43 王兄殿下の出陣
サラたちの出発の日取りは、順調に決まった。
そして戦闘向きの異能持ちたちを集めた軍が組織され、王兄リシャールを指揮官としたサレイユ侵攻作戦が始まる。
「……殿下、見てください。国民が――」
「……ああ」
留守を任せたクレアとダニエルに一旦の別れを告げて馬車に乗り込んだサラは、大通りに出てきた国民たちの方を手で示す。
本日のリシャールは軍の指揮官として、フェリエの伝統的な軍服を纏っている。
生地の色は、快晴の空を映したかのように冴える青色。フェリエ王家の紋章が刺繍されたマントを羽織る姿は優美で、それでいて勇ましい。半年ほど前までは「引きこもり殿下」と呼ばれていたことが嘘のようで、仮面も着けない彼の横顔は凛と澄んでいる。
そして彼の妃として、サラは揃いの青いドレスを着ていた。
ドレスといっても、この日のためにクレアが特注してくれた品は舞踏会用の華美なものではなく、リシャールの軍服のデザインを取り入れてボタンや肩章をアクセントに入れたものだ。生地も厚めでスカートの裾も脹ら脛丈と短く、編み上げたブーツが覗いている。
港へと向かう一行の先頭馬車に乗る王兄夫妻の姿は、国民からもよく見えるようだ。ぞろぞろと見送りの人々が集まり、ざわめきが大きくなる。
……サラは、隣に座るリシャールの拳がきつく固められていることに気付いた。白手袋をはめているが、おそらく手の甲には血管が浮かび上がっているだろう。
今、リシャールの異能の力が明らかになって初めて、国民の前に姿を見せている。これまで慕ってくれた者たちがどんな目で自分を見るか、どんな言葉を掛けられるのか――彼は怯えているのだ。
「殿下……」
「……」
「窓の外、皆の表情を、見てください」
彼の手を握り、自分の腕では短くてやや足りないと分かっていてもリシャールの肩を抱き寄せる。
カーテンの掛かっていない窓からは、大通りに集まった国民たちの顔がよく見える。
彼らは少し警戒しているようだったが、リシャールが顔を上げて窓の外を見た途端――
「……殿下、ご武運を!」
「これまで我々を守ってくれた『黒き獣』は、殿下だ! 殿下に感謝を!」
「リシャール殿下、どうかご無事で!」
殿下、殿下、という声はすぐに大通り中に広まり、大合唱になり、港へ向かう一行を包み込む中、サラはそっとリシャールの顔を覗き込んだ。
リシャールは緑の目を見開き、呆然と窓の外を見ていた。
サラがちょんちょんと手の甲を突くと、躊躇いがちに手を振る。するとわっと歓声が上がり、リシャールを称える声が大きくなった。
(大丈夫です。あなたがこれまで尽くしてきたことは、あなたの決意は、ちゃんと皆に届いています)
「……サラ」
「はい」
「俺は……ずっとこの力に怯えていた。だが――今では、これでよかったのだと思える。こうして、真実を皆に明かし――これでよかった、と思えるんだ」
震えていた声はやがてくぐもり、彼は耐えきれなかったように顔を伏せると、サラの肩に額を押しつけてきた。
肩を震わせる夫を抱き寄せ、その癖毛に指を通しながら、サラは目を閉じた。
(きっと、大丈夫)
サラとリシャールは役目を終えて、この国に戻ってくるのだ。
城を離れる前、太后に言われたことがある。
『これからサレイユに戻るあなたに、伝えたいことがあります』
何事だろうか、と身構えたサラを、太后は少しだけ切なそうな眼差しで見つめていた。
『わたくしはコサージュからあなたの両親の記憶を読み取りましたが……それに関して、追加で分かったことがあります』
コサージュは襲撃の際に壊されてしまい、クレアがかき集めてくれた破片で可能な限り修復してもらった。だがその後も、サラの方から頼んで太后にコサージュの記憶を読んでもらったのだ。
もう少し、両親について何か分かることがあれば、と思ってのお願いだったが、思いがけない真実が見えたそうだ。
……太后の表情は優れないが、頼んだのはサラだ。
だから頷くと、太后は口を開いた。
『分かったのは……ご実家の男爵家やご両親についてです。あなたの実家は経営に失敗して没落し、ご両親は不幸な馬車の事故によって亡くなったということですが――』
十八年間暮らした国である、サレイユ。
サラが約半年ぶりにそこに降り立ったとき、港は異様な空気に包まれていた。
「おお、お待ちしておりました、殿下、妃殿下!」
タラップを降りたサラたちを迎えたのは、ひげもじゃの大男だった。
銀の鎧を身につけており、その胸の紋章から彼がフェリエの異能軍に属する者だとは判断できたが、異能がなくても腕力だけで敵をなぎ倒せそうな巨漢である。
彼を先頭に、二十人ほどの同じ鎧姿のフェリエ軍がおり、サラたちを見ると一斉にその場に跪いた。
隣を見ると、リシャールは小声で「彼は先発隊の隊長だ」と囁いた後、自軍の者たちを見下ろして鷹揚に頷いた。
「ああ、出迎えに感謝する。並びに、港町の制圧ご苦労だった」
「殿下がおっしゃるほどのことではございません。最初こそ臨戦態勢でしたが、一年前の国境戦の影響か、さほど手こずることなく制圧できました」
低い声で述べた隊長は続いてサラを見、厳つい顔をにっこりと緩めた。
「お初にお目に掛かります、妃殿下。ご安心くださいませ。妃殿下の祖国の民たちは皆、我々の説得を真摯な態度で聞き入れてくれました」
「初めまして。制圧、ご苦労でしたが……傷ついた人はあまりいないのですね?」
「おっしゃるとおりです。殿下からも、一般市民や戦意を持たぬ者は傷つけるなと重々命じられておりますゆえ、双方の被害を最小限に抑え、王都への道を確保することに成功いたしました」
(それって……あっけらかんと言っているけれど、かなり大変だったよね……)
さっと港町へ視線を動かす。
どうやらフェリエ軍は他にも町中に散らばっているようだが、それにしても数は少ない。ここに集まっているのが二十名ほどで、事前にリシャールから聞いていた情報によると、先発隊は五十名そこそこだったはずだ。
(この港町は、サレイユで一番の軍港――兵も常駐しているけれどそれでも、数十人の異能には勝てなかった……)
一年前にサレイユが、いかに無謀な戦争を仕掛けたのかがよく分かる。
ひげもじゃ隊長の言うとおり、周囲で争った形跡はほとんどなく、黒煙が立ち上っている様子も見られない。町の中央にある領主館の尖塔にフェリエの国旗がはためいているのを見る限り、異能軍はほぼ無血で港を制圧したということだろう。
(もしかして、力を発揮することはほとんどなかったのかもしれない。それこそ、一年前の国境戦の恐怖がまだ根強く残っているから……)
領主や兵たちの判断は、賢明だったということだろう。このひげもじゃ隊長も相当の腕前だろうし――先の戦いで多くのサレイユ兵を殺したリシャールもいる。港の海が赤く染まらないでいるのはサラにとってもありがたいことだった。
間もなく、フェリエ軍に連れられた中年の男性がやってきた。そこそこ身なりがいいので、おそらく彼がこの港を抱える領主だろうと推測できる。
領主は青ざめているが、やはり暴行を受けた形跡などはない。港が薔薇色に染まってでも戦うより、民たちの安全を優先したおかげだろう。
「お、お初にお目に掛かります、フェリエのリシャール殿下。わ、わたくしめは、この地方を治める領主の、マルセル・レーヌと申します」
「お初にお目に掛かる。フェリエのリシャールだ。……レーヌ殿の判断には感謝している」
「ひっ……!」
リシャールは彼なりに丁寧に挨拶をしたつもりのようだが、敵国の王兄を前にした領主はすっかり竦み上がってしまった。リシャールの倍は生きているだろう彼だが、異能の国の王族とまともにしゃべるのはやはり恐怖が勝るようだ。
がたがた震える領主を見、サラはくいっとリシャールの袖を引いた。それでサラの意志を察したらしい彼が頷いたので、サラは進み出て領主の前でお辞儀をした。
「お初にお目に掛かります、レーヌ殿。わたくしはリシャール王兄殿下の妃であるエルミーヌでございます」
「エルミーヌ……王女殿下!?」
「……先ほど殿下もおっしゃいましたが、港を明け渡してくださったご判断に感謝いたします」
サラは目を丸くしている領主に王女らしい笑みを向け、ひげもじゃを先頭に並ぶフェリエ軍を手で示す。
「彼らから話があったかもしれませんが、フェリエ軍の目的は国王のみ。あなた方には決して手出しをせぬと約束します」
「……お、王女殿下、まことなのですか……? フェリエが、王女殿下が、国王陛下を……」
「ええ、もちろんです。……それと、レーヌ殿。訂正をお願いします」
サラは小首を傾げると、腰に差していた扇子を手にとってぱっと広げた。
「わたくしは王女殿下ではありません。……フェリエの王兄妃殿下、と呼びなさい」