、マコは私の首に繋がる紐を引く。
ママさんとパパさんの元を離れ、胸の高鳴りを抑えられないように、マコは先を歩く。
「マコ!」
突然、ママさんの声が響いた。
驚いて、ママさんの方を振り返る。少し焦ったような顔だった。
「へっ……?」
ぐいっと、首が引かれた。
多少の痛みを感じたが、引いているのは年端もいかない少女なので、なんとか立っていられた。
だが一方、バランスを崩したマコは、道路の真ん中で尻餅をついた。いったぁい、と、わずかに涙目になる。
前足の肉球から、重い振動音が伝わって来る。
何かが迫って来る、何か悪いものが。心臓のあたりがどくどく大きな音を立てて、黒い靄が広がっていく。
早く行こう、と吠えて、マコを引っ張る。
マコはよろよろと立ち上がり、私とのつなぎ目を持ち直す。
胸騒ぎが大きくなる。私は出来る限りの力で、マコを道路の端へ押した。
私の足に赤い紐が絡まり、マコが、持ち直していたはずの紐を手放す。
まとわりつく不穏な予感に駆り立てられ、私は精一杯の力でマコを歩道に追いやった。思わず、やった、とひと吠えして、一息を付いた。
そのとき、チロ、とマコが私を呼ぶ声がした。
見るとマコの顔は、以前風邪をひいて寝込んでいた時よりも、近所の男の子と喧嘩して泣いた時よりも、パパさんの宝物を壊して怒られた時よりも、凄く青ざめていた。
マコの声に応じようとして、ようやく、近づく音が大きくなっていることに気づいた。
その瞬間、自分の近くまで来ていた、胸騒ぎの正体と鉢合わせした。
からだが軽々と宙に投げられ、今まで経験したことのない勢いと速さで、私は地面に叩きつけられた。
霞んだ視界の中、からだのいろんなところから、大切なものが急速にこぼれ落ちていくような感覚がした。ひぅ、と口から息が漏れる。
赤い水のようなものが流れ出して、慌てて来たママさんの優しい手が、その流出源を抑えていた。
すごく熱かった。
でもでもそれと同時に訪れた腑抜けるような安心感で、私は思わず目を閉じた。




