42 もういちど
監獄に入れられていた襲撃犯への拷問の結果、彼はサレイユ人で「王兄妃を殺したら、すぐに自害しろ」と依頼者に命じられていたことが分かった。
彼をフェリエ人だと偽り、そのまま死亡することで真実を闇に葬る。その作戦は挫かれ、サラの告白により全てが明るみに晒されることになった。
また、フェリエに滞在していたサレイユの使者も速やかに投獄され、サラの暗殺計画に荷担していたことも認めた。サラの部屋にあった例の茶缶を調べたところ、使者が言ったとおり蓋にわずかな隙間があり、そこに毒草を挟んでリシャールが茶を淹れる際に落ちるよう仕掛けていたのだと分かった。
そういうことで、またしてもリシャールは本城に留め置かれたため、サラが彼に会えない日が続いた……のだが。
「今日も届きましたよ」
「ありがとう、クレア」
朝食の後、はしゃいだ様子のクレアが持ってきてくれたのは、白いシンプルな封筒。宛名には「俺の妃へ」、裏には「君の夫より」、と素っ気ない字で書かれている。
「……まだ殿下は、サラ様のことを名前で呼ぶのが恥ずかしいみたいですね」
クレアがからかうように言うので、サラは苦笑して封筒から便箋を取り出した。
「そのようね。私としては、皆が本名で呼んでくれてとても嬉しいのだけれど……やっぱり殿下は『君』か『妃』としか呼ばないのよ」
サラが真実を明かした日、国王たちが退室した後の応接間でサラはリシャールに、「これからは私のことをサラと呼んでほしい」とお願いした。
彼には彼なりの主義があったようで、サラのことを「エルミーヌ」と呼んだことがなかった。サラとしてはそれを非常にありがたく思っていたのだが、本名を明かした今、やはり好きな人には名前を呼んでもらいたい。
だがリシャールは途端に赤面し、「努力するから、今は無理だ」と断られてしまった。
彼にとって、サラを名で呼ぶのは非常に恥ずかしいことらしく、ならば文面でもいいから……と思うものの手紙でもやはり、彼はサラのことを「君」という代名詞でしか表現していなかった。
リシャールからの手紙は、毎日朝と夕方に届いている。どれも短くて、「今日もちゃんと食事を摂ったか」「変わりはないか」といったものばかりだが、これまで続けていた「おはようございます」と「おやすみなさい」の言葉を文面でも彼と交わせるので、サラは純粋に嬉しかった。
だが、今回の手紙は少し文の量が多かった。
読み進めることでその理由が分かり、サラはクレアを呼ぶ。
「クレア、これを見て」
「…………なるほど。会議でも話がまとまって、サレイユに向かって出兵することが決まったのですね」
「しかも、異能軍の指揮官は殿下――これって間違いなく、ご本人の自薦よね?」
「そうでしょうね。殿下はサラ様を悲しませた者を一切許さないおつもりですので、意気揚々として名乗り上げるお姿が目に浮かびます……」
(確かに……)
異能の力を受け容れたリシャールは、「黒き獣」として戦うことに対してかなり前向きになったようだ。
サラを助けるため、国民の目の前で獣の姿になったため、言い逃れができないというのもある。
(でも、この状況になったことでかえって、殿下の中で決心が付いたのかもしれない)
国民たちの中では未だに、自らの体を変化させるという昔から嫌悪されていた異能の力への偏見が残っているだろう。
だが――リシャールはそれらも全て受け止め、フェリエ王族として出陣して堂々と獣の姿になると決意したのだ。
(私にできるのは、殿下の決意を肯定し、お支えすることだけ――)
となると、サラが次にするべきことは決まっていた。
その日の夜、やっと会議を終えたためにリシャールが離宮に戻ってきた。
「殿下……お待ちしておりました。おかえりなさいませ」
「……ああ、ただいま」
エントランスで待っていたサラはリシャールが入ってくるなり、彼の長い腕で引き寄せられてぎゅっと胸元に抱きしめられた。
……本城の応接間で真実を打ち明けた際もそうだったが、彼とサラとの距離はかなり詰まっていて、積極的に触れてくるようになった。こうして立ったまま抱きしめられるなんて、数ヶ月前なら想像もできなかったことだ。
(でも……殿下もやっぱり寂しかったし、誰かに甘えたいという気持ちもあるはずだものね)
そう思ってリシャールの髪を撫でると、彼は気をよくしたようにサラの頭に頬ずりしてから身を離し、サラの肩を抱いたままリビングに向かった。
リビングではクレアが茶の仕度をしてくれていた。サラとリシャールは並んで座り、クレアが淹れた茶で一服してから話題を切り出すことにした。
「会議が一段落付いたようですね。お疲れ様でした」
「何ということはない。俺はただエドゥアールの隣で計画を聞き、国王を消す役目さえ与えてくれるなら後はどうでもいいと言っただけだ」
「そ、そうでしたか」
本当に、彼はサレイユ王を消すことに非常に意欲的だ。ここまで積極的なのも驚きだが――よく考えると国王も太后もこの計画には最初から乗り気だったので、フェリエ王族はおしなべて好戦的なのかもしれない。
(っと、そうだ。私の要望も言わないと)
「その計画についてですが……私も同行してもよろしいでしょうか」
「ん? ああ、もちろん構わない」
「えっ、いいのですか?」
もう少し渋られると思ったのだが、リシャールがあっさり頷いたのでサラの方が拍子抜けしてしまう。
「むしろ、君の方から申し出ないのならエドゥアールが打診するつもりだった。君は王女ではなかったが、サレイユ国民はずっと騙されているのではないか。俺たちが上陸すれば間違いなく国民たちは警戒するだろうが、君が加わっていれば皆も多少は落ち着くはず」
「……そう、ですね」
「それに、君はサレイユ王城の内部にも精通している。いざとなったら君の知識を借りなければならないだろう」
「……確かに」
サレイユ王としては、入れ代わり作戦は最後まで隠したがるはず。使者たちは城の牢獄に繋ぎ止めているそうだが、襲撃が失敗したことはサレイユ王も察しているだろう。
今頃いよいよ焦っているのか、それとも次なる作戦に向けて宰相と相談しているのかは分からないが――国民がまだ真実を知らず、王も計画を立て直している今、叩くべきだ。
その際、身代わり王女であるサラの存在は、国民に対する牽制になるはずだ。
「基本的なことは俺がするから、君は隣にいてくれればいい。……といっても俺たちが到着する前に、異能軍の隊長が切り込みを入れてくれるからな。俺も体力はいざというときまで温存しておきたい」
「ええ、それがよろしいかと思います」
サラがこっくり頷くと、リシャールは紅茶のカップを持ったまましばし沈黙し、やがてそれをテーブルに戻してから「君」とサラを呼んだ。
「……本当に、後悔しないのだな」
「それは……フェリエがサレイユに侵攻することをですか? それとも、あなたが王を討つおつもりであることをですか?」
「両方だ」
「……今さらです。全ての元凶はあの王ですし……今の王が倒れ、王子殿下が即位なさることでサレイユの民も今以上に幸せに暮らせるのであれば、何も申し上げることはございません」
国王やエルミーヌには恨みがあるが、男爵令嬢時代に優しくしてくれた人や町の人々、そして意味のない争いに動員される兵士たちのことは同じ国民として大切にしたいと思っている。
サラの言葉に、リシャールはしっかり頷いた。
「もちろん、エドゥアールが向こうの王子と話をした上で、民たちの今後について考えると言っていた。あの子ならきっと、サレイユの民だろうと気を掛けるだろう」
「……はい、ありがとうございます」
「……それと、だ」
そこでリシャールは一旦口を閉ざし、かなり悩んだ末に「俺は」と小声で切り出す。
「……君との婚姻について……今一度、考え直したいと思っている」
「……」
「この政略結婚は、最初から成立していないようなものだ。だから俺は『サレイユ王女・エルミーヌ』との関係をサレイユ側に原因があるとして破棄し――新たに君と結婚したいんだ……サラ」
――どくん、と心臓が鳴った。
彼に、初めて「サラ」と呼んでもらえた。
両親が付けてくれた名を、呼んでくれた。
そして、他でもない「サラ」と結婚したいのだと言ってくれた。
目を瞬かせて沈黙するサラの反応を見てどう思ったのか、リシャールはふいっと視線を逸らすと、腕を組んで明後日の方向を向いてしまう。
「……別に、君が嫌ならただの関係破棄でいい。だが俺は、エルミーヌとかいう見たこともない性悪女と結婚するのは勘弁したい……妃にするなら、サラがいいと思っただけだ。もし君が俺に愛想を尽かしているのなら、無理強いはしない」
「……す」
「うん?」
「……嫌なわけ、ないです!」
感情のまま叫び、リシャールに飛びついた。
まさかサラがそんな行動を起こすとは思っていなかったようで、リシャールは「うわっ!?」と焦った声を上げてのけぞったが、腕組みから解いた腕でちゃんとサラの体を抱き留めてくれた。
リシャールの胸元からは、清潔な石けんの香りがする。頬ずりした胸元は温かくて、ぎこちなくサラの髪を撫でる骨張った指先は優しい。
「……嬉しい、です。でも私、ただの没落男爵家の娘です。それに……『サラ』は、フィルマンと結婚していることになっていますし……」
「いや、それも俺たちのケースと同じだろう。フィルマンとやらが結婚したのは、『サラ』という名だけを借りたエルミーヌ王女だ。言ってしまえば俺もやつも偽の名前の花嫁を迎えているのだから、最初から婚姻が成立していない」
リシャールの言うことはもっともで、サラは目を丸くした。
「……確かに。えっ、それじゃあ私は……」
「裁判にかけても、十分勝つ見込みがあるだろう。……だから君は――『サラ』は何にも染まっていない、結婚歴のない独身の女性だ。そんな君が結婚しようと、阻止する権利は誰にもないはずだ」
「……でも、身分は」
「エドゥアールのような場合だったらそうもいかないだろうが……俺は妾妃から生まれ、王妃に引き取られただけの妾腹の王子だ。王位継承権だって子どもの頃に放棄しているから、俺が誰と結婚して子どもを作っても、フェリエ王家の血筋に問題はない。エドゥアールも近いうちに婚約者の令嬢と結婚するだろうし、その頃には俺も王族から退くつもりだ」
それは初耳だった。
「王家から離れられるのですか」
「そういうことだ。まあ、サレイユの王女を娶るとなると難しくなると覚悟していたが――男爵家出身の君と結婚するならむしろ、心おきなく臣下になれる。……あ、それとも君は、王兄妃の方がいいのか? それなら取りやめるが……」
「いやいや、私の一声でそんな重大なことをころっと変えないでくださいよ!?」
リシャールがサラのことを大切に思ってくれるのは非常にありがたいが、もしサラが「一国の女王になりたい」と言えば本当に、どこかの国を襲撃して王位をもぎ取ってしまいそうだ。むしろ、彼にはそれだけの権力と物理的な力があるのが恐ろしいところだ。
「私は……殿下のお側にいられるのなら、どんな身分でも全然気にしません!」
「サラ……」
「こうやって、あなたが私の目を見て、私の名前を呼んでくれるのなら……それで十分です。これでも私、実家で暮らしている頃は家業や町の人々の手伝いもしていたので、なんなら労働者階級でも平気です!」
「……はは、そうだな。俺も……君と一緒にいられるのなら、一緒に一般市民として働くのもいいかもしれないと思う」
リシャールもくすっと笑い、サラの腰に腕を回して抱きしめた。
「……一緒にサレイユに行こう、サラ。そこで様々な因縁を断ち切り――共に、この国に戻ってこよう」
「……はい。……殿下」
「ああ」
「お慕いしています。……心から」