7 変わり者の王兄殿下
ヒーロー(変人)登場
リシャールの部屋に行く途中、使用人らしき人や離宮の護衛騎士らしき人とすれ違った。
彼らはダニエルに案内されて歩くサラを見るとフェリエ風のお辞儀をし、「ようこそいらっしゃいました」「エルミーヌ様のお越しをお待ちしておりました」と笑顔で言ってくれた。
優しくされると、こちらも優しくしたくなる。
最初は誰かとすれ違うたびにびくっとしていたサラだが次第にそれもなくなり、ごく自然な笑顔で彼らに挨拶を返すことができるようになっていた。
(これも、フェリエの風土……それから、リシャール殿下の人格のたまものなのかも?)
少なくともサレイユでは、使用人がこんなに親しげに王族に声を掛けることはなかった。
王侯貴族が通れば、使用人は廊下の隅っこまで下がって頭を下げるのが当たり前。よほどのことがない限り、使用人の方から声を掛けることも許されない。
(ダニエルが特別気さくなのかと思ったけれど、もしかしてフェリエはこういう雰囲気なのかな……?)
「……フェリエの人は皆、こんなに気さくなのかしら」
小間使いらしい十歳くらいの少年見送ったサラが呟くと、振り返ったダニエルが首を傾げた。
「あれ、こんなものじゃないですか? まあ確かに離宮は殿下の影響もあってあんまり堅苦しい感じじゃないですけど、誰かとすれ違ったら挨拶するのって当たり前じゃないですか?」
「……サレイユでは、使用人の方から王侯貴族に挨拶することはあり得なかったわ」
「そうなんですね。……あっ、ひょっとして僕たちももうちょっと遠慮した方がいいですか?」
「いいえ、このままでいいわ。……このままが、いいわ」
思わず遠い眼差しになってしまう。
そんなサラの心情に気付いたのか気付かなかったのか、ダニエルは少し視線を彷徨わせた後、こほんっと咳払いをした。
「……えっと、この先が殿下の居住階です。あと、王兄妃になられるエルミーヌ様のお部屋もこちらにございます」
どうやら離宮の四階がまるまるリシャールのためのエリアらしく、彼は公務補助も食事も入浴も、この階で済ませるという。たまに異母弟である国王に会いに重い腰を上げることもあるが、基本は四階から移動しないそうだ。相当筋金入りの引きこもりである。
部屋の前には、護衛らしき軽鎧姿の男性が立っていた。彼らはサラを見ると一礼し、ドアを開けてくれる。
その先は小さめのエントランスになっており、いくつか並んだドアを示しながらダニエルが説明してくれた。
「あっちの奥から、殿下の浴室、リビング、寝室、書斎です。そっちの白いドアはお妃用の続き部屋で、エルミーヌ様にはそちらで過ごしていただきます。エルミーヌ様の部屋は殿下の寝室と繋がっているので、お召しがあればすぐに行けるようになっています」
「……は、はい」
……そう、うっかりしていたが、サラはあくまでもリシャールの妃としてフェリエにやってきたのだ。
(つまり、もし殿下からお召しの命令があれば、行かなければならないってことで……)
入れ代わりを受け入れたときから分かってはいたが、いざダニエルの口から聞くと、頬が熱くなってきた。
ダニエルはサラのそんな変化に気付いているはずだがあえて突っ込まず、「それじゃあ、殿下のところへ挨拶に参りましょう」と言って書斎のドアをノックした。
「殿下、ダニエルです。エルミーヌ王女殿下がいらっしゃいました」
「……入れ」
ドア越しに、若い男性の声がした。
(今のが、リシャール殿下……)
なんとなく不機嫌そうな声に聞こえたので緊張するが、立ち止まっていてはいけない。ダニエルがドアを開けたので、サラは深呼吸してから足を踏み入れた。
書斎、と聞いたサラはなんとなく、本棚がたくさん置かれた小さな部屋を想像していた。だが実際に足を踏み入れたリシャールの書斎は少しだけ趣が違っている。
まず、真昼間だというのに部屋が薄暗い。それは壁が灰色で窓にもしっかりカーテンが掛かっているからであり、デスクにはランプの灯りさえ灯っていた。
本棚は中が詰まっているが、本が立てかけられているのは半分ほどで、残りのスペースには観葉植物の植木鉢や何かの標本、手作り感溢れる木彫り細工や何かのパーツなどが並べられている。そのため、本来の役目は本棚ではあるが普通のキャビネットと化していた。
重厚なデスクの向こう側には、革張りの椅子に座ってなにやら書き物をしているらしい人物がいた。俯いているようで最初サラからは彼の少しくしゃっとした黒灰色の髪が見えるだけだったが、顔を上げ――のっぺりした白い仮面に見つめられたため、すんでのところで悲鳴を上げるところだった。
柔らかい前髪が、真っ白な仮面にはらりと掛かっている。仮面はカーニバルで使われるような豪奢なものではなく、白い粘土を人間の輪郭に沿って成形し、口と鼻、目に該当する穴を開けただけのようなものだった。
人間の顔に似せたわけではない、明らかに作り物だと分かる仮面。それによって素顔は一切見えず、前髪を掻き上げる右手がかろうじて人間らしい肌の色をしているのが妙に滑稽に感じられた。
「……君が、サレイユのエルミーヌ王女か」
唇を模した仮面の膨らみは当然のことながら一切動かず、少しだけくぐもった声が聞こえる。その声は先ほど感じたものよりも落ち着いており、口調も穏やかだった。サラのことを鬱陶しがる雰囲気は伝わってくるが、嫌悪などの感情は感じられない。
ダニエルがそっと目配せしたのを感じ、サラは一歩進み出てお辞儀をした。
「……はい。お初にお目に掛かります、リシャール殿下。サレイユ王国のエルミーヌでございます。殿下の妃としてお仕えするべく参りました」
「……顔を上げなさい」
ため息混じりの声で命じられ、サラはちょっと意外に思いつつ顔を上げた。
いざとなったら面を伏せたままやり取りをする覚悟もできていたのだが、リシャールは予想以上に早く「顔を上げなさい」――気を楽にしろ、と命じた。
サラがしげしげと見ているのを仮面の穴から見ていたのか、王兄は持っていたペンを置き、けだるそうに腕を組んで椅子の背もたれに身を預けた。
「……俺は、エドゥアールがどうしてもと言うから君を受け入れる。申し訳ないが俺は君と懇意になるつもりはない。むしろ、俺の邪魔だけはしないでくれ。俺は引きこもりだが、引きこもりなりにやることはたくさんあるからな」
「……」
「基本的な身の回りのことは自分でできるし、何かあればそこにいるダニエルたちに頼む。君にしてもらうことは、特にない。君の生活だけは保障するから、俺のことは適当に放っておいてくれ」
サラは数度、まばたきした。
引きこもりで、変わり者で、人間嫌いの王兄だとは聞いていた。仮面の話も聞いていたし、この部屋を見てもなんとなく趣味が見えてくるようだ。
だが――
(もっと恐ろしくて、冷たい方だと思っていたけれど……)
サラが表情も変えずに黙っているからか、リシャールは仮面の向こうでふっと笑い、腕を解くとデスクに肘を突いた。そんなしどけない動作からもそこはかとない気品と色気が感じられ、さすが引きこもり仮面でも王族なのだと、ついどきっとしてしまう。
「挨拶は以上か? ……さっきも言ったが、俺にもやることがある。後のことはダニエルに任せるから、そろそろ出て行ってくれ」
「は、はい。あの、わたくしにできることでしたら何でもしますので……気が向いたら、でいいので、ご用があれば申しつけてください」
急いでそう告げた。
リシャールは、端からサラを相手にするつもりはない。弟に願われたから渋々受け入れただけで、サラと仲のいい夫婦になるつもりも――そしてきっと、子どもを作る気もないのだろう。
(でも! 私はこの国で幸せになりたい。殿下にとっては迷惑なんだろうけど……冷え切った形だけの夫婦になるのは、寂しい)
「も、もちろん、わたくしは殿下のご意向に従います。しかし父からは、殿下に誠心誠意お仕えするように命じられておりますし……それに」
「……何だ」
「……たとえ父の命令がなくても、わたくしはあなたやダニエルたちと少しでも関わり合いたいです。もう、帰る場所もございませんので」
言ってしまってから、最後の一言は泣き落としのようで余計だったかと反省する。
だが白い仮面は少しだけ動揺したようでぴくっと身を震わせ、そしてそっぽを向くように顔を背けた。
「……君」
「はい」
「……誤解を生まないよう、最初に言っておく」
どこか緊張を孕んだリシャールの物言いに、サラはごくっと唾を呑んだ。
リシャールはそっぽを向いたまま体を起こし、胸の前で腕を組む。
「俺は、君を幸せにすることはできない。なぜなのか、とは聞かないでくれ。とにかく、俺と結婚しても君は幸せになれないのだ」
「……」
「せめて、不自由には感じさせないように手配はする。ほしいものがあるなら、できる限り準備する。……だから、すまないが俺に期待はしないでくれ」
そう言うリシャールの声は淡々としていて突き放すようだが、なぜかサラには彼が仮面の下で悲しく微笑んでいるように感じられたのだった。