48 妃殿下の微笑②
最低限の止血のために異能たちが国王を取り囲む中、リシャールはサラの膝に太い前足を載せ、クン、と可愛らしく鳴いた。
「殿下……」
「……ラ」
「えっ」
「あ、ちょっと、殿下!」
リシャールの声がした。
まさか、と思って閉じていた目を開くと、慌てて自分のマントを脱ぎ、リシャールにぐいぐいと被せるクレインが。それでは足らなかったようで、他のフェリエ兵たちもマントや上着を脱ぎ、ばさっばさっとリシャールの上に掛けていった。
「殿下! 妃殿下を慰めたい気持ちは分かりますが……ここで変化を解かないでください!」
「……え?」
「あー、すみません、妃殿下。ちょっとお取り込み中で……わっと、殿下!」
「サラ」
サラがきょとんとしている間に、上着やマントの山からリシャールが身を起こした。
彼は今の間に素早く誰かの上着を着てマントを体に巻き付けたようで、ひとまずはサラが絶叫しないような見た目になっていた。
――そんなリシャールの頬や髪にはべっとりと黒い血が付き、誰かのマントを肩に掛ける手も、まだ乾ききっていない血で染まっていた。
「……サラ」
彼が名を呼ぶ。
そのときに唇の隙間から見えた彼の犬歯も黒く染まっていて、たまらずサラは彼に抱きついた。
「殿下っ……!」
「……。……ご両親のこと、聞こえた。そのようなことが、あったんだな」
サラの背中に腕を回したリシャールが囁いたため、サラはぎゅっと目を瞑って彼の首筋にかじりつきながら、何度も頷いた。
「……た、太后様が、コサージュの記憶を読んで、教えてくださって……でも、まだ信じられなくて……」
「……そう、か。……サラ」
「っ……」
「君のご両親は――君が生まれたことを、絶対に恨んではいない」
リシャールの静かな言葉に、サラははっとした。
とたん、国王の言葉によって蝕まれていたサラの胸に、さっと風が吹き抜けた。
(私はさっき、思ってしまった)
自分のこの顔のせいで両親が死んだのなら……自分なんて、生まれてくるんじゃなかった。せめて、男として生まれればよかった、と。
それは、両親への冒涜だ。実家が謎の経営難に陥っても、両親は絶対にサラを手放さなかったし、自分たちが空腹でもサラだけは満足な食事が食べられるようにしてくれた。
どんなに忙しくても家族で遊ぶ時間を確保し、勉強の道具も準備してくれたし、毎日サラの話を聞いてくれた。
あの日、サラを残して夫婦で馬車に乗ったのも……遠方にいい就職先がある、うまくいったらおいしいものをたくさん食べさせてあげるからね、と言っていたからではないか。
(それなのに、私は……)
「君は、ご両親にたくさん愛されて生まれ育った。俺は、そんな君が羨ましいし……君のことを素敵だと思っている」
「……っ」
「悪いのは、君たち家族を自分の都合に巻き込んだあいつだ。……君は精一杯努力して、足掻いて、誰かのために尽くしてきた。だから、自分を責めないでくれ」
「……殿、下……!」
ぼろぼろこぼれた涙は今度こそ、リシャールの指先で優しく拭われた。
かつてリシャールを母親の呪縛から解いたサラが、まさか今度は彼のおかげで両親の死の事実から立ち直れるようになるとは。
真実を話したときの太后は、苦しそうな顔をしていた。だが、サラが何も知らないまま国王が討たれるより、真実を確かめる機会を与えるべきだと判断し、伝えたのだろう。
そしてきっと……サラが己の出自を恨んだとしても、リシャールがサラの手を引っ張って立ち上がらせてくれると、信じていたはずだ。
(……ありがとうございます、殿下、太后様……)
サラは一度ぎゅっとリシャールにしがみついた後、立ち上がった。目線の先にあるのは、ゼイゼイと浅い息を繰り返す国王。
もう、長くは保たないだろう。異能によって傷は塞がれたのだろうが、リシャールの爪は肺まで到達していたはず。いずれ、失血か呼吸困難によって死ぬだろう。
(……そうすれば、この国は変わる。エドゥアール陛下のご温情により、私がいた頃よりもずっとよくなるはず――)
「……お父様! ああ、なんてことなの……!」
しんみりしていた空気は、突如飛び込んできた甲高い悲鳴によってぶちこわされた。
同時に、振り返らずともその声の正体が分かり、ぞわっとサラの体中の毛が逆立つ。
(ど、どうして今さら!? どうしてここに!?)
「エル――」
「お父様! ああ、お父様ー!」
サラをどんっと突き飛ばしたその人は他の者には目もくれず、血みどろの床の上に横たわる父に駆け寄り、わあわあ泣き始めた。
淡い緑のドレスは、かつてサラがフィルマンから贈られたものと全く同じ。
それを纏い、国王を「お父様」と呼んで絶叫するその人は――
「す、すみません、殿下、妃殿下! 自分が王女だから国王に会わせろと、押しかけてきて……」
遅れて駆け込んできた若いフェリエ兵が言ったため、リシャールは目を瞬かせた。
「……これが本当の、エルミーヌ王女?」
ぽつんと呟いたリシャールは、サラとエルミーヌの後ろ姿を何度も見、ぎゅっと眉を寄せた。
「……似ているのは、髪の色だけではないか」
「そ、そうでしょうか?」
「えっ? その声は……まさかあなた、サラ!?」
ようやくサラたちの存在に気付いたらしいエルミーヌが振り返り、サラと視線がぶつかると途端、愛らしい顔を憤怒に染めてばんっと床を手で叩いた。
「話は聞いたわ! あなた……なんてひどいことをするの! サレイユはあなたの故郷なのに、お父様はあなたの命の恩人なのに……!」
「……サレイユは私の故郷ですが、それとこれとは話が別です。それに……その人は、私の恩人なんかじゃありません」
久々に見えた元主君を前にしても、サラの心は一切動じなかった。
ああ、そういえばこんな顔をしていた。そういえば、こんな声だった。そういえば……こういう話し方をするんだった、とぼんやり思うだけだ。
「あなたはご存じないでしょうが、その人は私の両親を殺し、最初からあなたの身代わりとするために私を引き取り――」
「えっ、なんで知ってるの?」
「えっ」
今度は、サラが驚く番だった。
(知っている? 知っていて、私と接してきたの?)
サラの両親を殺させたのは自分の父だと知っていて、サラに手を差し伸べた。
サラが孤独になったのは自分の父のせいだと知っていて、サラを身代わりにした。
サラに身寄りがない理由を知っておきながら、サラの恋人だったフィルマンを寝取り、「わたくしたちずっと……友だちよね?」などと言った。
もぞり、とサラの中で、何かの芽がうごめく。