50 サラの幸せ①
サレイユ国王はしばらくのあいだ生死の境を彷徨ったが、自分の息子を次期国王とし、フェリエと同盟を結ぶ旨を記した書類に押印して間もなく、失血死した。
僻地に追いやられていた王子はすぐに王城に迎えられ、先代国王の遺言に従って即位することになった。だが事情を聞いた彼は自分ではまだ力不足であると謙虚な姿勢を貫き、フェリエのエドゥアール王に助力を求めた。
フェリエは元々、同盟というのは名ばかりで半ばサレイユを支配するつもりだったが、エドゥアール王はサレイユ新国王の姿勢にいたく感心し、契約違反に基づく賠償金などを当初の予定よりも軽くするという処置をとった。
なお、周りの勧めを受けてサレイユ新国王は妹であるエルミーヌ王女を王家より追放し、平民として生きるよう命じた。これに王女はひどく反抗したが、彼女に同調する重鎮は一人としていなかったという。
エルミーヌ元王女はその後、顔に醜い四本の傷ができたことを嘆き海へ身投げしたとかという噂も流れていたが、定かではない。
ただ、新国王の即位後、彼女と某子爵家を追放された男の姿を王都で見た者はいなかったというのは確かだった。
こうしてサレイユは新しい国王、国王と共に僻地で暮らしていた若き新宰相、そして重傷から奇跡的に復活した騎士団長を中心として、かつて誇った美しい伝統文化を大切にしながら繁栄していくことになる。
サレイユ新国王はフェリエ王との親交を深め、いずれ彼らの子どもたちが幸福な政略結婚をすることで二国間の緊張は一気に緩和されるのだが――それはまた別の話。
「殿下」
「……嫌だ」
「まだ、何も申しておりません」
「君の言いたいことは分かっている。だが、絶対に俺は行かない」
フェリエ王国王城の傍らに建つ、離宮にて。
書斎のデスクには、仮面を被って書類にペンを走らせる王兄が。その正面にいるサラは腰に手を当て、頑として椅子から立ち上がろうとしない彼を説得しようと試みていた。
「せっかく陛下が、戦勝記念の勲章授与式を計画してくださっているのです。主役が欠席してどうするのですか」
最初はダニエルが説得しようとしたが埒があかなかったようで、「お願いします、サラ様!」と泣きつかれたサラに役目が回ってきたのだ。
やれやれと思ってサラはリシャールの説得に出向いたのだが、彼もなかなか頑固で折れようとしない。
「そもそも、そんな式典自体が不要だ。俺は勲章をもらうほどの働きをしたわけじゃないのだから、授与される謂われはない」
「また、そんなことを……悪政に悩まされていたサレイユを救ったのは殿下だと、サレイユの国民も言っているのですよ? 今では殿下のことを、『黒の勇士』と呼ぶほどらしく……」
「やめてくれ、ぞっとする」
本当に嫌らしく、リシャールはそこでやっと顔を上げた。仮面越しなので見えないが、きっと彼は緑の目を三角形に吊り上げてサラを睨んでいることだろう。
「……とにかく、俺は用事がない限りここから出るつもりはない。ダニエルを呼んでくれ。欠席の返事を書く」
「殿下……」
「……嫌だ」
「……私、殿下が勲章を授与される姿を拝見しとうございました」
「……」
「……」
「……ダニエルを呼んでくれ」
「……」
「……そんな目をするな。君の言うことなら……仕方ない。ものすごく嫌だが、出席の返事を書く」
「……殿下!」
ぱっとサラが表情を緩めると、リシャールは頬杖をついてそっぽを向いた。仮面は彼の表情は覆えても、髪の隙間から覗く赤い耳を隠すには至っていない。
「……だが、もちろん君も出席してもらう。君は誰よりも近くで、俺が勲章を授与される姿を見るんだ。君が来ないのなら欠席する」
「ええ、もちろんです。喜んで!」
「……君が喜ぶならそれで十分だ」
ぼそっと呟いたところで書斎のドアが開き、ダニエルが顔を覗かせた。まだサラは彼を呼んでいないのだが、そろそろだと思って様子を見に来たのだろう。
「あ、説得終わりました?」
「ええ、私も行くのなら参加すると言ってくださったわ」
「あー、よかった! もちろん、サラ様用の席も準備しますよ! いやぁ、本当にサラ様には感謝しています! これで僕、陛下からチクチクいじめられずに済みます!」
「……至極どうでもいいことを言うな」
リシャールはイライラしたように言うが、サラがくすっと笑ったからか咳払いし、ダニエルが差し出した返信用の書類を奪うようにもぎ取った。
(……こうして、殿下の側にいられる日が戻ってくるなんて)
相変わらず引きこもりたがる彼を引っ張り出す説得係としてダニエルに頼られるのはどうかと思うが、リシャールはサラの言葉にはちゃんと耳を傾けてくれるし、周りの皆もサラを頼ってくれているのが嬉しい。
「……ああ、そうだ。サレイユから例の書類が届いて、陛下がいち早く確認されていましたよ」
ダニエルが言い、後から書斎に入ってきたクレアから巻物状の書簡を受け取った。
タッセル付きの紐でまとめられたそれを広げてデスクに載せたのでサラも覗き込むと、そこには「エルミーヌ・マリア・サレイユとリシャール・フェネオンの婚姻を無効とする」という旨が書かれ、サレイユ新国王のサインが添えられていた。
リシャールとエルミーヌの婚姻はサレイユ側が原因で、最初から成り立っていない。だから二人は離婚するのではなく、婚姻自体が最初から無効だった、とフェリエは主張し、エルミーヌの実兄もそれを認めた。
同じように「サラ」とフィルマンの婚姻も不成立ということになるので、結果としてサラもリシャールも結婚経験のない独身者ということになる。
かりかりしつつ返事を書いていたリシャールもそれを読むと一気に穏やかな雰囲気になり、安堵の息を吐き出した。
「そうか……よかった」
「ええ、本当にそうですね……」
「君はあの男と結婚したという過去もないし……これで心おきなく君と結婚できるな」
リシャールの柔らかい声に、サラは顔を上げた。それとほぼ同時に、彼のほっそりした指が持ち上がって片手で器用に仮面の紐を外した。
ずらした仮面の下から覗くのは、ほんのり微笑むリシャールの顔。先ほどの名残なのか頬が少し赤く染まっており、細い眉は優しく垂れている。