9 ここに来た意味
結婚式を挙げた翌日からは、サラの予定にもかなり余裕ができた。
というものの、サラがするべき公務はほとんどなく、人質らしく大人しくさえしてくれればいいという感じだったのだ。
(国王陛下や太后様からのお手紙も見たけれど、普通にいい人っぽいんだよね……)
朝の身仕度を調えた後、朝食を待つサラはデスクに頬杖をつき、思う。
手紙には、「リシャールの花嫁になってくれて、ありがとう」「離宮は二人のものだから、気を楽にして暮らしてほしい」「また今度挨拶に行くから、様子などを聞かせてほしい」という旨がしたためられていた。
敗戦国の王女を鬱陶しがるというより、気難しい王兄の妃になったサラを気遣うような言葉までちりばめられていて、さしものサラも「こんなのでいいのかな」と疑心暗鬼になってしまったくらいだ。
(嫌われるよりはずっといいけれど……)
ふうっと息をついて立ち上がり、固く閉ざされた白いドアを見やる。
あのドアは、リシャールの寝室に繋がっている。だがあちら側から鍵が掛かっており、開かれる気配はない。
(それもそうだよね。リシャール殿下は私と夜を過ごすつもりはないんだから)
昨夜は結婚式を終えて初めての夜であったが、お互い「おやすみなさい」を言うだけで終わった。ベッドに入った後もサラはしばらく耳をそばだてていたのだが、結局サラが寝付くまでに隣の部屋のドアが開かれる音がしなかった。
(今朝も、まだ起きていないみたいだし……夜も朝も遅いタイプなのかな)
せっかくなのだからリシャールと仲よくなるために朝食でも一緒にしたいのだが、多分嫌がられるだろう。
間もなく、朝食の載ったワゴンを押した侍女がやってきた。離宮には数名の侍女が仕えていて、彼女はサラ付きになったのだと昨日自己紹介されていた。
「おはようございます、エルミーヌ様。朝食にいたしましょうか」
「ええ、いただくわ」
立ち上がったサラがテーブルに向かうと、侍女は手早くテーブルセッティングし、朝食の仕度を始めてくれた……のだが。
彼女が水の入ったポットを手にしてそっとその表面を撫でると、すぐにコポコポと湯が沸騰する音が聞こえてくる。
(昨日初めてこれを見たときは驚いてしまったけど……異能って、本当にすごいな)
「……クレアの能力って、とても便利よね」
ポットを見つめるサラがしみじみ言うと、侍女クレアはサラを見、微笑んだ。
「ありがとうございます。この力は日常生活でもとても役に立つのですが、こうしてエルミーヌ様のお役に立てて嬉しいです」
クレアは下級貴族出身で、「触れた物体の温度を変える」という異能を持っていた。
彼女が触れると水は瞬時に沸騰し、氷の塊は一瞬で水になり、ぬるくなったスープをほどよい温度に温めることができる。サラにとっては驚きだが、この力を持つ者はそれほど珍しいわけではなく、幼少期にしっかり鍛えてから平民なら食堂などで、下級貴族なら王城の使用人として働くことが多いらしい。
昨日の夜も、サラにとって快適な温度になるように風呂の湯の加減を調節してくれたし、ベッドに入ったときに寒くないよう、毛布をほどよく温めてくれていた。なるほど、貴族の娘が王城の侍女として働くにはうってつけの能力と言っていいだろう。
「わたくし、異能とはもっと怖いものかと思っていたのだけれど……そうでもないのね」
サラが呟くと、カトラリーを並べたクレアは少し黙った後、躊躇いがちに口を開いた。
「……難しいところです。私は偶然、日常生活で役立てられる能力を持って生まれました。しかしエルミーヌ様もご存じでしょうが、戦闘に特化した能力を持つ者もおります。そういう者は訓練所で鍛えられ、国軍に加わります。男性だけでなく女性も志願するなら軍に所属し、有事には国を守るために戦うのです」
静かなクレアの言葉に、サラは目を瞬かせる。
(……それも、そうだね。前の国境戦でも、頭数としてはサレイユの方が圧倒的に勝っていたのに、異能持ちの前に敗北した――)
迂闊なことを言ってしまったと気付いて黙ってしまうが、クレアがはっとして顔を青ざめさせる。
「あ、あの、申し訳ありません。エルミーヌ様を怖がらせるようなことを申してしまい……」
「いいえ、いいのよ。わたくしも異能について学ばなければならないと思うし……きっと、異能をお持ちの方でも思うことがあったりするだろうから、戒めになったわ。ありがとう、クレア」
「……もったいないお言葉です」
それでもなおクレアは少し悲しそうな顔をしているので、サラは無理に微笑み、「さ、ご飯の仕度をお願いね」と彼女を促した。
この国に来て既に何度か食事をしているサラだが、食べるもの自体はサレイユとフェリエでそれほど違いはない。少々長さや形状は異なるがフォークとナイフ、スプーンが主なカトラリーだし、ほとんどの食材はサラも見たことがあるものばかりだ。
本物のエルミーヌならともかく、サラは男爵令嬢時代は両親と一緒に市場を歩いたこともあるので、野菜や果物、ある程度の調味料などの名前は知っていた。
それでも、文化の違いにぶつかることはある。
「……あら? これってどうやって食べるの?」
サラが両手に持っているのは、細長い串に刺さった料理だ。
串は中指一本分くらいの長さの短いもので、先端に丸い果実や揚げたパン、丸めた葉野菜や肉を固めたようなものが刺さっていた。
(子どもの頃に下町で食べた焼き鳥に似ているけど……)
あれなら豪快にかぶりついて正解だったが、ここは王城、しかも異国だ。それに、城育ちの王女なら串刺し焼き鳥でさえ見たことがないはずだ。
「ああ、それならそのまま召し上がってください」
「いいの?」
「はい。これはフェリエの伝統料理で、シュリシュといいます。一般家庭から王族まで身分を問わず食べられますが、何を刺すのかは各家庭や季節、そのときの旬のものなどで変わるのですよ」
「そうなのね」
しげしげと手元のシュリシュを見てみる。
一つの串に刺さっているのはせいぜい二種類の食材なので、これくらいなら焼き鳥のように串を歯と平行に持って前歯で肉を食いちぎらなくても済みそうだ。色とりどりのシュリシュが皿に並べられている光景はなかなか可愛らしく、これなら確かに様々なアレンジをして皆で楽しめそうである。
クレアに解説をしてもらいながらシュリシュやパン、新鮮なフルーツジュースを飲んだ頃、隣の部屋で話し声が聞こえてきた。
「殿下が目覚められたのかしら」
「そのようですね。昨夜も遅くまで公務をなさっていたようですし」
「殿下はいつも、夜更かしで朝寝坊をなさるの?」
ナプキンで口元を拭いたサラが問うと、クレアは苦笑して頷いた。
「ええ、たいていは。日中に陛下が作られた資料を夜に殿下が読み、朝までに陛下のもとに返すという流れができるので、わりと効率はいいみたいです。それに殿下は人前に出るのを嫌がられるので、夜間に散歩に出かけられることもありますね」
「なるほど……」
つまりは、昼夜逆転生活とまではいかずとも、サラたちとは少し日々の行動スケジュールがずれているようだ。
(それなら、ご飯をご一緒するのは難しいかな……)
だめもとで問うてみたが、案の定クレアは難しい顔になった。
「難しいでしょうね。そもそも殿下は、お一人で食事されるのを好まれますので。ほら、あの仮面で食事をするのは不可能でしょう」
「そういえばそうね」
リシャールは常に仮面を被っているそうだ。今もサラの寝室に置いている肖像画に描かれていた素顔は、表情さえどうにかしたらなかなかの美男子だと言えるだろうが、本物にお目に掛かるのは難しそうだ。
サラは肩を落とし、椅子に寄り掛かる。
「……少しでも接点を持てたらと思っていたけれど、難しそうね」
「まあ……エルミーヌ様は殿下と仲よくなられたいのですね」
食器を下げつつクレアが少し意外そうに言うので、サラは首を捻って彼女を見やる。
「そんなにおかしなことかしら?」
「いえ……しかし、初日に殿下の方からお言葉があったはずですが、それでもなお接点を持たれようとするのが意外でして」
(……確かに、そうかもしれないね)
初日にリシャールは、邪魔をするなとか、期待するなとか、そういうことを言ってきた。人質王女としてそれなりの待遇はするから、仲よし夫婦になることは望むなと釘を刺してきたも同然である。
(……でも、できることなら少しでも接点を持ちたいし、愛し合う夫婦になれなくてもお隣さんとして親しくなるくらいにはなりたい。そうして……この国でちょっとでも幸せになりたい。できることなら……殿下と一緒に)
無理強いはできないし、したくない。
だが、頑ななリシャールが少しでもサラを見て、近づくことを許してくれるのなら。
サレイユを捨ててこの国に来て、よかったと思えるはずだ。