49 妃殿下の微笑③
信じていた。
優しいのではなくて何も考えていないだけなのだと分かっていても、幼い頃に手を差し伸べてくれた王女はまだ胸の奥にいると、考えていた。
……だが、そんなのはまやかしだった。
優しい王女なんて――最初から、いなかった。
「……エルミーヌ様。私は……」
「えっ……まあ、いやだ。隣の方はもしかして、リシャール殿下? わたくしが結婚する予定だった人?」
サラの隣にいるのが誰か気付いたらしいエルミーヌは、しばし目を瞬かせると――ふわり、とかつてサラが毎日見ていた無邪気な笑みを浮かべた。
「まあ……そう、そうなのね……分かったわ、サラ。あなたのあやまちを全て、許してあげる」
「は?」
「お初にお目に掛かります、リシャール殿下……いえ、これからよろしくお願いします、が正しいでしょうか」
もはやエルミーヌはサラに視線もくれず、リシャールの腕に触れようと手を伸ばした――が、瞬時に彼が腕を引っ込めたため、ずるっと滑ってしまう。
リシャールはそんなエルミーヌを冷めた目で見下ろし、呆然とするサラの腕を引っ張って腕の中に囲い込んだ。
「……俺はおまえに用はない。失せろ」
「まあ、そんなにつれないことをおっしゃらないでください。わたくしは本物のエルミーヌ。そこにいる偽物が長らく殿下を騙っていたようですが……これからはわたくしが殿下の妃として、末永くお仕えいたします」
「いらん。……おい、近づくな。触ろうとするな」
「ちょっと、エルミーヌ様!」
なおも執拗にリシャールに迫ろうとするエルミーヌの気持ちが分からず、サラの頭の中は大混乱状態だ。
――エルミーヌの背後には、瀕死の重傷の父親がいる。既にサレイユ王家は崩壊寸前で、戦闘を終えたリシャールは全身血まみれ状態。
それなのにころっと態度を変え、甘えて擦り寄ろうとするエルミーヌが――もはや、理解できなかった。
嫌悪とか、疑問とか、そういうのを越えて、ただただ解しがたい、未知の生物であるかのように思われる。
リシャールは頭が真っ白になりかけたサラを抱き寄せ、エルミーヌの細い手をぱしん、と叩き落とした。
「近づくな! ……おまえのことは、サラから聞いている。おまえはサラに身代わりを頼んだ分際で、彼女の恋人を寝取ったのだろう! 俺は、そんな女を妃に迎える趣味はない! 妻とするのはここにいるサラだけで十分だ!」
「まあ、何をおっしゃいますか。……わたくしと殿下の婚姻は、既に書類で提出されております。そしてそこにいる侍女のサラは、フィルマンと結婚しているのです。フィルマンは愚かにも、王族であるわたくしの体を暴いた不届き者――そこに愛情なんてありません。建前や体の関係の有無なんて、障害にはなりません。わたくしはもう既に、殿下の妃なのですよ」
(……そう、なんだ)
エルミーヌの言葉に、サラはショックを受けていた。あんまりにも横暴な理論ではあるが――筋は通っているのが悔しい。
今、婚姻誓約書類に書かれている夫婦の組み合わせは、リシャールとエルミーヌ、そしてフィルマンとサラなのだ。女性二人が入れ代わっていたということは抜きにしても、リシャールとエルミーヌの婚姻は成立している。
(それじゃあ、殿下は……)
指先が、冷たい。
リシャールに抱きしめられているはずの体が、震える。
サラは気付かなかったが、エルミーヌはうずくまって震えるサラをにやりと見下ろし――黙りのリシャールの顔を覗き込むと、うっとりとため息をついた。
「まあ……とてもお美しい方だわ。殿下、これまでわたくしの侍女が大変失礼なことをしました。これからはわたくしが父やサラが犯した罪を償い、いずれ御子を生み――」
「……戯言を」
リシャールが、低く唸った。まるで、獣のように――
(えっ……違う)
サラの肩を抱く手の爪が、硬く伸びている。ぞわり、と彼の体から獣の匂いが漂い、薄く開いた口の端から鋭い犬歯が覗く。
さしものエルミーヌも、異様な空気に顔色を変えた。彼女は低いうなり声を耳にして不安そうに辺りをきょろきょろ見回し――やがて目の前のリシャールが徐々に変化している様に気付くと、ぎょっと目を見開いた。
「えっ!? な、何!? 殿下……!?」
リシャールは、何か言ったようだ。だがもうそれは言葉にならず獣の咆哮となり、サラの腕の中から漆黒の獣が躍り出た。
するん、と誰かの上着から脱したリシャールは、サラを守るかのように立ちはだかった。それを前にしたエルミーヌはガクガク体を震わせていて、ぎらりと輝く鋭利な歯を見ると、「ひえっ!?」と叫ぶ。
「ば、化け物! なによ、これ! これも異能なの!?」
「……」
「サ、サラ! なにをぼうっとしているの! 早く、こっちに来て!」
「どうしてですか」
サラは、静かに問うた。自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。
エルミーヌは目を見開くと、のんびりしているサラを見てギリッと歯を噛みしめたようだ。
「こ、このお馬鹿! わたくしを守れと言っているの! わたくしの代わりに、こいつに食われなさいよ!」
――ぱりん、と心の中で何かが粉々に砕ける音がした。
かつて敬愛していた主君は、最後までサラのことを裏切ってくれた。
元主君の言葉に、サラは笑い、唇を開く。
「いやです」
サラが言い、エルミーヌが何かを叫んだ、直後。
黒い影が跳躍し、鋭い爪を振りかぶった。
エルミーヌの絶叫と、獣の咆哮が重なり合う。
赤い血が、弧を描いて宙に舞い、ぱたぱたと床に垂れ落ちていく。
そのままターンしたリシャールは上着の山に体を突っ込み、すぐに人の体に戻った。そしてサラの正面には、顔面からどくどく血を流すエルミーヌの姿があった。
血にまみれているのではっきりとは分からないが、リシャールの鋭利な爪が彼女の顔面を切り裂いたのだった。
リシャールの爪で、頸動脈を掻ききることもできた。
父親と同様に、肺に穴を空けることもできた。
……だがリシャールが彼女に与えたのは、単純な死などではなかった。
自分の容姿に自信を持っていた彼女にとってはきっと、これから先何よりも辛いだろう、深い爪痕を顔に刻んだのだった。
「い、いぁ、痛い! 痛い、サラ、助けて! 痛いの! 顔が、熱い……あああっ!」
「エルミーヌ様! こちらですか!?」
成り行きを見守っていたフェリエ兵たちの制止の声に混じり、さらなる来客の声が響いた。もはや振り返るのも億劫になったサラはその姿勢のまま、口を開く。
「……あなたまで来たのね、フィルマン」
「えっ!? おまえ、サラか!? ……う、わ、あああ! な、なんで、エルミーヌ様が……!」
「……おまえがフィルマンか。会いたいと思っていた」
今の間に素早く服を着たらしいリシャールが立ち上がり、血まみれでのたうち回るエルミーヌの前に呆然と立つフィルマンの隣に並んだ。体の横に垂らした彼の右手は、親指以外の四本の指が真っ赤に染まっている。
……こうして見ると、案外リシャールの方が背が低いことが分かる。
だが、凛とした横顔を見せるリシャールの方が圧倒的に美しかったし、異能の国の王族を前にしてフィルマンは何も言えず、突っ立っているだけだった。
「俺は、フェリエのリシャール。ここにいるサラの夫となる者で――おまえには個人的に恨みがあった」
「は? サラの……ぐえっ!」
リシャールの拳を腹に受け、フィルマンは軽々吹っ飛んだ。
人の姿のリシャールは引きこもり体質な細身の青年で、騎士団に所属しているフィルマンの方が体格でも勝っている。だというのにあっさり倒されたフィルマンはエルミーヌもろとも倒れ、下敷きになったエルミーヌが悲鳴を上げた。
「いって……な、何をする!?」
「なぜ俺がおまえを殴ったのかの理由は、自分の胸に手を当ててよく考えてみろ。……ああ、そうだ。俺はサラを連れて国に戻るが……彼女とはサラという名で結婚するつもりなので、おまえはさっさと『サラ』と離縁しろ。それから、その女は自分でどうにかしろ。まあ、その女はおまえのことを不届き者扱いして、俺と結婚したがっているようだが……全くもって興味がないので、断る。……サラ」
「はい」
リシャールの左手を借り、サラは立ち上がった。
そしてクレインたちが頭を垂れる中、部屋を出ていこうとして――ふと、振り返る。
肺に穴が空いた瀕死の状態で床に転がる、王だった者。
その前で倒れ伏す顔面血まみれの女は、かつて主君だった者。
顔面血まみれ女もろとも倒れて呆然としているのは、かつて恋人だった者。
「……エルミーヌ様。この前の手紙の返事、今ここでしますね」
半分気絶しているだろう女に、呼びかける。
「……私、サレイユから遠く離れたフェリエで、幸せになります。……殿下と一緒に」
だから、これが本当の。
「……さようなら」
サラは、微笑んだ。
威厳に満ちていて、優雅で――それでいて少しだけ哀れむような眼差しで、血まみれの女とその血にまみれて呆然とする男を見下ろす。
(さようなら、過去の私)
リシャールに手を添えられ、サラは前を向く。
もう、振り返ることはなかった。